第5話
蛇の国、大きな病院の一室では、妊娠中のセリアがミカエルの言葉を聞いて卒倒しそうになっていた。
「今、なんていいました？ 城でしばらくすごそうってどういうことですか？」
セリアはベッドの上でかなりのけぞっている。
「だからな、セリアがあまりに情緒不安定だから、先生とも相談したんだよ。それで王にも話したら、しばらく城に滞在したら
どうかって。ほら、王妃の側にいたら気が楽になるんじゃないかって。王妃も是非おいでって言ってたぞ」
ミカエルが笑顔で言った。
「城に滞在……」
「気分が変わるかもしれないぞ。ここんとこ、かなりいらいらしっぱなしだろ」
「それもそうですが……」
食欲を抑えるのも大変だったが、出産に対する恐れなどもあり、セリアはかなり精神的に不安定になってはいた。
夜もあまり眠れないのである。
（城に滞在すれば王妃様に毎日会える！）
そう思ったセリアだったが、スカートの上にちょっとはみでたお腹を見て考え直した。
「いえ、そんなわけにはいきません。わたしだけそんな待遇を受けるわけにはいきません」
「いいって。ほら、支度して城に行こう」
「いやです！ 王妃様にこの肉を見られるのはいやです！」
「肉？」
ミカエルはセリアのウエストに視線を落とした。ウエストはかなり太めになっている。
「それくらい王妃は気にしないって」
「私は気にするんです！！ 王様にもこのお肉を見られるんですよ！ そんなのいやです！」
セリアは自分でお腹の肉をつまんでいた。
「王も気にしないって」
「私は気にするんです！！！ 絶対無理です！」
セリアは断固拒否している。ミカエルは頭をかいていた。
「困ったなあ。もう話が進んじゃって、王妃が率先してお前の部屋を整えようってことになって、もう部屋もできちゃってるんだよ」
「なんですってー！！！」
セリアは今度は本当に卒倒してしまったのだった。
神の国、木々に囲まれたそんなに深くない泉では、女神ガーベラが水浴中だった。
女神の側には水面に赤い色の花がいくつも浮かんでいる。泉には5人の妖精達も一緒にいたが、皆何かいいたげな様子であった。
そこに金の滝のような髪のダーナがやってきた。
ダーナはガーベラの側に来るなり、「ハロルドともう別れたんだってね〜」とお気楽な口調で言っていた。
妖精達が一斉に注目している。
「え？ もう別れたことになってる？」
ガーベラはちょっと頬を引きつらせていた。
「別れてないの？」
「そういう話はしてないけど」
「じゃあ単なるハロルドの浮気？」
「うーん、さあ」
「ふーん」
ダーナの周りにはピンク色の花が浮かんでいる。妖精達は赤とピンクの花を奪い合っていた。
ダーナは浮かない表情のガーベラを見ながら、
「もしかして……恋人に浮気されるの初めてじゃないわよね？」
と窺うように聞いた。
「え？」
ガーベラはどきりとしている。
「まさかね。まさか……え？ 嘘でしょ！」
ガーベラは目をうろうろとさまよわせていたので、ダーナはショックを受けて口に手をあてていた。
「もしかして、初浮気なの！？ 信じられない！」
「いや、初浮気かどうかは……わからないけど」
妖精達から「初浮気……」という言葉がもれていた。
「それはショックね。まあいいじゃない。私なんて浮気者が二人もいるし」
浮気者二人、とは太陽の神アリアスと緑の神ジュライである。どちらも神格は高く、ハンサムで、妖精達の人気も高いが
人間界での人気も高い。そしてダーナとの間に神や妖精がたくさんできている。
多くは自然を左右する神で、人間界で有名な神では春の女神達、新緑の神がいる。
「そういえばアリアスとジュライって他で子供を作ったことないわよね？」
ガーベラが聞いた。そういう話は聞いたことがない。
「それはないわね。不思議ねえ。子供ができたのがショックなの？ 子供ができなきゃばれなかったのにね」
「別に、まあめでたいことだしねえ」
ガーベラはちょっと頬を引きつらせて言った。
「じゃああっさり許すの？」
「さあ、よくわからないわ」
「本当にみんな浮気したことないの？ 気づいてないだけじゃないの？」
ダーナはガーベラに顔を寄せて聞いた。ガーベラの恋人といえば、オルガ、ジンラ、ラーズ、ラクアは古くからの恋人であるが、
ラクアはファティマに一時ふらっとしていたが、他の3人はそっち関係では真面目そうな印象がある。
だが、男というものは、外見ではわからないものだ。
「そりゃまあ、怪しんだことはあるわよ。これだけ長いこと恋人でいれば、倦怠期だって何度もあるし……」
今度は妖精達から「倦怠期……」という言葉がもれていた。
ガーベラは愛欲の女神であるが、一定の愛を全員と長期間保ち続けるというのは、相手も神なだけにかなり大変なことである。
長い生を生きているのだから、途中いろいろあったのも事実である。神は人間ほど飽きっぽくはないが、それでも飽きてしまうことはあるのだ。
だからこそ、ガーベラはゆりに時々身体を貸しているともいえる。
知らない間に自分が何をしたかわからないというのは、なんとも刺激的なのである。
「まあ相手がハロルドなら、別れても巡り巡って帰ってくるわよ」
ダーナはガーベラの肩をぽんぽんとたたいていた。
「巡り巡ってって……」
（その中にダーナも入ってたりして、巡られるのもやだわあ）
などと思ったガーベラだった。もとより、ハロルドは結構自由な性格の神である。昔は一人の恋人に縛られるという性格でもなかった。
今は昔とは違うが、ファティマの一件に懲りてしばらくはおとなしいだろうとは思っていたのだった。
「だけど、これだけあからさまに浮気されると反応に困るわ」
ガーベラが悩んでいたのはそこだった。先日ハロルドに出会った時も、「妖精が生まれておめでとう」とそっけなく言ってさっさと去ったのだった。
ハロルドの言葉など聞いてはいない。どういう反応をすればいいのか、自分でもよくわからない。
「ダーナはアリアスが浮気したらいっつも怒ってるわね。よくそれだけ怒れるわね」
ガーベラは逆に感心していた。ガーベラはハロルドに今回は激怒できなかった。それは自分にも他に恋人がいるからである。
「腹が立ったら怒ればいいじゃない。その方がすっきりするわよ」
「うーむ……」
「あまり悩むとだめよ。ほら、花が枯れちゃった」
水面に現れた赤い花は全部しぼんでしまった。
「あらら」
妖精達も残念そうである。
（ハロルドと別れたら……あっちの私はすごく悲しむかもしれないわね。なにせハロルドがとっってもお気に入りみたいだし）
ガーベラはそう思っていた。
「あら、ライサが飛んでいったわ」
空を見上げたダーナが言った。ライサは急いでいたのか青い空をそのまま飛んでいった。
「そういえば、あの子って本当に自然にできたの？ なんかガーベラとグレンがひっついてできたんじゃないかという噂もあるけど」
ダーナの言葉にガーベラはかなりぎくりとしていた。
「私とグレンが？ そんなばかな」
ガーベラは口元に手を当てて「ほほほ」と笑っていた。
（そっちもまだ謎だったわ）
グレンにしてやられて以来、ちょっとグレンを恐れているガーベラだった。
一方空の上の神殿、アシュランの間にはハロルドがやってきていた。広間には、アシュランの他に記録の神コーカサスがいた。
コーカサスは縦に青い模様の入った白いローブ姿で、おでこをだしている。長い白い髪は後ろで一つに束ねてあった。
額に銀の細いサークレットをはめている。
「こんにちは」
とコーカサスが挨拶した。目が細いのも相変わらずだ。コーカサスは神というよりは、呪い師のような風体である。
「ああ」
ハロルドはなぜコーカサスがいるのか、とちょっと不穏げな顔を向けていた。
「お前、朝から呼んでるんだぞ」
アシュランは不服げに口をとがらせていた。
「朝は忙しかったんだ。どうせたいした用じゃないんだろ」
ハロルドが二人に近づきながら言った。
「ルーシアとよりを戻すって本当か？」
アシュランの言葉にハロルドはずっこけそうになっていた。仮にも最高神が、そんなことを聞くためにわざわざ呼び出さないでほしい。
「あのなー」
ハロルドがコーカサスを見てはっとした。
「もしかして、お前これを本に書こうっていうんじゃないだろうな」
「おもしろかったら書きますよ」
コーカサスはこともなげに言った。コーカサスは人間界に神のことを書いた本を下ろしているのである。西の聖域、いわゆる聖地では、
その本を元に神話の本を改訂するのだ。神話の本はかなり改訂されてばんばん発行されている。
それは、本の売り上げが聖地の神官たちの大事な収入源でもあるからだ。
「書かなくていい！」
「しかし、龍の国ではハロルド様の本は飛ぶように売れますからね。妖精が生まれためでたい話は入れた方がいいでしょう」
「だな」
とアシュランが同意した。
「それで何の妖精が生まれたんでしたっけ？」
コーカサスがアシュランに聞いた。
「えーと、朝もやの精、男の子だ。この前朝もやの精がいなくなったって言ってたから、代わりに生まれたのかな。
それでガーベラともめたのか？」
アシュランは続けて聞いた。
「それはまだ、というかだな、実は、私はルーシアに何もしてない。周りが思ってるようなことはしてないんだ」
ハロルドはずばっと言った。アシュランもコーカサスもぽかんとしている。
「だが、ルーシアと一緒だったんだろ？」
「ああ、それはそうなんだが……」
数日前、夜がかなり更けてから、夜明けの女神ルーシアがハロルドの寝室にやってきたのだった。
ルーシアは以前何度かつきあった女神で、ハロルドにとっては、かなりなじみのある女性である。
ダーナやガーベラのような派手さはないが、切れ長の瞳に、ほのかに光る金色の長い髪の美しい女神である。
胸が結構大きく、ガーベラほどではないが、男心をそそる外見をしていた。
活動時間は夜中から朝で、昼間はあまり姿を現さない女神だった。だからガーベラが水浴場でルーシアとばったり会うことはない。
そのルーシアが、「久々に仲良くしましょうよ」とやってきたのだった。
ルーシアがやってきたのがかなり夜中だったために、ハロルドは眠すぎて、豊満な胸を押しつけられても、
そういう気分にもなれなかった。
「ルーシア、もう、眠くて眠くて、今は無理だ」
ハロルドは寝ぼけながら答えていた。
「もう、つまらないわねー」
ルーシアは悔し紛れにハロルドの腕をつねっていた。
「すっかりガーベラに骨抜きにされたのね。つまんない」
「そういうわけじゃ……」
目を閉じたハロルドに、ルーシアは顔を近づけて唇を合わせていた。それでハロルドは目を覚ました。
別段押しのけるようなことはしなかったのだが、ちょっとするとルーシアの方から顔を離していた。
「なんだか頭が痛いわ」
「え？」
「どうしたのかしら、頭が痛い……」
「おい、ルーシア、どうしたんだ？」
「私もう死ぬかも」
ルーシアは突然頭を抱えて苦しみだした。
「神が死ぬわけないだろう。しっかりしろ！ 今空の神殿に連れて行って……」
ハロルドがあわてて言っていると、ルーシアが口からもやっとしたものを吐き出したのだった。
それは塊となり、一人の妖精の姿になった。
「あ、頭が痛いの治ったわ！ やった！ 妖精が生まれたわ！」
ルーシアは何もなかったかのように飛び起きて、妖精と手を取り合って喜んでいた。妖精は男だった。
金色の短髪の青年である。顔立ちはルーシアよりで、体格もほっそりしていた。
二人は手を取り合って喜んでいたが、ハロルドはぽかんと口を開けて二人のやりとりを眺めていた。
「やったわ。ハロルドとの間に初めて子供ができたわね！」
ルーシアの声にハロルドははっと我に返った。
「え、今の、私は全然関係ないだろ？」
「関係あるわよ。ねえ」
ルーシアは妖精を見たが、妖精は首をかしげている。
「服を用意してあげましょう。じゃあね」
「あ、おい」
ルーシアは裸のままの妖精と一緒に行ってしまった。
ハロルドはあげた手をぱたんと下ろした。
「まあいいか。寝よう」
そのまま寝て、起きたら、「ハロルドはルーシアとよりを戻した」という噂が広まっていたのだった。
子供達にも「お母さんと別れるの？」と聞かれる始末である。
きっと噂をばらまいたのは風の妖精達に違いない。
口づけだけで子供ができたのだが、ガーベラに弁解するのもなんだかおかしなことのように思われた。
ガーベラの方には複数恋人がいるのだから、多少自分が何かあったとしても、文句を言われる筋合いはないだろうと思ったからである。
ファティマの時は黄金の腕輪がからんでいろいろもめたのだが、今回は、そういうことはなかった。
「というわけでだ、ルーシアとそこまで仲良くしてないんだ」
ハロルドは二人に初めてことの真相をあかしていたが、二人はかえってしらけた様子だった。
「つまらんなあ」
「そうですねえ」
「まあ、本では激しく愛し合って妖精ができたと書いておけ」
「そうですね」
アシュランとコーカサスは勝手に話を進めていた。
「おいおい、勝手なことを書くんじゃない」
ハロルドはあわてていた。
「ですがね、口づけだけじゃ、物足りないじゃないですか。仮にもハロルド様なんですからそれくらいしていただかないと」
「そういう問題じゃないだろう。やってもいないことを書くな」
「人間は神々のどきどきした話が好きなんですよ。つい昔を思い出して盛り上がった、くらい書かないと、本が売れません」
コーカサスが拳を握りしめて力説していた。
「本が売れないって……お前いつから商売人になったんだ？ それに神話の本にそんな艶事ばっかり書くんじゃない！」
「そういうことばっかり書いてるわけじゃないですよ。一つや二つちりばめてるだけです」
コーカサスも悪びれる様子もない。
「人間の神への関心を高めるのは大事なことなんです。いつも神のいい話ばかりじゃ人間だって飽きるじゃないですか。
それにですね、アシュラン様のそっちのお話はもう人間達も驚かないんですよね。だから違う神の話がいいんです」
コーカサスはアシュランの横でずばりそんなことも言っていた。
「だからって私を犠牲にするな！！」
「何が犠牲だ。ガーベラと別れないんだからいいじゃないか」
アシュランはあっさり言っていた。
「いや、ガーベラともめるのはこれからか。ガーベラはさすがにそんな話は信じないだろうからなあ」
アシュランはにやにやしていた。
「そうですね、おおいにもめてください。その方がおもしろいですし」
コーカサスも口元が緩んでいる。頭の中では勝手におもしろい話になっているようである。
「うるさいわ！！」
ハロルドはそう言い残して広間から出て行ったのだった。
「なんで人間を楽しませるために、もめなきゃならんのだ！！」
廊下でそう叫んだハロルドだった。
一方人間界蛇の国では、夕方、部屋まで整えられてしまってはと、セリアが泣く泣く城にやってきていた。
「セリア、いらっしゃい、あれ？ どうしたの？」
セリアは泣いたまま王の間の前にやってきていた。
「王妃様〜私、こんなに太っちゃって、王様と王妃様にみられるのが恥ずかしいんです！」
セリアは泣きながらゆりに言っていた。
「え？」
セリアを上から下まで眺めたゆりは、微笑んでセリアの背中をなでていた。
「なに言ってるの。こんなの子供産んだらすぐ戻るって。大丈夫大丈夫、さあ、王様に会いましょう」
ゆりはセリアを促して王の間に入っていった。
ラクシュミも、セリアを見てもたいして気にしなかった。
「しばらくいてゆりの気楽さをうつしてもらえばいい」
ラクシュミはこんなことを言っていた。
「太ったというからどれほど太ったかと思ったが、なんだ、ちょっとじゃないか。たいしたことない。あの時のゆりに比べれば……」
「そうよ。あの時の私に比べれば問題にもならないくらいよ」
ラクシュミもゆりも気楽だった。太った基準が、ラギを妊娠した時のゆりなのだから、無理はない。
二人は王の間を出た。
「そういえば竪琴は最近練習してるの？」
「それが、最近はそういう気になれなくて……」
「よかったら私が教えてあげようか？」
「え？ 王妃様が教えてくださるんですか？」
セリアは大感激して聞いた。
「もちろんいいよ」
そこでゆりははっとした。
私が！ この私がだれかに竪琴を教える日が来るなんて！！
ゆりはそのことに自分で驚いていた。
「王妃様、ありがとうございます。なんだかうきうきしてきました」
セリアはうれしそうだった。
「私もよ。セリアの部屋は二階にあるからね」
「ありがとうございます」
その後セリアを見たアナスターシャも、「太ったって聞いたけど、あの時の母様に比べれば全然じゃない」と言っていた。
アナスターシャは未だにあの時のゆりの姿を覚えているようである。シスは小さかったので、子供の中で知っているのはアナスターシャだけだ。
「あの時の母様本当に丸かったよね」
「もう忘れて」
「今のセリアの二倍は丸かったよね」
「二倍？」
セリアはさすがに驚いていた。
「もういいって。私も戻ったんだからセリアも大丈夫、それくらいだったらすぐやせるって」
「お母さんのお気楽気分がうつるといいね」
ラギはラクシュミと同じことを言っていた。
こうしてセリアは心が落ち着くまで城に滞在することになり、ゆりに竪琴を教えてもらうことになったのだった。
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