赤い月が過ぎ去って５日後、休日のシャナーンの元を訪ねてきた者がいた。
シャナーンが出ると、その人物はにこにこ顔で立っていた。扉の外にいたのはエルバートだった。左手に背丈ほどの細い長い物を持っている。
エルバートは私服姿で、シャツにベスト、ズボンという出で立ちだったが、いずれも水色系統の色でまとめられていた。
「やあシャナーン、たまには釣りに付き合わないか？」
エルバートはにこっと微笑んで言った。
「釣り？」
よく見ると左手に持っているのは青い釣竿のようだった。
「あいにく私はー」
シャナーンが言いかけたとき、「いいから来なよ」エルバートはそういって強引にシャナーンの腕をつかんで外に出した。
「ほら、今日はいい天気だ」
「エル」
シャナーンがとがめるように言った。
「来た来た」
エルバートはシャナーンを伴って瞬間移動した。次の瞬間、シャナーンの目の前に小川が見え、水のせせらぎが聞こえてきた。
どこかの森の中のようだ。周りは木々に覆われているし、チュンチュンと鳥のさえずりが聞こえてくる。あたりに誰もいないようだ。
「そこらに座ろう」
エルバートは川の近くに平べったい石を見つけてそこに腰を下ろした。
エルバートにしては今日は珍しく強引だ。
「こんな小さな川で魚が釣れるのか？」
シャナーンが川をのぞくと、魚はいないことはなさそうだったが、小さい魚くらいしか見えない。釣りというのはもっと広い川でするものではないの
だろうか。ぴょんと向こう側に飛べそうなくらいの川だ。流れも緩やかだった。
「まあいいのさ。釣れても釣れなくても」
エルバートは釣竿に巻きついている糸をほどいて川に垂らした。
「横においでよ」
「まったく・・・」
シャナーンはため息をつきエルバートの横に腰を下ろした。
「着替える暇もなかったよ」
「それで外に出たってかまわないさ」
シャナーンは白いシャツに紺色のズボンをはいていた。それはいわば部屋着だ。靴も屋敷用の簡単な革靴だ。シャナーン的には、
この格好で外に出たくはなかったようだ。
「それに私のほかには誰もいないんだからいいじゃないか」
「まあそうだけどね」
シャナーンは釣竿を目で追い、川に垂れている釣り糸を眺めた。そしてある事に気づいた。
「エサはつけないの？」
「つけないよ」
エルバートはあっさり言った。
「釣りってエサをつけて釣るものじゃないのかな？」
「それがつけなくても時々ひっかかるんだよ。すごいだろう」
何がすごいのかよくわからない。
第一釣りというものは、釣り竿以外にもいろいろ道具がいるのではないだろうか。たとえば魚を採るアミや魚を持ち帰る容器などもいるだろう。
エルバートはただ釣り竿を持っているだけだ。
「時々はつけるんだけどね、今日はまあいいと思ってさ」
「ふーん」
もはや釣りと呼べるのかどうかも謎だ。
川に釣り糸を垂らすだけで、これのどこが楽しいのかも分からない。
だが、帰って今すぐ何かがしたいというわけでもなかった。これも気晴らしになるかもしれないと、シャナーンはしばらくエルバートの
のんきな趣味に付き合ったのだった。
第59話
さわやかな風で木々の葉が揺れていた。葉がひらひらと飛んできては川に流されている。
小川のほとりでぼんやりしていたが、一向に何かがかかる気配はなかった。
第一エサがついていないのだから引っかかる魚は相当まぬけである。水の中蛇が泳いでいるのが見える。もしかしたら間違って蛇が
引っかかるかもしれないと思ったが、引っかからずに泳いでいってしまった。
「これのどこが楽しいんだい？」
シャナーンはしばらく我慢して聞いた。どう考えても時間の無駄のような気がする。
「楽しいよ。私は水の近くにいると心が落ち着くからね」
「ふーん」
他の皆と同じように自分を慰めようとして誘ったのかと思ったが、違うのだろうか。記憶を無くしてから、様々な人が同情していろいろ言ってきた。
何度も酒に誘われたがそういう気分ではない。皆口をそろえて「あんなに王妃の事を愛していたのに」と言うのだ。
そういわれても自分は覚えていないので分からないが、自分が誰かを愛したということがまず想像できない。
愛するということは、その人のことで頭が一杯になるほど想うということだろう。自分はそれほど毎日王妃のことばかり考えていたのだろうか。
王妃と会うとうれしいと感じて、喜んだり笑ったりしていたのだろうか。恋人だというからもっと踏み込んだ仲だったということなのだろう。
赤い月以外でまずその気になった、というのが不思議だ。
思い出すのが怖いような気さえする。
ちらりとエルバートを見ると、楽しそうに水面を眺めていた。
一体何が楽しいのやらだ。
「そういえば、君は赤い月どうしてたの？」
今年こそは女と過ごしたのだろうか。
「実は風邪で寝込んでいたんだよ。３日ばかり」
「君は相変わらずだね。時々うらやましいとさえ思うよ。子供を作らなければという本能は君にはないのかな？」
「あるけどねえ、どうも考えると胃が痛くなってしまって・・・まあその内に目覚めるかもしれないよ。君は４人も相手にしてるんだからすごいよ。
今年は楽しかったかい？」
エルバートは何気に聞いた。
「楽しい？まあ楽しくない事はないよ。彼女らは私だけだし、赤い月くらいはかまわなければならないだろうし」
エルバートは何がおかしかったのかふっと笑った。
「以前の君ならば、かまわなければならないなんてセリフ、言わなかっただろうなあ」
「そうかな」
「どうして記憶を無くしてしまったのかな」
「敵に何か言われたんだ。それで忘れてしまった」
「何を言われたのか全く思い出せないの？」
「思い出せないんだ」
頭の中にはまだ霧がかかっている。
「思い出さなくてもいいんじゃないかとさえ思えてくる。このままでも別に、支障はない」
「そうかな。城に行ってかわいい御子様達に会うこともできなくなるよ？皆会いたがっていたし君の事を心配していたよ。元の君に戻らないと
からかう事もできないじゃないか。嫉妬深い君はとても面白いからなあ」
「嫉妬深い？」
「私に喧嘩を吹っかけた事も忘れたの？私が王妃と仲が良いと誤解して、嫉妬した君は私に嫌がらせまでしたじゃないか」
「そんな事したっけかな」
「したよ。私が赤い月に女性を募集するという張り紙を貼って回ったんだよ」
「へーそんな事したんだ」
シャナーンは他人事のように笑っていた。
ピヨヨヨヨと鳥の声が聞こえてきた。
「思い出さなかったら君は人生損をすることになるよ。それでもいいの？」
「損？」
「だって損だろう？恋をすると世界は変わるそうだよ。世界が輝いて見えるそうだよ。以前の君には世界はもっと輝いて見えていたんだよ。
君が王妃に会わないのなら、私が恋人に立候補してしまおうかな」
エルバートはにんまりして言った。
「好きにすればいいじゃないか」
「いいのかな。前の君だったら、仲良く話をするだけで嫉妬したくせに」
「今はなんとも思わない」
シャナーンは少々不機嫌そうに言った。
第一赤い月をまだ女と過ごしてもいないのに恋人になるも何もないもんだ。
「今の君はつまらないなあ。思い出す気もないようだ。あ、魚がかかった」
横を向いていたシャナーンは反射的に川を見た。だが釣り糸は垂れたままだ。
「かかってないじゃないか」
「おや、かかったのは魚ではなく妖精だったのかな」
エルバートが川をのぞきこんで言った。
「君は何を言ってるんだ？」
「ほら、見てごらんよ」
エルバートが指差した先に、シャナーンは視線を向けた。水面に何かが揺らめいている。
黒い髪のー女性？
シャナーンははっと身をそらせた。そしてエルバートを見た。
「今のは？」
「分かっているから見たくないのだろう？」
そういうエルバートの瞳は、冷ややかにすっと細くなっていた。
「カーライル様？！」
「逃げていても解決にはならないぞ」
「失礼します」
シャナーンは頭を下げて消えてしまった。
「ありがとうございます。カーライル様・・・・一体どうすればいいんでしょう。この際王妃の方から会っていただいたらどうでしょうか？」
エルバートが聞いた。
カーライルが水面にゆりの顔を映して見せたのも、エルバートに頼まれての事だった。元のシャナーンに戻ってほしいと、エルバートもずっと
思っている。
ー会いに行ってもあれじゃ逃げるかもしれないぞ
「どうしてですか？」
ーきっと、暗示の内容をよほど思い出したくないのだろう
「一体どういう暗示だったんでしょう」
ーお前が敵だったなら、どういう暗示をかける？
「私が敵だったなら・・・」
エルバートは誰かを陥れたいなど今まで思ったこともない。考えても分からなかった。
「ねー王様、私から会いに行っちゃうわけにはいかないの？」
その頃王の間では、ゆりがラクシュミの腕を引っ張っていた。
「シャナーンが今はまだお前に会いたくないと言ってるんだからしょうがないだろう」
赤い月後でラクシュミはまだ冷たい感じなのだが、そんな事は言ってられなかった。
「このままじゃずっとすっきりしないのよ」
「会いたい会いたいというんじゃないぞ。勝手に移動したら困るぞ」
「わかってますよ」
どんな暗示がかかっているにしても、万全の体制でのぞめば大丈夫のような気がするのだが。
「他の戦士は結局わからないままなの？」
「ああ、聞いてみたんだが、たいしたことではなかったような気がすると言っていた」
「たいしたことじゃないの？なら思い出せばいいのに」
「シャナーンがその気になるまで待ってくれ」
その時ラクシュミの元に番兵からの思念がきた。
ーザイ様ですが
ーそうか、いれろ
「じゃあなゆり」
ラクシュミはゆりを王の間から追い出した。
「もう、ずっとその気にならなかったらどうするのよ」
ゆりはぷんぷん言いながら歩いて行った。
ゆりはハザークにもどうにかできないかと聞いてみた。暗示というものは、かけた本人でないと解けないものらしい。
ゆりとしては、暗示とやらがかかっているのならこの際それを発動させて未然に食い止める方がいいような気がする。
もしかしたら、他の戦士達のように何もない可能性だってあるのだ。
うーん。だめだわ。最近眠れないし・・・身体に良くないわ。ちと昼寝でもしよう
寝室で昼寝をしたゆりはしばらくすると目を覚ました。蛇の目のゆりはハザークの元に移動していた。
ハザークの部屋に行くと、長椅子で寝転んでいたハザークは少々不機嫌そうな顔をしていた。テーブルの方を見るとエルバートが座っている。
顔を見るとカーライルの方だった。
「あら、水蛇様来ていたの」
「ああ」
「２人仲が良いのね」
「勘違いするな。私は侍女に会いにきただけだぞ」
カーライルはそういって横に座っている侍女に微笑んだ。白い髪の侍女は少々困った様子で微笑んでいる。
「え！水蛇様侍女さん狙いなの！？ハザーク様だから面白くないんだ」
ゆりはおかしそうに長椅子の方に歩いて行った。
「妬いてるのね」
「妬いてなんかいない」
ハザークは起き上がって言った。ゆりはその横に腰を下ろした。
やっぱりハザークは少々不機嫌そうだ。だがカーライルのことを嫌いではないのだろう。嫌いならば部屋からすぐ追い出しているはずだ。
同じ蛇として親近感も少しは感じているのかもしれない。
「ねえ水蛇様、ちょっとエルに変わってよ。シャナーンのこと聞きたいから」
ゆりはせっかくだからと思い言った。ここに来たのもハザークといちゃいちゃしようと思ったわけではない。さすがに今はそんな気にはなれない。
「シャナーンならさっき会ったぞ」
「え？本当？どうだった？」
「お前の事を思い出さなくてもいいといってた」
「えーそんな・・・」
「よっぽど暗示を思い出すのが怖いらしいな」
ハザークもそこでようやく誰の事だかわかった。
「紺色の蛇の男の事か。まだそのままなのか」
「そうなんですよ。私と会うの嫌がってるの」
「ならそのままでいいんじゃないのか？恋人は他にもいるだろ」
ハザークはあっさり言った。それだけいるのだから一人くらいいなくなってもいいだろうという感覚なのだ。
「普通に嫌われて別れるならいいけど、このままだとすっきりしないんですよ。ハザーク様と熱く盛り上がる気分にもなれないし」
「そうか。なら思い出させた方がいいな」
ハザークは考えを改めた。
「他の３人は何もならなかったんだからシャナーンも何もないかもしれないのに」
案外なんだ〜何もないのかーという結末になる可能性もあるのではないか。
「王妃、お前が敵ならどういう暗示をかける？」
カーライルがゆりに聞いた。
「私なら？」
「エルバートは性格が良いから想像がつかないようだ。お前なら性格悪いから分かるだろう」
「ひどっ」
「王妃は性格は悪くないぞ。ただ気が多いだけだぞ。すごく」
ハザークがフォローした。だがちょっと引っかかるフォローの仕方だ。
「愛する者を殺せっていう暗示じゃないのかな？」
キーワードが「愛する者」なのだからそういうことだと思っていた。カーライルは鼻でふっと笑った。
「普通の正常な人間ならな、そんなばかな暗示には引っかからないものだ。頭の中で「なぜ？」と思うだろう？たとえば、お前がシャナーンを
精神的に追い詰めていてシャナーンが日ごろからお前を殺したいと思っていたのなら、そういう暗示にも引っかかる可能性はあるが、そうでなければ
殺せといわれたって殺す気にはならない」
「そうなの？」
「たとえば、私がお前にハザークを殺せと暗示をかけたとする。お前がいくら単純ですぐ暗示がかかってしまったとしても、そう簡単にハザークを
殺そうとは思わないだろう。日ごろからそう思っていない限りはな。暗示ってのはその程度の物だ。これが魔法で精神が混乱させられているとまた
話は別だがな」
「へーそうなんだ」
ゆりはなるほどと思って聞いていた。暗示ってのは何でもありではないようだ。
「本人の心に引っかかる内容でなければ暗示の効果なんてない」
「まあそうだろうな。だから他の３人は暗示の効果がなかったのかもしれないな」
ハザークが言った。
「そうだとすると、４人にかけた暗示は一体なんだったの？記憶を無くすってのは何か意味があるのかな？」
「それは単なる自己防衛じゃないのか？戦士らは一応精神の訓練も受けてるんじゃないのか？」
カーライルが言った。
「自己防衛・・・」
そういえばヴィクターも言っていた。
「自分の心を守るために忘れたんだな」
とハザークが説明してくれた。ゆりが意味が分からなかったと思ったようだ。
「不吉な内容だったから忘れることにしたんだろう」
４人ともキーワードになる相手のことと暗示の内容を忘れてしまった。
最も３人はラクシュミに会っても記憶が戻ったものの暗示の内容はわからないようだ。
たいしたことではなかったようだが、それなら早く思い出せばいいものをとこちらのゆりも思った。
「催眠術なんてのは難しいもんだ。複数の人間に術をかけるってのは相当上手い者じゃないと無理だ。しかも相手は精神を鍛えている戦士だ。
敵が何を言ったのかは知らないが、シャナーンの心には引っかかることだったのだろう。だからひどく恐れているんだ」
「水蛇様それを探る方法知らないの？」
「私に利益になる事があるのなら張り切って何かしてもいいがな。侍女を一人くれるとか」
「だめだ」
カーライルがちらりと見るとハザークが即答した。
「じゃあ王妃の蛇紋見せろ」
「うーん、まあいいかなー・・・・」
とゆりが言い出したのでハザークはぎょっとした。
「こら、お前何言ってるんだ。これ以上恋人を増やすな」
「だってシャナーンが・・・・元のシャナーンに戻ってほしいんだもん」
ゆりはしゅんとした。
「わかった私がいい女を紹介してやろう」
とハザークが言い出した。
「いい女？お前の紹介というのはなんだか怪しいな」
カーライルは横目で見ている。
「第一侍女以外の知り合いいるのか？」
「いるぞ。いい女だ」
「お願いカーライル様！」
ゆりは両手を合わせて拝んだ。
「一生感謝します！」
「聞いてやれ。いい女紹介してやるから」
ハザークが偉そうに言った。
「お願いします」
侍女も頼んでいる。
ーお願いします。カーライル様
眠っているはずのエルバートも頼んでいた。
「ふん、しょうがないな。じゃあ何か考えよう」
カーライルは宙を見上げて何かを考え出した。
その夜、シャナーンは机に向かって本を読んでいた。古代叙事詩の教本である。
これを熱心に覚えていたことは記憶にある。だが、愛の詩は今の自分には理解できない。
以前の自分にはきっと理解できたのだろう。
自分の肌にある小さめの紺色の蛇。その蛇を見るとなんだか胸が痛んだ。王妃の肌に出た蛇紋が生んだ蛇だというが、
今のシャナーンはすっかりその事を忘れていた。聞いた時は驚いたものだ。王妃の蛇紋の蛇が過去の時代で男達の蛇と交わり
子供を生んだという。その蛇を自分がもらったのだ。
そういわれれば、自分はこの蛇を大切にしていたような気さえする
記憶がないのでこの蛇も悲しんでいるのかもしれない
王妃はいろんな人に大事に思われている
私は王妃に過ぎた想いを抱いていた
それを思い出したい。だが同時に恐ろしい
私は一体何を言われたんだろう
とても恐ろしい言葉を言われたような気がする
部屋の扉がノックされて、ヴィクターが入ってきた。手には酒瓶を一本持っている。
「シャナーン、明日、王妃がお前に会いたいとおっしゃられている」
「え？明日？」
「ああ、怖いのは分かるがこの際と思って会わないか？逃げていても解決にはならないぞ」
昼間も言われた言葉だった。自分でも良く分かっている。
「一生逃げるわけにもいかないだろう」
「わかりました。会います」
シャナーンはとうとう決断した。
「そうか。ほらこれ飲め、いい酒だぞ」
ヴィクターはシャナーンに酒瓶を渡して部屋を出た。
とうとう言ってしまった
王妃・・・・ああ、どうか王妃に何もありませんように
シャナーンはもらった酒を飲み干して眠りについたのだった。
次の日の朝、シャナーンはあっさり王妃の部屋でゆりに対面した。奇妙な事に周りには誰もいなかった。てっきり戦士が誰かいると思って
いたのだが。
「シャナーン」
ゆりはうれしそうに声をあげてシャナーンの手を握り締めた。
「王妃・・・」
その時脳裏を覆っていた霧は綺麗に消え去った。
王妃・・・・ああそうだ、王妃だ。私が愛する王妃。どうして忘れてしまっていたのだろう。こんなに愛していたのに
忘れていた記憶と共に、様々な感情が流れ込んできた。
「大丈夫？シャナーン」
「はい、大丈夫です」
「よかった。会いたかったずっと」
「私もです」
２人は両手を握り合った。
「これで元のシャナーンに戻ったのね」
「はい」
元の私に戻りました
そして全てを思い出しました
「本当によかった。ずっと心配していたから」
「今日はこれで失礼します。王妃」
「もう行くの？」
「ええ、また来ます」
「そう、じゃあまたね」
「またー」
ゆりは手を振っていた。
ーミカエル様、今どちらですか？
シャナーンはミカエルに思念を送っていた。
ー今日は休みだから屋敷にいるぞ
との思念が届いてシャナーンは移動した。
屋敷のドアをノックすると直接ミカエルが出てきた。
「ああ、シャナーン、今日王妃に会ったんだろう？どうだった？」
「全て思い出しました」
「そうか、よかったな。まあ入れ」
ミカエルはシャナーンを促して中に入った。シャナーンの表情がすっと引き締まった。
汝の愛する者を思い浮かべよ
その者を独占したければ、邪魔な者を排除せよ
殺すのだ。そうすれば、愛する者は汝だけのものになる
シャナーンの心にはその言葉がぐるぐる回っていた。
そう、これこそが、霧の中言われた言葉だったのだ。
ミカエルはシャナーンに背中を向けていた。全く警戒もしていない。
シャナーンの右手があがった。
『排除せよ』
首を狙えば一瞬でー
『愛する者を汝だけのものに』
右手が震えていた。
「シャナーン、どうかしたのか？」
ミカエルが振り向いた。
「う・・・ううう・・・・」
『排除せよ』
ミカエルの首にぴっと赤い線が引かれた。
「シャナーン！？」
ミカエルが驚いたように目を見開いた。
「どうしたんだ一体！？」
できないできないできない。王妃が悲しむじゃないか。そんな事はできない
シャナーンの中では激しい葛藤が起こっていた。幻の声に必死に抵抗しようとしていたのだ。だが抵抗しきれない。
「排除・・・」
シャナーンの右手が自分の首にかかった。
「シャナーン！」
首からは血があふれていた。
「いかん起きろ！」
これでいい、自分がいなくなれば・・・・
「王！シャナーンを呼ぶんだ」
「シャナーン！シャナーン起きろ！！シャナーン！」
身体を激しく揺り動かされてシャナーンはっと目を覚ました。同時にバシャバシャという水の音が聞こえてきた。
目の前にエルバートとラクシュミの顔があり、シャナーンの目は極限まで開かれていた。
「ここは？」
一体何がどうなっているのだろう。
横を見ると大きい丸い浴槽があった。
「風呂だ」
とエルバートの中にいるカーライルが言った。ここは王の浴室だった。
「風呂？私は何をして・・・・」
シャナーンは全身ずぶぬれだった。
服を着たままなので服もびっしょり濡れている。
「王に協力してもらって別の暗示をかけた。お前は夢の中で王妃に会ったんだ」
「夢？」
「記憶は戻っただろ？」
「・・・・」
シャナーンはうなだれた。髪からは水が滴っていたが、泣いているようにも見えた。
自分の身体からは血が流れてはいない。
あれも夢だったのか。
「王！私を罰してください。私はミカエル様を傷つけてしまった！」
シャナーンはラクシュミに訴えた。
「シャナーン・・・」
「だが殺してはいないだろう」
カーライルが言った。
「ですが、あんな事思ってはいけないのに・・・」
「敵の術のせいだ。お前は強かった」
「私は強くないです。私は・・・・愚かだ」
シャナーンはぼろぼろと泣き出してしまった。
「シャナーン・・・自分を責めるな。誰だって心に弱い部分があるものだ。今日はもう帰って寝た方がいい」
ラクシュミは優しくシャナーンの頭をなでた。
「はい・・・失礼します」
シャナーンは頭を下げて消えた。
「かわいそうに・・・・」
暗示の内容をラクシュミは知っていた。ザイが思い出したといって昼間告げに来たのだ。シャナーンに言っていいものかどうか分からなかった
と言っていた。ザイにとっては意味のない内容だったがシャナーンにとっては引っかかる内容だったのだ。心の底に眠っていた愛する者を独占
したいという気持ちが目覚めてしまったのだ。
「どうもありがとうございます。力を貸していただいて」
ラクシュミはカーライルに礼を言った。大昔の蛇なのでつい敬語になっている。
「最初から王妃の恋人が狙いだったのかもな」
カーライルが思ってもいない事を言った。
「え？」
「王妃の恋人が８人いて、それぞれが上級の力を持っている事は町の者でも知っている。龍が出たとすれば、かなりの確率で恋人の誰かが
来るんじゃないか」
「それは・・・」
「恋人達は仲良くやっているが他国の者からすれば奇妙な事だ。内心はそれぞれが面白く思ってないに違いないとそう思うかもな。
暗示が上手くいけば上級戦士が何人か殺せる」
それはいわば賭けだ。どっちみち、普通に戦って上級戦士はなかなか殺せるものではないのだから賭けをする価値はあるのではないか？
カーライルはそう思った。
「なるほど・・・・だがそれならば、明確にするために『愛する者』でなく『王妃』という言葉を暗示に入れた方がよかったのでは？」
「それだと他の者は全く意味不明になってしまうんじゃないのか？愛する者だとしておけば、他の者も運良く誰か殺すかもしれない。
他の３人は相手が王だったから暗示自体意味がない物になってしまったけどな。王を独占するために一族の者全てを殺すなど考えても
無理だからな。とりあえず私はこれで」
カーライルは姿を消した。
ラクシュミは濡れてしまった服を着替えて寝室に行った。
「あっ！お、王様！シャナーンは！？」
ゆりが駆け寄ってきた。
カーライルとラクシュミがシャナーンに暗示をかけてみるというのでゆりは起きて待っていたのだった。
「記憶は取り戻したようだ。だがひどく傷ついているようだったな」
「かわいそうに・・・・結局何だったの？」
「うーん、座って話をしよう」
ラクシュミはベッドに腰を下ろしてゆりは横に座った。
ヴィクターがシャナーンに渡したお酒には、睡眠薬が入っていたのだった。ヴィクターが眠ったシャナーンを城まで連れてきたのだ。
カーライルが水の中ならば暗示をかけやすい、というので風呂の中にぬるいお湯を張ってシャナーンを浮かべて、シャナーンを起こしたのだ。
シャナーンは現実だと思っていたが、実際にはお風呂に浮かべられて幻の映像を相手にしていたのだった。現実だと信じ込むようにラクシュミも
同時にシャナーンにいろいろ語りかけていた。ゆりとミカエルのセリフを言っていたのもラクシュミだ。
シャナーンは自分がしている事を自分の口でつらつらと語っていた。
「それでどうしたのだ？」とカーライルが聞きつつ、ラクシュミが相手のセリフを言っていたのだ。
「ようするに、シャナーンはお前の事がとても好きなんだ。暗示の内容に魅力を感じてしまった。それだけなんだろうな」
「・・・」
「まあお前はシャナーンが来たら暖かく迎えてやればいい。しばらくは落ち込むだろうが」
「わかったわ。シャナーンなら絶対立ち直ってくれる」
「ああ」
といったものの・・・何かしてあげたいなあ・・・・
そう思わずにはいられないゆりだった。
「どうしてミカエルのところに行ったの？一番は王様じゃないのかな？」
ゆりはふと疑問に思った。
「一族の者は何があっても私を殺そうなどと思わないものだ。血の掟というやつだ」
「そうなんだ・・・」
「しかしあの水蛇様は結構親切だな」
ラクシュミは実は初めてカーライルと口を利いたのだが、結構親切な男だという印象を受けた。
「そうね。あれで口が悪くなかったらいいのにね」
「口が悪いのはお前のせいじゃないのか？」
「え？違うわよう」
「そうか？お前がいらん事言うからじゃないのか？」
「違いますってば」
ラクシュミはゆりに悪態をついているカーライルが想像できなかったようだ。
それから数日、シャナーンは病気と偽って部屋から外には出なかった。仕事も休んでいる。自分の中に眠っていた醜い願望に心を痛めていた
のだった。そして自分の心の弱さを嘆いていた。妹のミーシャが時々様子を伺いに来るのだが、遊んであげる気分にもなれない。
５日目になり、訪問者があった。シャナーンはでなかったのだが、その人物は勝手に部屋に入ってきた。
「おい、いつまでしょげてるんだ？」
「ミカエル様・・・・」
勝手に入ってきたのはミカエルだった。
「いつまでずる休みしてるんだ」
「どうもすいません」
シャナーンは椅子に座ったままうなだれた。
シャナーンは前よりやせたようだった。ろくにご飯も食べていないのだろうとミカエルは思った。
「一体何をそんなに落ち込んでるんだ？王妃も心配してたぞ」
「私はもう二度と王妃には会いません。こんな私が王妃の側にいられるわけはない」
シャナーンは悲しげに言った。
「ばかだな。誰もお前が聖人だなんて思ってないぞ」
「私はあなたを殺そうとしたんですよ！？」
シャナーンはミカエルを見上げて言った。
「私は今ここで傷一つなくピンピンしてるぞ。別にお前が気に病むことは何もない」
ミカエルは胸をはって言った。
「ですが・・・」
「敵の術にはまっただけだ。もう気にするな」
「でも・・・・」
シャナーンはまたうなだれた。
今回暗示にかかったのがシャナーンだったが、もし自分だったのなら、自分も王妃を独占したいと思い、誰かを手にかけようとしたのかもしれない。
ミカエルはそう思っていた。
「真っ先に私を選んだとは・・・やっぱり私が一番王妃のお気に入りだと思ってるからだな？」
ミカエルはからかうように言った。
「別にそういうわけではないです」
「内心そう感じていたんだよ」
「別に・・・」
「もういいじゃないか。お前が落ち込んでいたってこっちまで暗くなるだけだ。あんな事もう忘れろ。お前の彼女らも葬式みたいな顔してたぞ」
「皆私を軽蔑しているに違いない」
「とりあえず来い」
ミカエルはシャナーンの腕をとった。そしてすぐに移動したのだった。
目の前の光景にシャナーンは驚き、後ろに後ずさっていた。
「こ・・・これは・・・・」
目の前には人が一杯いた。長細いテーブルには食べ物が並べられ、部屋の傍らには酒樽も用意されている。
「おっきたなシャナーン」
ジュノーが言った。
「待ってたよ」
とヴィラ。なんと儀式の男達が勢ぞろいしていた。その上シャナーンの彼女が４人にエルバートも手を振っている。
「ここどこです？」
シャナーンはすっかり固まっていた。
「私の屋敷だ。今日は宴会になった」
ミカエルが言った。
「宴会？」
「シャナーンを慰める会なんて名前辛気臭いからな。宴会で十分」
「・・・・」
「シャナーン」
彼女以外の女性の声がした。シャナーンはぎょっと目を見開いた。イシュタールの後ろからひょっこり顔を出しているのはゆりだった。
「おっ王妃！？」
「王様のお許しもらってきちゃった」
ゆりは舌を出した。
「皆さんどうして・・・」
「皆シャナーンのことが大好きなのよ。それが分かって欲しくて」
「・・・・」
皆優しく微笑んでいた。
「どうして私を軽蔑しないんです？」
「軽蔑するような事してないじゃない。悪いのは敵であってシャナーンじゃないよ。世の中には完璧な人間なんていないんだから」
「王妃・・・・」
シャナーンはうなだれた。彼女らは涙を浮かべてシャナーンを見つめていた。
「こんなにかわいいお嬢さん達をいつまでも心配させちゃいけないよ」
ハインリヒが言った。
「そうだ。元気になってくれ」
とフリット。
ミルキダスとイシュタールはうんうんうなずいていた。
私は王妃を独占したいと一瞬でも思ってしまったというのに・・・
なじられても文句は言えないのに
「皆さん・・・」
「さあ、飲もう！」
ミカエルはシャナーンの背中をばしっとたたき、シャナーンは前のめりになった。
エルバートは笑顔で近づいてきてシャナーンの肩をぽんぽんとたたいた。
「なんだかやせたね。いい男が台無しだよ」
皆さん優しいですね。誰も傷つけなくて良かった・・・本当によかった・・・
シャナーンの瞳には涙が浮かんでいた。
その日は夜まで皆でわいわい騒いでいた。シャナーンの彼女らはゆりとじっくり話したことがないのでキャーキャー言って感激していた。
ゆりは時々蛇の目のゆりと入れ替わっている。
しばらくするとシャナーンの表情に笑みが浮かぶようになった。それを見てゆりも他の皆も安心した。
皆の優しさに触れて、シャナーンの心も軽くなったようだった。
その翌日、カーライルがハザークの部屋を訪れていた。いい女を今夜呼んでおくから来いと伝言が来たのだ。
カーライルはうきうき気分で来たわけではなかった。十中八九怪しんでいた。部屋に入り、やっぱりな、とそう思った。
部屋の中の床には４匹の大きなメス蛇がうねうねくねくねしていた。
「約束のいい女だ。好きな女を持って行け」
ハザークはうっすらと微笑んで言った。
「あのなあ・・・・やっぱりこういうオチなのか？」
カーライルは呆れて言った。
「ん？おち？」
「今の私がただの蛇の恋人作って一体どうするんだ？」
「いろいろすればいいだろう」
「いろいろって何するんだ」
カーライルはすっかり脱力している。
「この子は人間の男が好きなんだが、もらってくれないか？」
ハザークが一匹のまだらの蛇を指して言った。その蛇は、二度人間の女に入りおいたをしちゃった蛇だった。
蛇はカーライルを見上げている。
ーステキもらってもらって
「いや、もらってと言われても・・・・」
「結構美人じゃないか」
「人化できるようになってからにしてくれ」
カーライルはつれなく言った。
ーぷんぷん
蛇はぷんと横を向いた。
「かわいそうに・・・」
とハザーク。
「ならお前が付き合えばいいだろう」
「いや、我は・・・」
「もういい。高級な酒でも飲ませろ」
カーライルは椅子に座って足を組んだ。かなりふてくされている。
「そうか。残念だな。選りすぐりを集めたのに」
ハザークは蛇達を眺めてぶつぶつ言っていた。
全く・・・何が選りすぐりだ・・・
ディラネイラ、お前の息子は長生きのしすぎか少々、いやかなりずれてるな
つい、亡き蛇に語りかけたカーライルだった。
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