天気の良いさわやかな朝、フリットは仕事で南の砦を訪れていた。朝の朝礼が終わり戦士達が散った後、フリットは将軍の
部屋を訪れた。各砦には将軍の自室がある。仕事部屋なのに大きな棚にずらりと酒が並べられている所などは蛇の国ならでは
だろう。壁には南の地域の地図がかけられ、本がぎっしり入った大きな本棚が３つほど並べられていた。
ナザニエルは椅子に座り、蛇の紋章が入った大きな机でペンを持って書き物をしていた。
「おはようございます。書類どうぞ」
フリットがにこやかに挨拶して書類を渡した。
「ああ、ありがとう」
ナザニエルはそれをめくりざっと目を通した。フリットやミカエル、イシュタールは将軍の補佐もしているが、他に将軍ほどの年齢の
補佐役がいて、将軍が休みの時などは彼らが戦士達に指示を出していた。この国では定年というものはないが、身体がついて
いく限りは皆働いている。先の戦の時などは、引退した戦士達も参加していたほどだ。
「まだエルバートのことが噂になっているようですね」
フリットが言った。朝礼の前、戦士達が集まって話していたのを聞いたのだ。
「シャナーンがどうとか言ってましたが・・・」
「知らないのか？昨日の夜、シャナーンがエルバートに喧嘩をふっかけたんだぞ」
ナザニエルがフリットの顔を見上げて言った。
「え？シャナーンがエルバートに喧嘩をふっかけた？」
フリットはあまりに驚いたので同じ言葉を繰り返していた。
「ああ、なんでも王妃の胸をかけて喧嘩したそうだ」
「え？王妃の胸をかけて？」
フリットは瞬いていた。さっぱり意味が分からない。ナザニエルら将軍らも、エルバートがゆりと入れ替わったことは知っている。
「デマじゃないんですか？さっぱり意味がわかりませんし」
「喧嘩したのは確からしいぞ。昨晩戦士寮に怒りの形相のシャナーンが現れたらしい」
「はあ・・・シャナーンは何に怒ってたんですか？」
「そりゃ、エルバートが王妃と仲が良いという噂が流れていたし、それで怒ったんじゃないのか？」
「シャナーンがですか？エルバートが城にいた理由を知ってるのに？」
「それで王妃の胸で言い争いになったとそれを見ていた奴らが言ってる」
「なんで王妃の胸で争うんです？」
「さあ」
ナザニエルは首をかしげた。ナザニエルも変な話だったのでヴィクターに聞いたのだが、分からなかった。
ヴィクターがシャナーンに事の真相を聞いたがシャナーンは何も答えなかったようだ。昨晩は思念により噂は回りまくっていた。
「あのいつも冷静なシャナーンが怒るとは・・・よっぽどの事でもあったんでしょう」
フリットはそういいつつもどこか変だと感じていた。エルバートにしてもシャナーンを怒らせるようなことをするような性格ではない。
噂もいつも怪しいものだし、シャナーンが怒っていたという事態勘違いの可能性もある。フリットも話半分に思っていた。
「まあシャナーンはなんだかんだ言ってもヴィクターの息子だからな。やっぱり中身はどっか似てるのかもな。そのうち坊主にしたりして。ぷっ」
ナザニエルは独り言のように言って笑った。
「坊主？」
「こっちの事だ」
ヴィクターは昔ミカエルの父親ミハエルとの賭けに負けて、坊主にした事があったのだった。それを思い出したのだ。
「しかし王妃はいつも面白いなあ。次はどんな事をされるのか本当に楽しみだ・・・」
ナザニエルはあごに指をあてて楽しそうに言っていたのだった。
第45話
同じ朝、ミカエルは北の砦でヴィクターと会っていた。
「今日シャナーン来てます？」
ミカエルが聞いた。
「今日は具合が悪いといって休んでる」
「そうなんですか・・・噂の真相を聞こうと思ったのに・・・将軍聞きました？」
「それが聞いたが教えてくれない。昨晩遅くに帰ってきてそのまま寝てしまった。朝聞いても何も教えてくれないし・・・」
ヴィクターは昨晩ロナウドと自分の屋敷で酒を飲んでいた。その時迷走した思念が届いてきてロナウドと目を丸くしたのだった。
「まあ、シャナーンも熱い思いを持ってるって事だな。相手がエルバートだとはなあ・・・ミカエルはもう喧嘩するまでもなかったんだな」
ヴィクターが腕を組んでしみじみ言った。
「もしもし、何言ってるんですか」
「結局はあれだろ？王妃のお気に入りになりかかっていたエルバートに怒ったんだろ？」
「違いますよ。エルバートはまだ王妃とそういう関係じゃないですよ。」
「王妃と身体入れ替えてる内に、互いに愛が芽生えたんじゃないのか？」
「まさか。」
「そうなると面白かったのに・・・」
「面白がらないでください」
ミカエルは渋い顔で言った。
王妃の話になるとそれがどんな話題でも皆目を輝かせて喜ぶのだから困ったものだ。
だが早い内に元に戻ってよかった。とミカエルは内心ほっとしていた。いくら外見はゆりでも、中身が男だと思うと引っ付いて気をあげる
のも微妙な感じがしていたのだ。
そのうち王妃に迫りに行こうっと。
ミカエルはそう思いつつヴィクターの部屋を出て行ったのだった。
その頃ゆりは、ハザークの塔で竪琴を奏でていた。ハザークの侍女と二重奏をしている。
弾き終えた後、ハザークに「どうでした？」と聞いてみた。ハザークは無言で長椅子に寝転んだままゆりを見ていた。
「だって難しいんだもん。これ」
ゆりはテーブルに竪琴を置いた。ハザークの返答を聞く前に言い訳している。
最近楽園の曲を練習していたのだが、かなり高度な曲で指がなかなかついていかなかった。侍女が二人で弾けば、それは美しい
二重奏になるのだが、ゆりが弾くと、楽園を連想するどころじゃない。スキップしている天使もひっくり返りそうだ。
「ですが、かなり腕をあげられましたねえ」
一緒に弾いていた侍女が微笑んで言った。最初の頃は、まともに弾けるまでは100年はかかるだろうと侍女らは本気で思っていた。
侍女らの腕には及ばないにしても、それなりにうまくはなっている。
「そうだよね。この曲を弾くまでになったんだもんね」
ゆりもここまでよく竪琴を続けたものだと自分で自分をほめてやりたい心境だった。何事も、あきらめずにやればなんとかなるものだ。
「そういう言葉は完璧に弾きこなしてから言ってほしいものだな」
ハザークはぼそりと言っていた。
「そのうち完璧になりますよ」
「そのうち・・・後50年はかかりそうだな」
「ハザーク様ったら」
侍女はほほほと笑った。
「生きている内に何とかなればいいんですよー」
とゆり。
「よかったですねえ。元の身体に戻られて」
侍女が話題を変えた。
「うん。あのまま一年とか経たなくてよかったよ」
ゆりはエルバートの身体に入っている間、ハザークには会ってなかったが、侍女には会っていた。ハザークには子供達がわざわざ
話に行ったようだ。
「お風呂に入るたびに恥ずかしかったから、あっちもだろうけど」
「結局、なんで入れ替わったんだ？」
ハザークが聞いた。
「え？子供達に聞いたんじゃないんです？」
「いろいろ聞いたがよくわからなかった。」
「まあ、神様にいたずらされたんですよ」
「ふーん・・・」
「貴重な体験だったけど二度とごめんだなあ・・・」
「王妃はその男と仲がいいのか？」
ハザークがそれとなく聞いた。
「普通ですよ。別に恋人じゃないですよ」
「そうなのか？じゃああれとは？」
「あれって？」
「・・・・」
ハザークはゆりから目をそらせて何か考えるように上を向いていた。
「その間カーライル様はどうなさってたいたのですか？」
侍女が気を利かせて聞いた。ハザークは別にカーライルの名前を忘れたわけではない。聞くか聞くまいか迷っていただけだ。
ちなみに二人が入れ替わっている間、ミルキダスは一度ここに呼ばれていた。例のごとくいろいろ聞かれたミルキダスだったが、
よく分からない事も多かった。
「ああ、カールさん？いろいろ言い合いもしたけど、離れてほっとしたなあ。でもちょっぴり寂しい気もするかも」
ゆりはにこにこして言った。
「ふーん・・・」
とハザーク。
「入れ替わってる時面白い夢みたの。私が二人いて、カールさんと言い合いしてるの。それでね、『二人で同じこと言うな。うるさい』って
言われたの。カールさん結構美形だったなあ。びっくりした。でもあれ夢だから本当にあの顔だかわからないけど・・・」
ゆりは他の侍女が用意してくれたお茶を飲んだ。ゆりの前に座っていた侍女は、ハザークの目がちょっとつりあがっていたので
ひやひやしている。
「顔もえらそうな顔だった。ぷっ」
ゆりは一人で受けていた。
「王妃様は、カーライル様とはその・・・どういう仲で？」
侍女はハザークを気にしつつ聞いた。
「別にどういう仲でもないよ。口げんかする仲？」
「はあ・・・」
「カールさんにも散々いろいろ言われたけど、でも思い出してみれば、ハザーク様にも散々言われたなあ。足短いとか。顔よくないとか」
ゆりがハザークに目を向けると、ハザークは「そんな事言ってないだろう」と言った。
「そうでしたっけ？なんかそのような事言われたような気が・・・じゃあ今はかわいいと思ってます？」
「まあ・・・思ってる」
「まあって何です」
「お前は美人だ」
ハザークがゆりを見つめたまま笑いもせずに言った。
「いや、美人だといわれるとあまりに白々しく聞こえるんですけど・・・」
ゆりはちょっと首をかしげていた。
「せっかくほめたのに」
「かえって微妙です」
「じゃあお前はほどほどに美人だ」
ハザークは言い直した。
ほどほどに美人・・・・
それも微妙だったのでゆりは首をかしげていた。
その日は午後になっても、シャナーンはベッドで寝転んでごろごろしていた。朝顔も洗っていない。何も食べていなかった。
憂鬱そうな顔でぼんやりしている。毎朝定時に起きて身支度をするシャナーンにすれば、かなり珍しい事だった。
扉がノックされて召使の声が聞こえてきた。
「シャナーン様、エルバート様がお見えですが」
エルバート？シャナーンはむくりと起き上がった。
シャナーンがようやく顔を洗い、服を着替えて客間に行くと、エルバートは椅子に座ってケーキを食べていた。
「やあシャナーン」
「・・・・」
シャナーンは頭をぽりぽりとかきつつエルバートの前に座った。
「今日仕事さぼったんだって？」
シャナーンに比べてエルバートはいつもと同じ明るい表情をしていた。
召使がシャナーンの前に酒とパンを置いて行った。
「・・・ぷっ・・・」
シャナーンは寝ぼけたような顔で機嫌が悪そうにしていたのでエルバートは笑っていた。
「何もおかしくないよ」
シャナーンはぶすっとして言った。
「おかしいよ。君のそんな顔、恋人達だって見た事ないんじゃない？」
「・・・・」
シャナーンは酒を杯に注いでぐいっと飲み干した。
「あー自己嫌悪に陥った。昨日のことかなり噂になってるんじゃないの？」
シャナーンは杯を置くと髪をぐしゃぐしゃっとかいて聞いた。
「うん。わけの分からない事になってたよ。シャナーンは酔ってただけだよって言っておいたけど、考えたらシャナーンってお酒強い
もんなあ・・・」
「参ったなあ。まったく。あんなに後先考えずに行動しちゃうなんて・・・」
「からかって悪かったね」
「そうだよ。君がからかうからあんな事になったんだよ」
シャナーンはエルバートを睨んだ。
「あれは君がしつこかったからだよ。」
「やれやれ」
シャナーンはテーブルにひじをついてあごを乗せた。
「面白いなあ。君ってなんで王妃の事になるとそんなに変わるんだよ」
シャナーンは女のために熱くなりそうにない男なだけに、エルバートは不思議だった。
「そりゃあ、愛してるからさ」
「愛ってのは時々感情的になっちゃうものなのかい？」
「そうだよ。多分」
「私だって王妃のことは好きだけど、君ほど想ってはいないよ。入れ替わったのがシャナーンだったらよかったのにね。何せ気づいた時には
王の横で寝ていたんだよ。おまけにフリルがついたピンク色の寝間着着てたんだよ。びっくりするやら恥ずかしいやらで参ったよ」
シャナーンはぽかんとした顔をして、やがて笑い出した。
「しかも王に似合ってたって言われたんだよ？顔から火が出るかと思ったよ」
「あはははははははは。やーいザマーミロ」
「君ね・・・・」
エルバートの頬は引きつっていた。
「王妃はとても素敵な女性だけど、時々予想外な事をしでかしてくれるから私は愛を感じる、とかいう感情までは行き着けないよ。」
エルバートはシャナーンを横目で睨んで言った。
「ふふふ・・・・」
シャナーンは笑っていた。
「思わず想像しちゃったよ。君がフリルがついたピンクの服着てる所」
「想像しなくていいよ！」
「ふふふ」
シャナーンはまだ想像していた。
「思わず、君がフリルのついたピンクの女性用寝間着を着て草原をスキップしてる所を想像してしまった」
「なぜそこまで想像するんだよ」
「エルなら似合うよ」
「君だって似合いそうだよ。」
「君には負けるよ」
シャナーンはすっかりいつもの顔に戻っていた。
「まあいいよ。君はがんばって王妃のお気に入りになりなよ。他に王妃にあこがれる男は多いからね」
エルバートはシャナーンの杯に酒をついでやった。
「昨日は悪かったね。エル」
「こちらこそ」
二人はそう言って微笑んだ。どうやら元の二人に戻れそうだ。
夜になり、夜空には大きな丸い月が浮かんでいた。今夜は満月なのだ。
「王様、今日もなるべく早く来てね。」ゆりに昼間そうせがまれていたラクシュミは、軽くお酒を飲んでから寝室に行った。
昨晩は元に戻ったもののゆりはその気にならなかったようで、今日こそはと気合が入っているようだ。
ラクシュミがベッドの上を見ると、ゆりはすっかり眠っていた。期待満々で待っていると思っていたラクシュミはちょっと拍子抜け
した。
まあいい、寝よう。そう思い横で寝転んで何かに気づいてゆりに身体を寄せた。また鼓動が乱れている。弱弱しくかなり不規則だった。
「ゆり」
前と同じように気が欲しいのかもしれない。そう思い、ラクシュミはゆりを抱きしめて気を送り込んだ。すると、少し鼓動は強くなってきた。
念のために、ラクシュミはアンスターシャとシスを呼んだ。シスはすぐにやってきて、ラクシュミに言われてゆりに気を与えた。
アナスターシャは少し遅れてやってきて、シスの後、気を与えた。
「母様と赤ちゃん大丈夫？」
アナスターシャは眠気がすっかり覚めて聞いた。
「大丈夫だろう。」
念のために、とラクシュミはハザークを呼んだ。ハザークも少しして寝室に現れた。
「悪いな。前と同じで気が大量に欲しいようなんだ」
「そうなのか？」
ラクシュミはアナスターシャとシスを部屋に帰らせた。ハザークはベッドに腰を下ろしてゆりの額に手をあてた。そして気を送り込んだ。
「・・・・なんだ？」
ハザークがラクシュミに聞いた。なぜか自分をじっと見ていたので聞いたのだ。
「別に」
といいつつラクシュミはハザークを見ている。
「？」
ハザークは少し首をかしげた。
「これでいいか？」
「ああ、鼓動も正常になったようだ。」
ラクシュミがゆりに近づいて言った。赤ん坊の気が、前よりも強くなっているのを感じた。ハザークもゆりを見下ろしている。
「なあ、この子供、ちょっと変だと思わないか？」
ラクシュミが聞いた。
「変？どこがだ？」
「今までの子と違うだろ。」
「たまたまだろう。」
「あの子らよりも強いかも」
「そうかもな」
ハザークは淡々としている。別段子供に関して変だとも思っていないようだ。
「何か心配ごとでもあるのか？」
ハザークが聞いた。
「別に・・・」
「そうか・・・」
「この子、男か女か、どっちだと思う？」
「さあな、まだ分からないが・・・女だと思う」
「なぜだ」
「前にザクートが産まれるのが楽しみだといってたからだ」
「そうなのか？」
ラクシュミが少し笑って聞いた。
「あいつが楽しみにするなら女に違いない」
「ふーん・・・そうか。ハザーク、今回はお前がこの子の名前考えろ」
ハザークは目を見開いて不思議そうにラクシュミを見た。
「なんで我が考えるんだ」
「いいだろ。考えろ」
「嫌だ。面倒くさい」
「どうせ毎日長椅子に寝そべってるだろ。いいじゃないか。考えたら」
「ははーん。さては、考えるのが面倒なんだな？もう６人目だからな」
ハザークはにやっとして言った。
「そういうわけじゃない。まあどうせ私よりもお前の方が子守するだろうしな」
「おい・・・最初から決定してるように言うな」
「もう決定してる」
ラクシュミがあっさり言うと、ハザークは呆れたような顔をした。今まで自分を子守に使った王はいない。
「かわいい名前考えろよ」
「お前ってやつは・・・」
ハザークはため息を吐いて去っていった。
ラクシュミはゆりを見つめた。ゆりは眠ったままだ。
まだおなかの子供がハザークと関わりがあると思ったわけではなかった。赤い月にはゆりは自分としか過ごしていないし、赤い月以外の
子供、にしてはかなり力がありそうだ。子供の事はいろいろ不思議だが、一時ほど悩んでるわけでもない。今の王としてのラクシュミの
愛情では、ゆりが自分を愛していて元気で明るくここにいれば問題はないのだ。
まあいいか。今はあまり考えないでおこう。
さて、ハザークはどんな名前を考えるのかな？
ハザークが名前を考えている場面を想像するとおかしかった。ひょっとしたら、今までで一番頭を悩ます事になるのかもしれない。
ラクシュミはゆりの横に寝転んで目を閉じた。
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