「ん・・・んん・・・」
目を覚ましたサラディンは軽く頭を振った。
ああ、すごい夢を見てしまった・・・・夢？
ベッドの横には誰もいない。だが、甘い香りはあたりに漂っていた。自分の肌にも、柔らかくて暖かい肌の
感触が残っている。
ヒルデリア・・・・
昨日愛する女を腕に抱いた。
憂いを含んだ金色の瞳は私だけを見つめていた。
初めて目にした美しい身体。
滑らかな白い肌。
私の肌に触れた薄紅色の唇。
ヒルデリアの愛に包まれてこの上なく幸福だった。
いや、あれはヒルデリアであろうはずはない。ヒルデリアが私とあのような事をするはずはないのだ。
あの女神は一人の男しか愛しはしない。
あの気高さを私は愛していた。
その時、一人の女神の顔が浮かんだ。
「・・・・」
あの女、一体どういうつもりであんなことを・・・
私も私だ。別人だと分かっていたのにどうかしている。
肌に残った甘い匂いはしばらく消えることはなかった。
第55話
「あれ、母さんってばまた部屋にいるの」
「んー・・・」
クーリーフンは長椅子に寝そべっているガーベラを見て言った。テーブルの上には花の束が置かれている。
ガーベラは寝そべったままで花を持ち、花びらを一枚一枚引っこ抜いていた。そのせいで長椅子の下には花びらが
散乱している。
「おやおや・・・」
ガーベラはサラディンとの事があって以来、しばらく神殿にこもっていた。勝手に傷ついて落ち込んでいたのだ。
こんな気分のまま他の恋人に会うわけにもいかない。
「今日空の神殿で演奏会があるんだって。気晴らしに行ったら？」
クーリーフンが上からガーベラの顔を眺めて言った。今のクーリーフンは大きくなっている。
「いいよ。私はパス」
「そう・・・僕は行くよ」
「んー」
クーリーフンは部屋を出て行った。
ああ、こういう時に限ってあの子来ないのね。しばらく身体貸してもいいくらいなのに・・・
ガーベラはため息をつきつつまた花びらを引っこ抜いた。
空の神殿の広間では神々が集まり、楽器の演奏の得意な神達も集まっていた。広間には様々な楽器が用意されている。
「クーリーフン、何か弾く？」
ダーナが楽器の側に近づいてきたクーリーフンを見て聞いた。
「たまにはリュートにしようかな」
「これなんかよさそうよ」
ダーナは数あるリュートの中から一つを選んでクーリーフンに渡した。クーリーフンがリュートを受け取り
弦を爪弾いていると「兄様！」と声が聞こえてきた。見るとハロルドの二人の子供達、ジェイクとキュリアが近づ
いてきた。
「やあ」
「ねえ兄様、今度楽器教えて」
キュリアが言うと、クーリーフンは微笑んで「いいよ」と言った。
「ガーベラ母さんはまだなんですね」
ジェイクが広間を見回して言った。
「母さんは来ないんだって」
「そうなの？なんだ。」
やがてアシュランとヒルデリアが広間にやってきて、演奏会が始まった。演奏会はたまに開かれているが、
いつも突然で、それもアシュランの気まぐれによって開催される。気が向いた神々が集まり、素晴らしい演奏に
耳を傾けて酒を飲みあい歓談する、というのがいつものパターンだった。
神々が奏でる音楽に曲目も譜面もない。いつも即興だった。誰かが歌えばそれにあわせて演奏していく感じなのだ。
なのでその日の歌い手によって赴きも違うし、全く同じ曲が二度演奏される事もなかった。
広間の真ん中で演奏されているのを、周りで座っていた神々は酒や果物のジュースを飲みつつ聞いていた。
「今日はガーベラは来ていないんだな」
誰かが小声でつぶやいた。聞き手側の神の中にはサラディンもいた。サラディンはヒルデリアに目を向けたものの
女神達の中にガーベラがいないかつい探してしまっていた。
やがて演奏が終わり、酒や果物が女達によって運ばれてきて、歓談の時間になった。アシュランやヒルデリアは
それぞれ近づいてくる神々と話をしている。今日はヒルデリアも機嫌よく微笑んでいた。サラディンが匿っていた
女神は神殿で子供を産んで出て行った。産まれたのは神ではなく二人の妖精であった。神ならばヒルデリアの目に
触れないわけにもいかないが、妖精は産まれて空の神殿に行く事はない。産まれたのが神ではなかったので、ヒルデ
リアの機嫌も少しは直ったのだろう。もちろん裏ではアシュランがヒルデリアの機嫌をとっていたのだろうが。
「今日の酒はどうだ？」
とたまたま横に座っていたジンラがサラディンに聞いた。
「ああ、うまい。いいなこの酒」
サラディンが言うとジンラは微笑んだ。ジンラとしてはやはり、酒の評判が気になるのだろう。
ジンラの横にクーリーフンがやってきて腰を下ろした。
「アマンザもくればいいのに、いっつもこないね」
「あいつは遠慮深いからなあ」
とジンラ。クーリーフンは杯を持って自分で酒を注いで飲んだ。
「僕はこの前もらったお酒の方が好きだなあ」
「そうか。あっちの方が子供向きだからな。所で今日はガーベラはどうしたんだ？」
「神殿にいるよ。気が乗らないから来ないってさ」
「そうか。」
クーリーフンがちらりとジンラの横のサラディンに目を向けた。すると、サラディンと目が合った。
「なんだ？」
「ううん。別に」
「・・・」
サラディンは席を立つとそのまま広間を出て行ってしまった。
ガーベラの花びらむしりはようやく終わっていた。もうむしる花がなくなったのだ。長椅子の下には花びらと茎が
散らかっていた。はあとため息をついた時、「何やってるんだ？」と声が聞こえて横を向いたガーベラは、
「ぎゃっ！」と悲鳴を上げて飛び起きた。
「サラディン！」
部屋の中に入ってきたのはサラディンだった。
「何しに来たの？」
「この前の事を聞きに。なぜあんなことをした。私はお前に同情されるほど哀れじゃないぞ」
「・・・文句言われる筋合いじゃないと思うけど・・・」
「そうだな。結果的にはお前を抱いてしまったからな。もう同情であんなことはするな。お前の恋人達が
気の毒だ」
ぐ・・・
「抱いてしまったって言うわりには何度もしたくせに・・・よく言うわよ」
「ヒルデリアだと思ってたからだ」
ぐ・・・
「お前はもっと女としての慎みを持った方がいいぞ」
ぐ・・・
「余計なお世話よ！なんでそこまで言われなきゃならないのよ！」
ガーベラはむっとした表情で言った。
「単なる忠告だ。他人のためにあそこまですることはない」
サラディンは真面目な顔で言っていた。
「心配しなくてももう二度とあなたにあんなことはしないわよ」
「誰かに同情されるのは御免だ。だがまあ私の中で一つの区切りにはなった。お前には少しは感謝している」
「そう・・・よかったわね」
ガーベラは頬を引きつらせて言った。
「妻になる女がお前のように湯が好きならいいがな・・」
「妻？」
「ああ、その内妻を娶るんだ」
サラディンがあっさり言った。
「え？」
「ヒルデリアに紹介してもらうんだ。」
「ヒルデリアに？」
「ヒルデリアが良いという女なら、愛せそうな気がする。今はそういう気分だ」
「そう・・・それはよかったわね」
ガーベラは無理に笑顔を浮かべて言った。
「ではな。ガーベラ」
「さよなら・・・」
サラディンは神殿を出て行った。
ああ、こんな事女神である私が言っちゃいけないけど言わずにはいられない。
「ちくしょう！！！」
声を大にして叫んだガーベラは、そのままずるずると身体を長椅子に横たわらせたのだった。
サラディンが他の女に目を向ける気になったのはよかったが、ガーベラにとっては初めての失恋になってしまったよ
うだ。
人間界では３の月に入り、赤い月真っ只中だった。この時ばかりはゆりは寝る間も惜しんでラクシュミと
ラブラブな時を過ごしている。自分を見つめる瞳も熱を帯びているし、ゆりと呼びかける声すらも違う。
抱く時も全然違う。いつもはしない愛撫にも時間をかけてしてくれるし、口付けもいつもの100倍ほどはして
くれる。もし赤い月がなかったら、ラクシュミの事をこれほど愛する事はなかったかもしれない。
ゆりはそう思っていた。
ああ、赤い月万歳！
「お前の肌の蛇が恋しくなってきたなあ・・・」
ある晩ラクシュミがぼそりと言った。ラクシュミは大変化中だ。ゆりは未だに灯りをつけて変化したラクシュミを
じっくり見たことはない。もちろん想像はついているが。
「今回子供ができなかったら、来年にむけて今年から準備しようかな」
ゆりが言った。準備というのは、気をもらって一族の気を高めておくという事だ。
「気をもらうのはいいが、あんまり男といちゃいちゃするんじゃないぞ」
ラクシュミがゆりの肌をなでながら言った。
「お前は私のものなんだからな」
「ああ、王様・・・最高に愛してる」
ゆりはラクシュミに抱きついた。
その頃、アナスターシャ、シス、ラギの3人は城の屋根に座り、赤い月を眺めていた。大人が見るとむらむらする
赤い月だが、子供らにはちょっと不気味としか見えない。
「今年は子供できるかなあ？」
アナスターシャが言った。
「どうかな。母さんの気薄いから無理かもね」
とラギ。
「他の人にも子供が一杯できればいいね」
シスが言った。
「でも赤い月の時ってほんと面白いよね。母様は父様が全然違うって言うけど、母様だって違うよね。頭に
花が咲いてる感じ」
アナスターシャが言った。
「確かにそういう感じではあるけど・・・ちょっと言い方ひどくないかな」
とラギ。ゆりはラクシュミにぼんやりうっとり幸せ〜な感じなのでそう見えているようだ。
「僕は可愛いと思うけどなあ。母様、父様の事すごい愛しまくってるのがわかるから」
シスが言った。両親の仲が良くて子供達もうれしい限りだ。
「僕シス兄に一つお願いがあるんだ。大人になって赤い月に反応するようになったら、一回でいいから変化した
姿見せて」
「え・・・」
ラギのお願いにシスはぎょっとした。
「わ、私もみたーい」
とアナスターシャ。
「みたーいって姉様は姉様で変化するんじゃないの？」
「え？そうなのかな？」
「実は父さんの変化した姿が見てみたいけど、まさか頼めないし・・・そんなこと言ったら母さんに殴られそうだし」
好奇心旺盛なラギとしては、王の変化姿に多大な興味があったのだが、言うに言えなかった。だからその内シスの
変化姿が見たいと思ったのだ。
「いや、僕もその時にならないといいとも悪いともいえないよ。今はよくわからないし・・・」
とシス。第一どう変わるかもよくわからない。
「赤い月なんてまだピンとこないし」
「まあそうだね。女の子達に迫られまくってたじたじになってるシス兄の姿が目に浮かぶなあ・・・」
ラギが笑いながら言うと、シスは渋い顔で口を尖らせたのだった。
ゆりが再び神の国に行ったのは、赤い月が終わり、5日後のことだった。失恋で落ち込んでいるガーベラとは
裏腹に、ゆりは幸せ一杯だ。ルンルンで神殿を出て行き、神殿の外のお花畑で軽やかにスキップした。
頭の中は春真っ只中だ。ちょうちょも飛んでいる。
すると翼をはためかせクーリーフンが飛んでくるのが見えた。
「あら、クーリーフン、今日もかわいいわね〜」
ゆりは笑顔でクーリーフンの両手を取り、横に振った。
大きいクーリーフンは女神の満面の笑みをみて、ガーベラが違う事に気づいた。
「やあ、母さん。どこかいくの？」
「どこ行こうかな。最近誰に会ってないかな？」
「最近母さんは神殿にこもっていたからねえ。あんまり誰とも会ってないよ」
「そうだっけ？」
「近々火の神が妻を迎えるんだよ。」
「え？サラディン結婚するの？てっきり女嫌いかと思ってた。相手は誰なの？」
「豊穣の女神らしいよ。最近大人になった娘の方ね」
「へー・・・そりゃ目出度いわね。結婚したら温泉に入りにはいけないね。もう」
ゆりの頭の中ではサラディンイコール温泉になっている。
「そうだよ。女の子が嫉妬しちゃうからね」
ゆりはちょっと残念そうだった。
「だから湯に入るなら今の内だよ」
「そうね。今から行っちゃおうかな。」
次はいつ神の国に来るやらわからないし、その時にはもう無理かもしれない。
「連れて行ってあげるよ」
クーリーフンは微笑んだ。
もちろんこんな事を言い出したのはクーリーフンなりの思惑があった。
サラディンには悪いけど、僕としては母さんの恋を応援してあげたいんだよね・・・だって失恋した母さんなんて
かわいそうで見てられないし・・・
事情を知らない母さんがなんとかしてくれないもんかな。
ゆりは時々思いもかけない事をしでかすのでクーリーフンはそれに期待していた。
クーリーフンは火の神の神殿の近くでゆりを下ろすと飛んでいった。
ゆりは広間に行ってサラディンに会い、結婚の祝福を述べた。
「結婚するのね。おめでとう」
サラディンはゆりを見ても微笑むでもなく無言だった。結婚間じかで幸せ一杯って感じではないようだ。
せっかくお祝いを述べたのに無反応なので、ゆりはちょっとむっとした。
「奥さんにはそんな顔しちゃだめよ。あなたって一見怖そうだから。もうちょっと笑った方がいいわよ」
「お前何しに来たんだ」
サラディンは眉をひそめて言った。
「結婚の祝福と、最後に湯に入りに。さすがにあなたに妻がいるのにここにふらふら来るわけにはいかないから。
いいでしょ？」
「・・・」
サラディンに鋭い瞳で睨まれた。
「何よ。いいじゃない。もう二度とここには来ないから」
ゆりはこれが最後なので引く気はなかった。
どうやらサラディンは他人が湯に入るってのが嫌らしい。
こんな無愛想な男とよく結婚するもんだ。
女の子に逃げられなきゃいいけどね。
「好きにしろ」
サラディンは投げやり気味に言った。
「どうもありがとう」
ゆりは微笑んで出て行った。
「・・・むかつく女だ・・・」
サラディンはつぶやくように言ったのだった。
「あーあ、これが最後か・・・」
ゆりは裸で湯に入り、足を思いっきり伸ばした。
まあその方がいいかもね。最近の私ったら、ただ温泉に入りに来てるだけだし・・・
ラギに言ったらせっかく神の国に行ってるのに何やってるんだよ、とか言われそう。
両手でぱしゃっと顔にお湯をかけた。
それにここに来るたびにあんな嫌そうな顔されるのも嫌だし。
こうなったら新たな癒しスポットを探そう。
すっかりゆりにとっての神の国は息抜きの場になっている。
そう考えていると、湯の中に何かが入る気配がしたので横を向いた。
「ちょ・・・ちょっと・・・」
そこにいたのは裸のサラディンだったのでゆりは驚いた。
「いいだろ。最後なんだから一緒に湯くらい入っても」
「・・・・」
湯の中に入ったサラディンは女神の裸をじろじろ見るわけでもなく前を向いていた。
まあいいか。この人全然私に興味なさそうだし・・・
思いもかけず混浴風呂になってしまった。
「あなたのそれって化粧じゃないのね」
ゆりはサラディンの肩を見て言った。目元にある赤い筋が肩や胸の方にも見える。てっきり化粧かと思っていたが
肌に元々あるもののようだ。
ゆりは突然胸がぎゅっと締め付けられるのを感じて驚いた。
ん？なんだ？
しばらくするとそれは治った。
今のなんだったんだろう・・・
「ねえ、妻になる女の子ってどんな子？」
「かわいらしい」
「ふーん・・・」
案外その子の前ではでれでれだったりして・・・サラディンは恋人じゃなくて妻なんだ・・・
神々の中では、アシュランとヒルデリア以外にも夫婦関係にある神々もいるようだし、それも珍しいことでは
ない。ガーベラやダーナは相手が複数いるので恋人という事になってはいるが。
神の世界でも離婚ってあるのかな？離婚した話って聞いたことないなあ・・・
神様って不老不死だから、結婚したら永遠に一緒なのかしら。
「彼女はお前みたいにすれてないし」
「え？」
なんだか聞き捨てならないことが聞こえたような気がするんですけど・・・
サラディンを見るとそっぽ向いていた。
何でこの人ガーベラのこと嫌ってるのかしら・・・
まあいいや。どうせ最後だし。
そんなことを思っていると
「ガーベラ、この後、私と過ごしていかないか？」
と言われてゆりがサラディンを見た。サラディンはこちらを向いている。
「どういう事？」
「詳しく言わなくてもわかるだろう」
ゆりは目をぱちくりさせた。
「それって、誘ってるの？」
「ああ」
「あなた結婚するんでしょ？」
「だから？」
「だからって・・・私はそんな気全然ないわよ。それに可愛い新妻に悪いと思わないの」
「そんなこと、男が一杯いるお前に言われたくないな。それに一度は抱かれたくせに」
は？
「もう一度くらいいいだろう。最後だし」
「・・・・」
ガーベラがサラディンに抱かれた？なんで？
ゆりは状況がよく飲み込めなかった。サラディンが身体を寄せてこようとしたのでゆりは横に逃げた。
「こっち来ないで」
「なんでだ？お前は好きでもない男に抱かれても平気なんだろ？」
サラディンに睨むように言われて、その時またゆりの胸が痛んだのだった。
「馬鹿にしないでよ。私はそういう女じゃないわよ！」
ゆりはサラディンを睨んで言った。
「じゃあどういう女なんだ。男に哀れみで抱かれる優しい女神様か？」
サラディンが皮肉げに言った。
「何言ってるの？あなた」
「お前は哀れみだけで私に抱かれたじゃないか。」
「哀れみ？」
「恋に苦しんでる男がいれば、だれにでもああしてやるのか？本当にお前は優しい女だな」
「こんの馬鹿ったれ！」
ゆりはサラディンの言葉を遮るように言った。
「馬鹿ったれってなんだ・・・女神がなんて言葉を使うんだ」
「あなたが鈍いから言ったのよ。私は好きでもない男とそんなことしない。あなたが好きだから
抱かれた決まってるじゃない！」
ゆりはきっとそうに違いないと思い、言い切った。
「好きだから？」
サラディンの目が見開かれた。
「愛があったからそういう気になったのよ。」
「愛？いつからあったんだ」
「何度か会ってる内に・・・」
といいつつも、なんで抱かれる関係になったかはゆりには謎だった。
だが、ガーベラが好きでもない男とそんなことをするとは思えない。
サラディンはちょっと怪訝な瞳でゆりを見つめている。
「あなたが妻を迎えるから泣く泣く身を引いたのに、そんな言い方するなんてひどい・・・あんまりよ！」
ゆりは悲しげに言って横を向いた。
「泣く泣くって・・・いつ泣いたんだ」
「・・・夜中こっそりと」
「さっきえらく笑ってたじゃないか」
「結婚するんだから祝福しなきゃいけないじゃないの」
「・・・・」
「愛する男の幸せを願うのも愛よ」
ゆりはサラディンに背中を向けた。
肩をなでられてゆりはぎくりとした。
「ガーベラ、私のことが好きなのか？」
「う・・・うん・・・」
「本当か？」
「うん」
「そうか、ならいいんだ・・・」
サラディンは手を離した。
「何がいいの？」
顔を向けると、サラディンは打って変わって穏やかな表情になっていた。
「あれ以来お前の事が少し気になっていたからだ。それなのにお前はなんとも思ってなかったようなので腹立たしく
思ったんだ」
「・・・」
「お前はヒルデリアの振りをして私を愛してくれたが、あれが全くの芝居だったのかと思うと、ちょっとむなしく
なったのだ。ただの優しさや哀れみだけであんなことをされたくなかった。気にする自分が馬鹿らしいからな。お前
は私を愛していたからああしてくれたのか？」
サラディンにじっと見つめられていたので、ゆりはこくんとうなずいた。
「本当にか？」
「あなたに会いたかったからここにきてた」
とゆりは適当な事を言った。
「なぜだ。お前には男がたくさんいるのに」
「好きになってしまったものはしょうがないじゃない。」
「・・・なら、ひどいことをさせてしまったな」
サラディンが目を細めて言った。
「罪悪感を感じなくていいわよ。そんな風に言われると、私も困るし・・・」
どうしよう。もう出たくなってきた・・・間違ってたらと思うとどきどきするし・・・
多分、あってると思うけど・・・
「わたしそろそろ・・・・」
ゆりは背中を向けて立ち上がった。
「ガーベラ・・・」
後ろから抱きしめられてゆりは驚いた。
「サラディン！」
「今のお前を抱いてやりたい」
え！
身をよじって顔を見ると、ちょっと切なげに目を細めている。
「あの・・・私に同情しなくていいから・・・」
「私はお前を他の女だと思って抱いたんだぞ。あのままでいいのか？」
「よくはないけど・・・そういう話は後日にしてください」
「なぜだ。」
「・・・抱かれたら私はますますあなたを愛しちゃって困るじゃない。」
冗談じゃないわよ。赤い月直後に他の男に抱かれるなんて・・・・
頼むからそういう話はガーベラにしてちょうだい！
「ますます別れるのが辛くなるでしょ。だから嫌。あなたの妻になる子にも悪いし」
「それなら大丈夫だ。あの話はなくなった」
「え？嘘、いつ？」
「お前が来る少し前にな。幼馴染の男に告白されて、そっちの方がよくなったとかで。だからお前が彼女に遠慮
することはない」
なんだってー！！！
「来い、ガーベラ」
サラディンはゆりの腕を引いて脱衣所の方まで歩いて行った。
ど・・・どうしましょ・・・
愛してると言ってしまった以上逃げるのも変だし・・・
布で身体を巻かれて移動させられた。目の前にでかいベッドがどんとあったのでゆりはぎょえっと口を開けた。
「あ、あの・・・髪乾かさないと・・・・」
「そんなに濡れてないから大丈夫だ」
サラディンは腰から下に布を巻いたまま、女神の体を抱きしめた。
「お前の匂いは好きだぞ。ガーベラ・・・」
「・・・」
どうやらサラディンに好きな人がいて、ガーベラが何かしたらしい。という所までゆりは察しがついた。
サラディンはそのことで罪悪感を感じているようだ。愛していたと告白したのでなおさらなのだろう。
顔が近づいてきたのでゆりはさっと身体を離した。
「どうしたんだ？」
「こ・・・怖い・・・」
「怖い？」
「だってあなたは私のこと愛してるってわけじゃないようだし・・・それなのにそういうことするのは・・・」
「お前は望んでないのか？」
「身体だけの関係なんていやだもん。」
「お前が他の男と全部別れるのなら妻にしてもいいが」
「え・・・そういうわけには・・・」
ゆりは冷や汗をかきそうだった。
ああ、早く向こうに戻りたいよう！誰か私を起こして！
「私としてもお前の男の一人になるのはちょっと抵抗が・・・」
ゆりはベッドに腰を下ろして布で身体を覆ったままちょっと寂しそうにサラディンを見つめた。
「そんな目で見るな」
「うう・・・だって・・・」
「まあとりあえず今日はやめておこう」
「うん」
「服を持ってきてやる」
サラディンは消えた。
よかったけど・・・ちょっと切ないなあ・・・ガーベラのためにもちょっと押しておいた方がいいかな？
あの人案外人がよさそうだしな・・・
「・・・やめた」
このまま寝てしまおう。その内に向こうに戻るだろうし。後はガーベラに任せた方がいいや。
ゆりはそのまま布団の中にもぐりこんだ。
やがて服を着たサラディンが女神の服を持って戻ってきた。
「ガーベラ、寝たのか？」
ゆりはまだ起きていたが、目を閉じたまま反応しなかった。
「お前は緊張感のない女だなあ」
という呆れた声が聞こえてきた。
私もそう思います。ゆりはそう思いつつもそのまま目を閉じていた。サラディンは部屋を出て行ったようだ。
ゆりはほっと胸をなでおろした。お風呂に入った後の気持ちよさもあり、ゆりは本格的にそのまま眠ってしまった。
ガーベラが目覚めたのはそれからしばらく経った夕方の事だった。部屋の中は薄暗い。
あれ？何で裸で寝てるのかしら・・・
ガーベラは体を起こして頭をかいた。周りにある調度品や赤い布を見て、ここがサラディンの神殿であることを
悟ったのだった。
どうしてここに？何があったの？
ガーベラは布団の上に置かれていた服を着て、部屋を出て行った。
広間ではサラディンがヒルデリアと会話中だった。ヒルデリアは実際に来ていたわけではない。広間の真ん中に
燃え盛る炎にヒルデリアの顔が映っていた。
「本当にすまなかった。サラディン。まさかあのような事になろうとは・・・」
ヒルデリアは申し訳なさそうに告げた。
「気にするな。妻にする前でよかった」
サラディンは炎に映るヒルデリアに向って言った。
「その内に違う女神を娶わせるゆえに」
「まあいい、しばらくは。私のことは気にしなくてかまわない。お前はそこで健やかに過ごしていてくれ」
「ありがとう・・・」
「ではな。ヒルデリア」
「ええ・・」
ヒルデリアの姿は消えてしまった。
愛せるかもしれないと思ってはみたものの、実際にその女を愛していたわけでもなく、結婚話がなくなったところで
たいして気にもとめていなかった。
サラディンは入り口の所にガーベラがいるのを見た。ガーベラは隠れていたのだが、金髪が少し見えている。
「ようやく起きたのか？よくあの状況で寝れるな」
サラディンが言うと、ガーベラが顔を見せた。そしてサラディンの元に近づいてきた。ガーベラは伏せ目がちに
何か言いたそうにしている。
「なんだ？」
「記憶がないの」
「ん？」
「夢と現実がごっちゃになってわからない。私、なんで裸でいたっけ」
「お前が私に愛してると告白したんじゃないか」
「え・・・」
ガーベラの目は点になった。
「本当に覚えてないのか？」
「お、思い出した。ちょっとだけ・・・」
なんで告白なんてしたのかしら？？？
「私裸で迫ったっけ？」
裸で寝ていたのでガーベラはそう思った。
「全然覚えてないじゃないか・・・」
「うううう・・・」
ガーベラはサラディンの服をちょっとつまんで引っ張った。
「なんだ？」
「・・・・」
ガーベラはじーとサラディンを見つめている。
「なんなんだ」
「あなたに抱かれたい」
ガーベラは訴えるようにサラディンを見つめた。
「さっきは・・・」
「今は抱かれたい」
「・・・」
サラディンは立ち上がってガーベラを抱きしめて、そのまま一緒に寝室へと移動した。
そしてベッドの上で優しくガーベラを抱いたのだったが・・・
終わったあとガーベラはむすっとした顔をしていた。
「何怒ってるんだ」
「全然違う」
「ん？」
「あの時と全然違う！ひどい！もう傷ついた」
ガーベラはむくれままサラディンに背中をむけた。
「そうだったか？」
「ぐす・・・・」
「別に泣かなくてもいいだろう・・・」
「私のこと愛してない」
「人の気持ちってのはそう簡単に右から左にはいかないものだ。お前は簡単そうだが」
「う・・・ひどい・・・ひどいひどい！」
「・・・私が悪かった。泣くな」
サラディンはガーベラを抱き寄せて優しくなでた。
「全くお前は変な女だな・・・」
サラディンは困ったように言ってガーベラの身体をしばらく抱きしめていた。
するとガーベラはくるりと身体の向きを変えてサラディンの背中に腕を回した。
「ガーベラ、お前一番愛してる男は誰なんだ」
「みんな」
「みんな？」
「順番なんてない。みんな愛してる」
「・・・さっきも言った通り、お前が他の男と全部別れて妻にするのならいいが、お前の恋人にはならないぞ」
サラディンがそういうとガーベラは潤んだ瞳を向けた。
「だからそういう目で見るな。」
「じゃあもうこういう風にはならないの？」
「男女の仲は一対一の方が望ましい」
「あなたといる時はあなたの事しか考えてない」
「それでもだ。」
「じゃあ保留にしましょ」
ガーベラは明るく言った。
「保留？」
「会いたくなったら会いに来る。あなたに他に好きな女ができるまでは。恋人だって公言しなくていいから」
「いや、それも・・・」
「報われない恋に一人もんもんとしてるよりはいいでしょ？」
「別にもんもんとしてない」
サラディンはむきになって言った。
「もう決めたもん。会いに来る」
「・・・・」
なんだか罠にはまった気分だな。
そう思ったが愛情を示されるのもまんざらでもない。ガーベラが自分のことを愛していてヒルデリアの振りをして
抱かれたと思っていたので、今ではガーベラの事をけなげな女だとも思っていた。
サラディンも元々情が深い男なだけに、肌を重ねてしまうと冷たく突っぱねる事などできようはずもなかった。
「こら、お前どこ触ってる！」
ガーベラの手がサラディンの下半身に伸びていた。
「あなたの身体、愛してあげる」
「いい、はしたない女は嫌いだ」
「意地悪」
ガーベラは手を離してしゅんとした。
その顔がまたなんとも悲しげで、サラディンはやれやれと思いつつも、悪かったと謝り、顔を寄せて口付けた。
するとガーベラはうれしそうに微笑んだのだった。
こんな風に反応されると、ちょっと可愛いなどと思ってしまう。
ああ、今度ガーベラの恋人達に出会ったら、どんな顔をすればいいのやら。
新たにくすぶりだした愛の炎はやはり、簡単には消えそうにないと、半ばあきらめかけたサラディンだった。
すすむ