第13話
「街の者の噂では、蛇の国の王妃は今年妊娠二年目です。時期はまだ不明ですが、来年には子供が生まれるだろうとのことです」
「そう」
言葉を返したのは長いすに座っていた美女だった。長い流れるような艶やかな黒髪、豊かな胸、くびれたウエスト、その顔は、
だれもがはっと心を奪われるほどに美しかった。女は身体の線にそった黒いドレスを着ていた。
大きく開いた胸元からは、むちっとした胸の谷間がのぞいている。白い肌にはあざ一つなく、赤い唇の色だけが際立って見えた。
同じ部屋にいた黒いローブを着ていた男は、落ち着きなく視線をさまよわせている。目の前の女を凝視するだけで身体が反応しかねない。
女はドレスを着ているというのに、まるで裸体をあらわにしているかのような凄まじい色気を発していたのである。
「ファリーヌ様、王妃のことを探ってどうなさるおつもりなのですか？」
男は膝をついたまま聞いた。
ファリーヌという女の名前を神の国で出せば、きっとだれもが眉をしかめることだろう。
ここは闇の国、かつて、ゆりとイシュタールがやってきた国である。そして目の前にいたのは、ガーベラと顔が似ていた女だった。
この世界の女神である。
「さあ、どうしようかしらねえ。それよりも、ちゃんとわからないように探っているんでしょうね？ こちらの者が動いちゃだめよ。
向こうの人間をうまく使うのよ。それから、ゲイルにばれないようにね」
「はい、わかっております」
「それにしても、その王妃がここに来たってのがまだ信じられないわ。本当にあの時の女なんでしょうね。よく調べるのよ」
「はい」
黒いローブの男は部屋を出て行った。
「あの女が王妃？ 笑っちゃうわね」
ファリーヌは唇と同じ、赤い爪をなでながらせせら笑っていた。
「でもあの男は国王ではないのに、どうして一緒にきたのかしら？ 愛人？ それなのに帰ってからも元通りってどういうことなの？
まあいいわ。ガーベラ、私を侮辱したあんたの信者は、私が必ず苦しめてやるわ」
笑ってはいたが、その黒い瞳には憎悪の色が宿っていた。それは女神ガーベラならば一生することはない表情であった。
ガーベラと顔は似ていても、やはりその性質はかなり違うようである。
ファリーヌは、自分と似た顔を持つ女神ガーベラを激しく憎悪していた。
そして、ここの世界にきて自分を侮辱したゆりが無事向こうの世界に帰ったことを知り、行方を捜させていたのだった。
ところは代わり、過去の世界である。
女王ヴィラルージュは二人目を妊娠中だった。それはとてもめでたいことなのだが、女王は体調不良が続き、気分の落差が激しい日々を送っていた。
ディラン達は女王を喜ばせようと、夢でドルイドと出会った話を女王にしたのだった。
女王はとても喜んだ。しばらく機嫌もよかったほどである。
「それはよかったんだけど……あれから陛下は部屋に入るとずっと魔法書を読んでいらっしゃるのが気になる……」
城の廊下でディランにぼそっとつぶやいたのはフークスだった。
「まだ読んでいらっしゃるのか？」
ディランが顔を寄せて小さな声で聞いた。
「うん。まだ読んでいらっしゃるようだよ。まさかドルイドを召喚しようと考えていらっしゃるんじゃないだろうな」
「まさか……」
ディランは笑いそうになったが、その笑いは止まっていた。こんなことは以前にもあった。女王がゆりを召喚する以前のことである。
妊娠した女王は、個室にこもると魔法書を読みあさっていた。『巫女を召喚する』と言い出したのはその後のことである。
周りは皆反対したが、女王は聞かなかった。一度こうと決めたらやり遂げる頑固な所があるのである。
「……やっぱりドルイドのこと言わない方がよかったかな？」
実はディラン達も女王に告げるかどうか迷っていたのだった。
「もう言っちゃったからしょうがないよ。陛下はゆり様にも会いたいと言ってらしたからなあ。まあそれは冗談でだけど」
王子アゼルが通りかかり、二人は丁寧に礼をした。銀色の髪、金色の瞳を持つ王子は御年12歳である。まだ幼いながらもちゃんと
次の王たる自覚を持ち、日々を過ごしている。彼らにとってはかけがえのない存在であった。
「ねえ、次にドルイドに会いそうになったらさ、僕も夢に呼んでよね」
アゼルは無邪気な瞳をあげてそう言った。
「はあ、できるならばそうしたいですが……」
ディランがちょっと笑って答えた。
「絶対呼んでよ。僕だってドルイドといろいろ話をしたいんだからね」
女王にその話をしたときに、部屋にアゼルもいたのだった。
あの夢を見た夜は、、フークスやルークまで未来の者達に会っていたと知り、ディラン達もかなり驚いたものだった。
夢で未来の者と出会い、ドルイドとまで出会ったという話に、女王やアゼルはかなりうらやましいと感じたようである。
そして、子蛇の話も詳しく聞いてきたのだった。レイアスの子蛇の件には、二人とも悲しんだ。
「ドルイドもだけど、僕は早くお姉様にお会いしたいなあ」
アゼルがうきうき顔で言った。『お姉様』とは、そのうちこの時代にやってくるというアナスターシャのことである。
アゼルは姉ができるというので心待ちにしていたのだった。そのうち弟か妹が生れるといっても今は一人、兄や姉という存在に、
アゼルはあこがれを抱いているのである。フークスにアナスターシャのことをあれこれ聞いているほどだ。
「お姉様がいらっしゃったら、きっと一緒にいろんなことができるよね。とっても綺麗な人なんだって。楽しみだなあ。早くお母様が元気になればいいなあ」
アゼルは足取りも軽く通り過ぎて行った。
反対方向からレイアスがやってきた。うなだれてかなり暗い様子だったので、フークスが「どうしたの？」と聞いた。
ディランも「何かあったのか？」と声をかけた。
「さっき占い師にあって僕のことを占ってもらったんです。そしたら、子供が一人なくなりましたねって言われました……」
レイアスは暗い顔のまま告げた。
「え……」
「あらら……」
「やっぱり僕の子蛇は死んじゃったんだ……」
「いや、そんな……占いだろう？ 占いなんてものは適当なもんだ」
ディランは引きつった表情でレイアスの背中をたたいていた。
「そうだよ。そんなことわからないよ」
「最近評判の占い師なんですよ。灰をまいてあげることもできないなあ……そうだ。ゆり様の石像の横にお墓を作ってあげよう」
レイアスはぶつぶつ言いながら歩いて行ったので、二人はあわてて追いかけていったのだった。
夜になっても、女王は個室で本を読みふけっていた。
「陛下」
横からぬっと出てきたのははげ頭であごひげが長い老人、ムサカであった。
「うわっ、びっくりした。いきなりなんじゃ？」
女王は慌てたように本を閉じていた。
「早く休んでくだされ。召使い達が気をもんでおりますぞ」
「ん、さようか。ではそろそろ」
「またたいそうな魔法でも使おうと考えておられるのではないでしょうな？」
女王はそれとなく本をムサカから隠そうとしていたが、ムサカにはお見通しのようだった。
「なんのことじゃ？」
「難しい魔法書を読まれて、ドルイドを呼ぶ気ではないでしょうな？」
「ドルイド？ 私がドルイドを？ まさかそんな……」
女王はほほほと笑っていたが、ちょっと笑いがぎこちなかった。
「ドルイドは陛下に会いたいとは思っておりませんぞ」
ムサカがずばり言うと、女王はたじろいでいた。
「今のはぐさっときたぞ。ぐさっと」
「今や新しい王か女王に仕える身、ほっておきなされ」
「別に、ドルイドを呼ぼうと思ったわけではない。いや、ちらりとは思ったが、他の方法でドルイドの姿を見ることができないものかなーと。
ちらりと見られれば気がすむのじゃ」
女王は珍しく子供のように口をとがらせた。これもムサカの前だからだろう。
「あきらめなされ。我らにできることは、ドルイドの幸せを祈ることだけです」
「ぐう……おもしろくない。私はその夢には行けぬし」
「またディラン達と一緒に寝てみたらどうです？ 偶然同じ夢に行けるかもしれませんぞ？」
ムサカがにんまりして言うと、女王は不機嫌そうに視線を横に向けていた。
「いやじゃ。今は男と一緒には寝とうない」
それも妊娠のせいか、女王には男とあまり近づきたくない時期というのがあった。そういうときは、女王の間も極力女性だけになる。
これは前回の妊娠初期にもあったことである。他の女性にもよくあることだった。
「ならあきらめなされ」
「あ、そうじゃ、アナスターシャ殿とのなら一緒に寝てもよい。やはりすぐ呼んでしまおうかのう」
女王が瞳を輝かせた。
「おやめなされ。今の情緒不安定な陛下を未来の姫君に見せるおつもりですか？ 手本となるべき方がこれでは、姫君も失望してしまいますぞ。
姫君を呼ぶのは、陛下が出産して気力を取り戻してからの方がよいでしょう」
「う……今の私はそんなにひどいか」
女王はさすがにショックを受けていた。
「まずは、ゆっくり休んでくだされ。心穏やかに、召使いに笑顔を向ける余裕がもてるように」
「…………」
女王は反論の余地もなかったのか、何も言わなかった。確かに女王は妊娠してからいらいらすることが多く、召使いにそっけない態度を
取りがちなのも事実だった。
「わかったわかった。まったくじいやにはかなわぬわ」
女王は退散するように部屋を出ようとし、ムサカは「本を渡してくだされ」と手を出して女王の魔法書まで持って行ってしまった。
「くー、ドルイドに愚痴の一つも言ってやりたかったが……今は魔法力が足りぬ……まあ、じいやの言う通りではあるが……」
やはり女王はドルイドを召喚する気でいたようである。
一方、墓作りを反対されたレイアスは、自分の屋敷の庭に陶器でできた緑の蛇を飾り、花を供えていた。
「おとーさま、元気だしてね」
「ありがとう」
レイアスの娘のユーリも一緒にお花を供えていた。緑の髪のかわいらしい少女で、７歳になる。この家系の力の強さからいって、
ユーリはすでに次の王妃候補に名が上がっていた。ディランの子供は女王の血を引くし、その上ユーリが次の王、アゼルの妻になって
子供を生めば、ディランとレイアス、両方の血が王族に加わることになる。さらにその血にはフークスの血も入っているのだ。
未来がどのようになるのかは不明だが、男達の誰かの血は、遠い遠い未来まできっと残るに違いない。
「子蛇もきっとね、生まれ変わるよ。きっとそのうちに、おとー様の所に会いに来てくれるよ」
「そうだね」
レイアスは娘に笑ってみせた。
そしてラクシュミ王が治める時代――
梅雨も過ぎて、今年も残すところわずかになった。
昨年に比べれば、今年は平和に過ぎたといえるかもしれない。今年一番変化があったのはイシュタールだった。半分妖精になった上に妖精の子供まで
できた。半妖精の暮らしには慣れたものの、興奮すると熱くなってしまうので女性を抱けないのと、ゆりにもらった子蛇がいなくなってしまったことが、
イシュタールの中ではずっと気がかりのままである。梅雨の間は身体がおっくうで屋敷にこもっていたために、さらにそのことを考えずにいられなかった
ようである。
城の中では、ロイの後に他の子供達まで風邪を引いていたが、大事にならずにはすんだ。ゆりも元気である。
「ねーマリカー僕と勝負しようよー」
廊下を掃除していたマリカを見つけてロイがやってきた。
「ですから、できませんって何度も申し上げてるじゃないですか」
マリカはモップにからんできた大蛇を振り落として言った。大蛇は未だにマリカに遊んでもらおうとからんでくるようだ。さらに最近ではロイもからんでいる。
マリカの足の速さを知り、ロイはどうしても勝負したいと言ってきかないのだった。マリカは城にいる女性の中では一番足が速いとロイは見ていた。
男性よりも速いかもしれない。
「ちょっとだけでいいから僕につきあってよ」
「嫌です。仕事をさぼったら減給になってしまいます」
「じゃあ休みの日に勝負してよ」
「休みの日は休ませてくださいませ」
マリカはにっこりほほえんで言った。
「ケチー」
ロイはぶつくさ言いながらマリカから離れて、ラギに会いに行った。ラギは自分の部屋で読書中だった。
「ラギにーお金ちょうだい」
ロイは右手を出しながら言った。
「お金？ 何買うの？」
「マリカにあげるの」
「マリカってメイドの？ なんで？」
ロイはマリカとかけっこの勝負をしたいことをラギに説明したのだった。
マリカはお金が欲しいとは言っていなかったが、お金をあげればつきあってくれるだろうとロイは思ったのだった。
「ちょっとくらいつきあってくれればいいのに、マリカってけちだよね」
「ははは、彼女の言い分は最もだよ。そういうことはメイド頭に頼むんだよ。そうした方が話が早いよ」
「ふうん？ ラギにー頼んでよ。僕わかんないよ」
ロイはラギの腕を引っ張っている。ラギは仕方なくロイにつきあい、メイド頭に話をしたのだった。
こうして仕事としてマリカはロイの相手をすることになった。ロイはマリカを闘技場につれて行き、そこでかけっこの勝負をすることになった。
マリカは今日はズボン姿である。闘技場には他の戦士達も１０人ほどいた。冷たい風が吹いていたが、凍えるほど寒くはなかった。
「勝負ってどうするんです？ はじからはじまで走るんですか？」
マリカが屈伸運動をしながらロイに聞いた。二人は闘技場のはじっこにいる。
「うん、向こう側の壁に先にタッチした方が勝ちだよ」
「わかりました」
「よーいドン！」
二人は同時に走り出した。そして半分ほど走ったところでマリカがどんどんスピードをあげて、マリカの方が勝った。
「私の勝ちですね」
「くそー次は……」
思いっきり走ったロイはぜいぜい言っていたが、マリカは余裕顔だった。
「まだやるんですかあ？」
「まだだよ。次は二人で走って先にばてた方がまけって勝負をしよう」
「はあ、私が勝つに決まってますけどね」
「僕は体力には自信があるのだ」
「そうですか。せっかくなので、これが終わったら私と内緒の話をしてください」
マリカが言い出した。
「内緒の話って？」
「私はここに来て半年くらいになりますけど、まだまだ知らないことが多くて、メイド仲間よりもロイ様の方がいろいろと詳しいでしょう？」
「よくわからないけど話くらいいいよ」
「それじゃ始めましょう」
二人は闘技場内をぐるりと一周走ることにした。戦士達が注目する中、二人は走り出したのだった。
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