第58話
それは日付が新たな年に変わってまもなくの事。その時刻世界はまだ闇に包まれていた。吐息が白くなるほど寒い夜だったが、年の
変わりということもありどの街でも酒場は結構にぎわっていた。
事件が起こったのは北の砦から見て西の方角にある小さな町だった。その町でも、酒場では町の男連中が一年の無事を祝い酒盛りをしていた
のだが、酒場から出たその客達が、夜空を飛ぶ奇妙な物を発見したのだった。大きな翼を持った禍々しい生き物が町の上を飛翔していたのだ。
それは鳥ではありえないほど大きかったので男達は腰も抜かさんばかりに驚いた。その夜は星も月も出ていた。
闇にまぎれているが、確かに大きな生き物がはるか上空を飛んでいる。
「もしや龍じゃないか！？」
「まさか。違うだろう」
「でもよう、じゃあなんだよあれ」
町の者達は龍を見た事はない。が想像していた生き物と空を飛んでいる生き物の姿が似ていた。戦でもないのに龍が蛇の国を飛ぶことはありえない
のだが、とにかく男達はあわてて警邏所に駆け込んだ。町にはそれぞれ治安を守る者がいて何かあれば砦の方に連絡が行く事になっているのだ。
真夜中だったが運よくその時下級戦士が２人町の見回りで立ち寄っていた。話を聞いた戦士は驚いて外に出て、空を見上げた。
そしてあっけにとられたように目を見開いたのだった。
確かに大きな生き物が町の上空を旋回しているではないか。長い首と尻尾があるが鳥ではない。あんな大きな鳥はいない。だがじっくり姿が見える
ほど近くを飛んでいるわけではなかった。戦士達は空を飛ぶこともできるが、近づいて確かめるのは気がとがめた。
龍らしきものには違いない。だが龍がたった一頭で国境を越えてくるというのはありえない事だ。
龍は龍の一族の者達にしたら、この上なく貴重な生き物だからだ。戦には出しても一頭で偵察に行かせるわけはない。
一体どういうことだ？
自分達だけでは判断がつかない。とにかく戦士は思念を飛ばした。その時北の砦にいたのはヴィクターではなくフリットだった。フリットはそんな
ばかなと思ったものの、一応戦士達に調べに行かせた。
そしていち早く町にやってきたのがシャナーンと他の３人の戦士だった。だがシャナーンらがやってきた時には、町の上空には龍の影も形も
見当たらなかった。
戦士達は拍子抜けした表情で「やっぱり龍がいるわけないよな」と言い合った。
「本当に龍が飛んでいたんですか？」
シャナーンも怪訝な顔で聞いた。
「酔ってたんじゃないか？」
とやってきた他の戦士も言っている。皆疑っていた。はぐれ龍が出るなんて話は最近では聞いた事もない。
「酒は飲んでいたんですが酔うほど飲んでないですよ。本当なんですよ。あれは龍でした」
戦士はそう主張した。
「それで龍はどこかに飛んで行ったんですか？」
「それが、目で追っていたんですが、突然ふっと消えたんですよ」
「やっぱり酔ってたんだろう」
「違いますよー本当なんですよー」
戦士は涙目だった。
「とにかく、町の周りを見てみましょう。あなた達はここにいてください」
シャナーンは他の３人と町の周りや近くの森などを調べることにした。そして、森の中にある小さな湖の上に、奇妙な物を発見したのだった。
それは龍ではなかった。ゆらゆらとゆらめく青白い物で、とぐろを巻いた巨大な蛇だった。それを見つけたのはシャナーンではなく他の戦士で、
その戦士が皆を呼び、湖の周りに集まったのだ。その時あたりはうっすらと霧に覆われていた。蛇はゆらゆらと胴体をくねらせている。
美しい蛇だった。
「あれはなんだ？蛇霊神？」
「いえ、違いますね」
シャナーンは何度も間近で蛇霊神を見ている。それと目の前の青白い蛇は違うと感じた。
ーあれはただの幻ー気をつけてください。どこかに敵がいる！
幻ならばあれは敵が作り出した物に違いない。
シャナーンも他の戦士達も敵の気配を探った。
ーもしかして龍とこれは何か関係があるのか？
ーさあなあ。だがなぜこんなまねを？
ー霧が濃くなってきている・・・
あたりはいつの間にか真っ白だった。すぐ近くの物も見えないほどに。湖の上にいる蛇さえももう見えない。
ーここから逃げてください！
霧に不吉な物を感じたシャナーンはあわてて思念を送り自分も飛ぼうとしたのだが、足が地面に吸い付いたように動かなかった。
その時、誰かからの思念を聞いた。
相手は誰かは分からない。内容はまったく思い出せない。とにかく何かを聞いたのだ。
シャナーンはわずかに敵の気配を感じた。移動はできなかったが力を飛ばした。低い悲鳴のようなものが聞こえてきた。草むらにどさりと何かが
倒れる音も。
その後どれほどその場に立っていたのか。随分いたような気もするしほんの数秒だったような気もしていたがよくわからない。
「シャナーンどうかしたのか？」
後から様子を見に来たミカエルに肩に手をあてられて、シャナーンははっと我に返った。
「おい、どうしたんだ？」
「え・・・別に・・・敵は？」
シャナーンはぼんやりミカエルを見ながら聞いた。
「あっちに伸びてたぞ」
ミカエルは湖の向こう側を指さした。周りを見るとすっかり霧は晴れていた。幻の蛇もいなくなっている。
「なんだかぼんやりする・・・」
シャナーンは頭をぶるぶるっと震った。
「おいおい大丈夫か？龍がどうとか言ってたが、大きな鳥と勘違いしただけなんだろ？どうせ」
「わかりません。龍じゃなく蛇は見ましたけど・・・」
「まあとにかく後は任せて今日はもう帰って寝ろ。お前達も」
ミカエルは先に来ていた戦士達を帰らせた。
頭の中を濃い霧がかかっているかのようだ
なんだか大事な事を忘れてしまったような気がする
その日の朝、シャナーンは自分の屋敷の食堂で遅い朝食を食べた。朝といってももう10時過ぎだった。帰ってきたのが３時過ぎだった。
その後寝たのでこんな時間になっていた。
食後の紅茶を飲んでいるとあくびをしながらヴィクターが入ってきた。こちらは朝まで誰かと飲んでいたのだろう。シャナーンが帰って来た時
ヴィクターは屋敷にいなかった。
「昨日変な事があったんですよ」
シャナーンはヴィクターに龍の話をしたのだった。
「飲みすぎて大鷲か何かを見間違えたんじゃないのか？」
ヴィクターは笑っている。
「大きさが違いすぎますよ」
その時召使の女性が花束を手に食堂に入ってきた。
「シャナーン様、花屋が頼まれていたお花を届けにきましたよ」
「ああ、どうも」
シャナーンは花束を受け取りテーブルに置いたものの首をかしげた。
「あれ？花なんて頼んだかな？」
ピンク色の花で作られた花束で、かわいらしい物だった。
おかしなことに花を頼んだ記憶がない。
「間違いじゃないかな？彼女らには花束が一個じゃ足りないし・・・父さんが頼んだんじゃないんですか？」
シャナーンはヴィクターを見た。
「いいや。私は直接家まで贈ったぞ。一個なら王妃にあげようと思ったんじゃないのか？」
「王妃？」
シャナーンはぼんやり宙を見上げた。
王妃・・王妃・・・王妃・・・
「休みだから王妃に会いに行こうと思ったんじゃないのか？」
「王妃・・・」
シャナーンは小さな声でつぶやいた。そして真顔でヴィクターに聞いたのだった。
「王妃様はなんという御名前だったでしょうか？」
「なんだ忘れたのか？いつも王妃としか呼んでいないからな。ゆり様だぞ」
「ユリ様・・・どんなお顔でしたでしょうか？」
「は？何言ってるんだ？」
スープを飲んでいたヴィクターが顔をあげた。
「思い出せないんです」
ヴィクターはよく冗談を言うがシャナーンはかなり真面目で、こんな冗談を言うタイプではなかった。その事は父親であるヴィクターがよく知っている。
「どこかで頭でも打ったのか？」
「いいえ」
「本当か？頭見せてみろ」
ヴィクターは席を立ち、シャナーンの頭をなでてたんこぶがないか調べた。そして額に手をあてた。
「別に熱はないし・・・王妃の事が本当にわからないのか？」
「いつ王妃になられたのでしたか？」
「こりゃ重症だ」
シャナーンはすっかりゆりに関する記憶をなくしていた。
その頃、戦士寮の食堂でもおかしなことが起きていた。食事を食べてくつろいでいた戦士が、壁にかかっている肖像画を見て「あれはだれだろう」
と言い出したのだった。その時他に戦士はいなかったが、掃除をしている中年の女性が一人いた。
「ねえ、おばちゃん、あれは誰の肖像画だっけ？」
戦士は中級戦士で名前はザイといった。黒髪だがほんの少し髪が生えているだけで坊主に近い頭だった。頭に蛇のうろこの模様があるので
そうしていたのだ。ちょっととぼけた顔立ちの若い男だった。
テーブルをふきんで拭いていた中年の女性は「あんた何ばか言ってるのさ」とザイを睨んだ。
女性は一族の女性ではないが長年食堂の管理をしている女性で、戦士らにも対等に接していた。
「仮にも王様に向かって誰だっけなんて冗談、失礼極まりないよ。わたしゃそういう子はキライだよ」
「いや、冗談じゃないよ。真面目に聞いてるんだよ」
「王様が分からない戦士がいるわけないさ。そりゃこの絵は似てないかもしれないけどね。わたしゃ王様にじかに会った事もないけどさ、似てなくても
王様は王様さ」
「王様？この方が王様」
「王様だよ。王様」
「王様？王様・・・そうだよな。でも王様ってこういう顔だっけかな。あれ、王様なんていたのかな」
ザイはしきりに首をかしげている。元々とぼけた顔をしている男がさらにとぼけていたので、おばちゃんは心配になってよってきた。
「あんた頭でもぶつけたんじゃないのかい？病院にいきな」
「湖で蛇を見た４人がそろって一部記憶喪失になったって言うのか？」
王の間で声を発していたのはラクシュミだった。『王様』の記憶がないのはザイだけではなかった。他の２人の下級戦士も王様のことがわからないと
言い出したのだ。こうして変な記憶喪失の男はシャナーンを入れて４人になった。４人とも昨晩龍が現れたといって先に駆けつけた戦士達だった。
それを知りヴィクターがラクシュミに報告に来たのだ。横には医師のフレイもいた。フレイは４人に会っている。
「どういうことだ？なんで私のことを忘れるんだ？シャナーンだけなぜゆりなんだ」
「その前に、謎の龍なんですが・・・多分幻術か何かでしょうな。湖の上に浮かんでいた蛇とやらも。きっと戦士らをおびき寄せるためにそうした
のでしょう」
フレイが言った。町にいた戦士も、町の者達も、龍らしき物は見たが、龍の咆哮は聞いてはいない。見ただけだ。
「我々は蛇には警戒心を緩めてしまいますからな。そして霧。ミカエルらが行った時霧はなかったそうですから、それも幻術の一部でしょう。
4人ともきっとなんらかの暗示にかかってしまったのですよ。霧は暗示がかかりやすくする作用があるものだったのかもしれません」
「暗示？記憶をなくすように？敵にとってどういう意味がある」
「記憶をなくさせる事が目的ではないでしょう。思い出した時に何かが起こるのでは？」
フレイの言葉にラクシュミは眉をひそめて「嫌な予感がするな」とつぶやいた。
「年明け早々面倒な事をしてくれる。どうせろくな暗示ではないだろう。それでなんでシャナーンだけゆりなんだ？」
「愛する者を忘れるようにとの暗示ならばどうですか？それならば説明がつきますよ」
ヴィクターが言った。王に対する愛は、家族に対する愛よりも勝ると言える。王以上に愛する恋人がいれば別だが、元々この一族は
異性に愛情を注ぐという事に乏しい一族だ。王以外に心底愛する者がいる者の方が貴重だ。
「それで思い出したら殺すとかいう暗示なのか？きっとそういう類のものだろう」
「まあ敵は死んでしまったのでわかりませんが、そのようなものでしょうな」
とフレイ。
「まったく面倒な事をする・・・」
ラクシュミは一人ぶつぶつつぶやいた。
ヴィクターはその足でゆりの元を訪れて、ラクシュミに報告した事をゆりにも言ったのだった。
ゆりは口を少し開いてぼんやりした顔をしていた。驚きすぎてこうなってしまったようだ。
シャナーンが自分の事を忘れてしまった。しかも、思い出したら何かがあるかもしれない。その何かはかなりの確立で嫌なことだ。
「ねえ、暗示なんだけどね、どうせなら自殺しろっていう暗示の方がよくない？その方が確実に殺せるでしょ？」
ゆりの左目は蛇の目に変わっていた。なぜそんなまだろっこしい暗示をかけたのかがよくわからなかった。
「忘れさせて、その上さらになんて・・・」
「たとえばそれぞれ恋人がいたとして、『愛する者の事を思い出したら殺せ』という暗示でしたら、恋人を殺してしまったら自分も生きる
気力を失い自殺してしまうのかもしれないですよ。その場合死体は二倍になるわけで」
「そりゃそうかもし.れないけど・・・なら『愛する者を殺せ』だけでいいんじゃない？」
「フレイ殿の意見なんですが、もしかしたら、記憶喪失は自己防衛だったのかもしれないですよ。『愛する者を殺せ』なら愛した相手のことを
忘れてしまえば殺さなくてすむ」
「うーん・・・その場合二番目に愛する相手は標的にはならないのかなあ。ちなみに将軍の一番はだあれ？」
「王ですよ」
「そうなの？」
ゆりは意外そうな顔をした。
「そうですよ。口には出さなくても皆そういうものだと思いますよ。王あっての我々ですからね。シャナーンの王妃に対する愛はそれを超えてるん
ですね。すごい事ですよ」
「そうかな。まあそうかもね」
敵がどういうつもりでそんな暗示をかけたのかは謎だが、愛する相手を殺せというものならば、そういう暗示自体失敗だろう。戦士が王を
殺す事なんて不可能だ。それともまさか３人とも相手が王になるとは思わなかったのかもしれない。一般的常識では、大人の男ならば誰でも
愛する女の一人はいるものというものなのだろう。実際にシャナーンが忘れたのはゆりなのだから。恋人ならばすぐ会う確立も高い。
暗示など使わずにすぐに殺せばよかったものを、とも思うが、力仕事は苦手な敵だったのだろうか。
左目は黒目に戻った。
「じゃあ、どうなるの？シャナーンには会えないの？」
「とりあえず王は３人にお会いになるようです」
「え？大丈夫なの？」
「大丈夫ですよ。王が彼らにやられるようじゃ、この国はおしまいですよ」
「そりゃそうだよね」
とゆりは納得した。
こうしてその日の夕方、シャナーン以外の３人の戦士が王の間にやってきたのだった。念のためラクシュミの横にハインリヒも立っていたし、
観察のためにフレイもいた。ヴィクターに連れられて王の間に入った３人はラクシュミの顔を見て「あ、王だ！」と声をあげた。
「思い出したのか？」とヴィクターが聞くと、３人とも笑顔で「はい」と言った。
「一体どうして忘れたんだ？」
「分かりませんが・・・なんだか霧がぱっと晴れた気分です」
「どうして王のことを忘れていたのかさっぱりわかりません」
「一体何が起こっていたんだろう？」
戦士達は首をかしげていたが、それはラクシュミらも同様だった。
「敵に何か言われたんじゃないのか？」
「・・・・わかりません」
「私も・・・」
「思い出せません」
ーなんだ？何も起こらないぞ
てっきり何か起こるだろうと身構えていたラクシュミは拍子抜けしていた。
思念を受けたフレイも「さあ」と言って首をすくめた。
ーどうしましょう？
ヴィクターがラクシュミに聞いた。
ーとりあえず、それぞれしばらく監視するのがいいんじゃないか？
ーそうですね。そうしましょう
３人とヴィクターは王の間を出て行った。
「何もなかったですねえ」
ハインリヒはちょっとつまらなさそうに言った。
「まあ何もなくてよかったが・・・・私の顔を見て記憶が戻ったんなら、シャナーンもゆりを見たら思い出すんじゃないのか？合わせるか？」
「あの３人の様子を見てからにしましょう。まだ何があるかわからないですし」
「あの・・・催眠術か何かをかけて、その暗示の内容を探ることはできないんですか？」
ハインリヒが遠慮がちに聞いた。
「それが得意な者がいなくて・・・・」
「そうですか。王ならばできるのではないんですか？」
「私か、やってみてもいいが・・・」
ラクシュミはあごをなでた。
「もし二重に暗示がかけられていると、口に出したとたんに舌をかんで死のうとしたりする場合がありますよ。昔そういうことがありましてなあ」
「その時はどういう暗示をかけられていたんだ？」
ラクシュミがフレイに聞いた。
「はて、なんだったかな？わしが若い頃の話でしたからな・・・そうそう、敵が占い師に化けて、占いに来た女性に暗示をかけたんですよ。
相手の男が浮気をしていると信じ込んだ女性は相手の男を殺そうとしたんですよ。その時は一族の者は引っかからなかったんです。町の女性が
被害に遭いました」
「そうなのか」
「複数の者に同時に暗示をかけるというのは難しいですよ。それこそ魔術師でもないと。それほどの魔法を使える者は、普段はそうそう
やってこれませんからね。もしかしたら暗示の途中で敵が死んでしまったのかもしれませんなあ」
フレイは最後にそう言った。
その頃シャナーンは自分の屋敷にいた。外出禁止になってしまったので屋敷内でじっとして客間で本を読んでいる。
向かい側の長椅子では黒い服を着た黒髪の男が横になっていた。見るからに退屈げだ。
男はミカエルだった。シャナーンの監視を命じられてしまったので仕方なくずっと一緒にいたのだ。
シャナーンがちらりと見ると目が合った。
「どうもすいませんね、年明けそうそう」
「まったくだ。あの３人は王に会ったが何もなかったようだ。だが記憶は戻ったそうだぞ」
「そうなんですか」
ミカエルの元にはラクシュミから思念が届いたのだった。
「記憶をなくしたのはなんだったんだかよくわからんな。お前も王妃に会ったらすぐ思い出すのかな」
「・・・・」
「思い出したいだろ？」
「わかりません。ですが会うのが怖い気がします。もし何かしてしまったらと思うと・・・・」
シャナーンは視線を伏せた。
「あいつらには何もなかったからもしかしたら何もないかもしれないぞ」
「何かあったら困るじゃないですか」
「そりゃ２人っきりではあわせないさ。たとえ何かあっても未然に防ぐ」
「怖いんですよ」
シャナーンは本に視線を戻したものの、実際には文字の内容はさっぱり頭に入ってなかった。
一体あの時何を言われたのか。さっぱり思い出せない
霧の中、何かを言われたのだ。そして誰かの顔が心に浮かんだ
その人は笑っていた。あれは王妃の顔だったのだろうか。だがその顔は思い出せない
その時暗示をかけられていたとしたら、一体どんな内容なのか思い出せない
頭の中に、濃い霧がかかっているかのように思い出せない
王妃に会えば全てを思い出すのだろうか
思い出した時一体何が起こる？
ミカエルは沈んだ表情のシャナーンをじっと見つめていた。
それから数日経っても、３人の戦士達は変わった様子もなかった。ただあの夜の湖の事は思い出せない、それだけだった。シャナーンもいつもと
変わらない。ただゆりのことを忘れてしまっただけだ。ゆりの記憶がない事は、今のシャナーンにとって仕事でも生きていく上でも支障は
まったくなかった。
ただ、前とどこかが違うだけだ。
２の月に入ってもシャナーンのゆりに対する記憶は戻らなかった。以前との差を敏感に感じていたのはやはりシャナーンの彼女達だったろう。
シャナーンは以前よりもさらに近寄りがたくなってしまった。以前ならば、ゆりと出会っただけでご機嫌になるという分かりやすい所があったのだが、
それがなくなったのだ。笑顔を向けたとしてもそれは心からの明るい笑顔ではない。ただの愛想笑い程度のものだった。元々彼女らはシャナーンが
選んだわけではない。子供の頃に周りに相手は決められていた。彼女らはシャナーンに多大な愛を感じてはいたがシャナーンが彼女らをどう思って
いるのかは謎だ。彼女らもそんな事は怖くて聞けない。
「シャナーン様なんだか別人になってしまったようよ」
ある夜、ロナウド将軍に娘が言った。娘はシャナーンの彼女なのだ。
「別人？そんなに違うのか？」
「違うわ。シャナーン様は王妃様を中心に回っていたようなものなのね。それがよくわかったわ」
「そうなのか？よくわからんが・・・・私が会った時は別に普通だったぞ。前と違うとも思わなかった」
「お父さんは鈍いから」
娘はため息交じりに言った。
「まだ事が終わってないから不安なんだろう」
「それもあるだろうけど・・・」
シャナーンという人間は、元々仲間達と楽しく和気藹々とお酒を飲むタイプでもない。子供の頃も、友人と遊ぶよりは一人勉強しているような
そんな少年であった。幼い頃からどこか孤高の存在であったのだ。同じ世代には自分よりも力が強い存在がいなかったせいもあるかもしれない。
とにかく余所見をせず強くなることだけに専念していた。他に気になることといえば、王妃の事だけだった。王妃を愛するということがなければ、
異性にもさほど興味を示さなかったかもしれない。
以前ならば、ご機嫌の時ならば彼女達にお世辞の一つや二つも言ったのだが、今ではそれも全くなくなった。世間話をしても真面目な返答を返すだけ。
今では王妃の話題は禁句になってしまったが、以前は王妃の話題を出すだけで、シャナーンの頬が染まったりと、かわいい部分もあったのだ。
彼女達はそんなかわいいシャナーンを見るのが好きだった。
外見も美しく、強い上に何でもそつなくこなす、それがシャナーンだったのだが、『王妃を愛する』というパーツが加わることにより、シャナーンを
親しみを感じる男に変えていたのかもしれない。
今のシャナーンは人間としての面白味に少々欠けるのだ。
一月以上が過ぎて、ラクシュミからシャナーンに「そろそろゆりに会ってみるか？」と打診があった。するとシャナーンは「もうしばらくはー」
と断った。そうこうして３の月に入り、赤い月に突入したのだった。
シャナーンも例年通り彼女達と過ごした。一人二晩づつで、二日は休憩日になっている。
それは去年となんら変わらなかったのだがー
彼女らは皆不思議な感覚に陥ってしまった。赤い月でも、シャナーンは別人のようだった。
以前と違って優しくない、ということではない。
優しいのだが、義務だけのために優しくしている、そんな気がした。変化した瞳は最後まで冷ややかだった。その瞳が気になってしまい、
彼女らの方は上手く変化できなかった。
「今年は皆さん変ですね」
シャナーンは彼女らにそう言った。
以前ならば感情が交わる瞬間があったのに、今年はそんな瞬間はなかった。身体は一つになっても心は遠く感じた。シャナーンは
王妃を愛していても、赤い月にはそれなりに彼女らを慈しんでいた。彼女らはだから、赤い月を毎年楽しみにしていたのだ。
愛と義務のちょうど真ん中にあったシャナーンの感情という針が時々赤い月には愛よりに傾いていたのだが、その針は今年は義務よりになって
しまっただけ、簡単に言えばそういうことなのだが、彼女らには寂しいことだった。
王妃を愛することを忘れて、愛という感情すら忘れてしまったのだろうか。
やっぱり王妃様がいてこそのシャナーン様なのね。そういうシャナーン様を好きでたまらなかったんだわ
彼女達はそう再認識してしまったのだった。
一方ゆりは、ラクシュミと当然今年も赤い月を過ごしたのだが、今年はなんだか腑に落ちない事があった。
なぜか毎晩頬をつねられたり引っ張られたりしたからだ。跡が付くほど強く引っ張られたわけではない。ことあるごとにぷにっと軽くつねられた。
それはどちらのゆりの時もだった。
「どうしてつねるの？」
そう聞くと、「さあ」という答えが返ってきた。さあ、といいつつ両方の頬を引っ張るのだからよくわからない。
何度も引っ張るものだからゆりの頬は両方まっかっかになっていた。殴られたわけではないのでゆりも、「怒っているのでは？」とまでは
思わなかった。
今年の王様はなんだか変だったなあ。それよりもシャナーンのことはどうなってるんだろう・・・
どちらのゆりもずっとシャナーンのことは気にかけている。そのせいか、今年の赤い月は燃えまくるほどはいかなかった。
どうせならすぱっと会いたいのだが、シャナーンの方が恐れているようだ。
城にも全く寄り付かないらしい。自分から勝手に会いに行くわけにもいかない。会ってどうなるかがさっぱりわからないからだ。
恋人達も気を遣っていた。毎年２の月に迫ってくるミカエルも今年は迫ってこなかった。子供らもシャナーンには会ってないようだ。
「すっきりしないなあ・・・」
こういうもやもやした気分の時はたいてい神の国には行けない。もし行けたら記憶喪失を治す薬でも誰かにもらえないかと思っていたのだが、
行けないままだった。
ゆりはルーの子供の蛇を手に乗せた。青い蛇は部屋から出て行ったのだが、５色の蛇の方はまだ部屋にとどまっていたのだった。
ずっと部屋にいてほしいなあ、という願いを子蛇はかなえてくれたのかもしれない。シャナーンを治しておくれとこの蛇に願ってもどうにか
なりそうにもないが。
まさか永遠にこのままじゃないでしょうね。シャナーンのかわいい笑顔に癒されたい・・・
脳裏には頬が少し赤くなったかわいいシャナーンの笑顔が浮かんでいた。
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