第１５話
新たな年が明けて、大人になったドルイドがシスの部屋にやってきた。
ドルイドは今回ちゃんと服を着ていた。黒系のズボンにシャツ、上着である。
「あーよかったあ、成功したんだー」
シスはドルイドの恰好を見て喜んでいた。ラクシュミに相談して、カレンの屋敷のメイドに話を回してもらったのだ。
たまにカレンが一緒に寝ることがあるので、ドルイドは最近大人用のベッドに寝ている。そのベッドの下に服を入れた箱を置いてもらったのだった。
メイドも不思議に思っただろうが、ラクシュミから話が回っているのでカレンにそれをいうこともないだろう。
「私もうれしいです」
寒いので二人はベッドの上で並んで座り、布団をかけた。ドルイドがシスの背中に腕を回すと、体の周りがじんわりと暖かくなった。
「僕もそういう魔法使えるかなあ？」
「もう少し大きくなれば使えるようになりますよ。それでは、最近何か変わったことでもありましたか？」
ドルイドは途中から古代語で聞いていた。どうやら今日はお勉強する気満々のようだ。
「えーと……」
シスは頭を悩ませつつ、答えだした。昨日はアナスターシャとシスの誕生日のお祝いの日だったので、その話をしたのだった。
シスはゆりの話をしたかったが、今夜はなかなかそういう隙もなく、授業は終わったのだった。
二時間ほどシスと過ごしてから、ドルイドはシスの部屋をでた。
服を着て帰れるというのはうれしいものである。屋敷に帰ろうとは思ったが、つい足は違う方向に向いてしまっていた。
ちょっとだけ、と思いつつゆりの寝室にそろりと移動したドルイドは、ベッドに眠るゆりと、ゆりの横に何か白いものがあるのを見て首をかしげていた。
なんだろう？
ちょうどゆりの顔の横に２０㎝くらいの白いもやっとしたものがあった。よくみると、
顔と胴体、人間の赤ん坊に見える。白いもやの横には大きな巻貝があった。
あ、ひょっとして、ゆり様のおなかにいる赤ん坊なのかな？
すごい！
赤ん坊は、横を向いていたし、男か女かもわからなかった。だが見るだけで口元がほころんでくる。
ゆりに目を向けると、なんだかうれしそうな顔をして眠っていた。いい夢でも見ているのかもしれないとドルイドは思った。
ゆり様、無事お生まれになることを祈ってます……
ドルイドは幸せな気分になってその場を去っていった。
深夜の来訪者に、ゆりは今回もまったく気が付くことはなかった。
そのゆりは、夢の中で神の国に来ていた。
顔を上げると目の前に絶世の美女神ダーナがいて、心臓がどきんと跳ね上がった。いきなり見るには心臓に悪すぎる。
「急にどうしたの？」
ダーナは顔を寄せて聞いた。
「え？ 別に、ちょっと眠くなっちゃって……」
ガーベラ姿のゆりはあわてて笑みを作り、周りを見た。ここは雲の上の神殿にある神々の歓談の部屋のようである。
ガーベラは椅子に座ってダーナと話していたようだ。同じ部屋には竪琴を奏でている妖精達がいた。
「眠くなった？ 急に？」
「何の話だっけ？」
こういうことも何度も経験済みなので、ゆりはあまり取り乱すこともなかった。
「えーと、なんだっけ……そうそう」
「ダーナ！」
そこにあわてた様子のアリアスが部屋に入ってきた。
「ダーナ、よかった。ここにいたか。いいか、しばらく一人になるんじゃないぞ？」
アリアスはかなりあわてて話しながらダーナの手を握っていた。
「一体どうしたの？」
ダーナが不思議そうに席を立った。
「大変なんだ。アシュランが……アシュランの具合が悪いんだ。だからお前はしばらく一人になるな。ここならいいが、
下に降りたらだれかといるんだ。私に引っ付いていてもいい。とにかく誰かといろ」
アリアスはまくしたてるように言っていた。ゆりは座ったままでアリアスを見上げている。こんなにあせった太陽の神を見るのは初めてだ。
竪琴の音は止まっていた。妖精たちもこちらに注目しているようだ。
「アシュランがどうかしたの？」
ダーナが聞いた。
「ともかく、一大事だ！」
ダーナがアシュランに会いに行くというので、ゆりもひっついて行った。
一体何が起こったのだろうか。
アシュランの間に入ると、アシュランの周りには５人の妖精がいた。アシュランは上半身裸で長椅子の上に寝転んで、
腰にシップのようなものを貼られていた。
「アシュラン、一体どうしたの？」
ダーナが近づいて聞いた。
「ああ、たいしたことはない。ちょっと腰が痛かっただけだ」
「たいしたことだ！」
アリアスが怒鳴るように言っていた。
「ちょっと痛いだけだ。お前は毎回大げさすぎる」
「大げさなくらいでいいんだ。わかっただろ？ ダーナ、お前はしばらく一人にならないように」
アシュランの腰痛とダーナとどういう関係があるのか、ゆりにはさっぱりわからなかった。
「一体どうして腰が痛くなったの？」
ゆりが聞いてみた。
「何もしてない。急にズキンときたんだ。もうそんなに痛くない」
「ほら、大変だ」
とアリアス。
「もう痛くないって言ってるけど？」
とダーナ。
アシュランは服を着て長椅子に座った。
「いや、大変なことだ。ダーナ、しばらく人間界にも行くなよ」
アリアスはしつこいくらいに念を押していた。
「なんならしばらく私のそばにいるか？」
アシュランがにやっとしていうと、
「ばかなことをいうな。神殿まで送ってやる」
アリアスはさっさとダーナの手を引いて、戸惑うダーナを連れて行ってしまった。妖精たちも出ていき、ゆりは部屋を出るタイミングを逃してしまい、
アシュランの前にたたずんでいた。アシュランと目があった。
「ヒルデリアはどうしたの？」
「ヒルデリアとハロルドは下の様子を見に行った。私にちょっとでも何かあると、毎回周りは大騒ぎだ」
「そうなの。お大事にね。それじゃ失礼します」
ゆりは余計なことは聞かずに部屋を出ていこうとした。
「おい、ガーベラ」
「なあに？」
ゆりが振り向くと、アシュランはちょいちょい手招きをしていたので、ゆりは近づいて行った。
「なに？」
「…………」
「？？？」
アシュランはじーと女神の顔を見ていた。ゆりはきょとんとしてアシュランを見ている。
「別になんでもない。もう行っていいぞ」
「はあ。それじゃ」
ゆりは首をかしげて再び歩いて行った。
部屋を出たゆりはアリアスがなぜあんなにあせっていたのか、理由がわからずもやもやしていた。
アマンザに聞こうかと思っていると、廊下の向こうからグレンがやってくるのがみえた。
「あ、グレン、ちょうどよかった」
「ガーベラ様」
「ちょっと来て」
ゆりは速足でグレンを捕まえて廊下のはじの方に移動した。
「な、なんですか？ 私はちょっとアシュラン様に用が」
「もうそんなに腰は痛くないって」
「そうですか。それはよかったです」
グレンはほっとした様子だった。
ゆりは行こうとしたグレンの腕をがしっと握っていた。
「ちょっと聞きたいことがあって。アリアスがすごくあせっていたんだけど、どうして？」
ゆりは小声で聞いた。グレンはガーベラの中身が時々違うことに気付いているようなので、聞いても大丈夫だろうと思ったのだった。
「はあ、アシュラン様はめったに体調を崩されないんですけど、崩された時は何かしらよくないことが起こるので、アリアス様はそれを心配されているんでしょう」
「つまり、不吉なんだ。それで、ダーナにも一人になるなっていってるのね」
「ガーベラ様もしばらく一人でうろちょろしないようにしてください。特に夜には」
「はーい。ありがとう」
ゆりが手を放した。
「それでは」
グレンは去っていった。
アシュランの体調が悪いと不吉なことが起こるのかあ……
詳しい話をアマンザに聞きに行きましょう
ゆりはジンラのところに飛んで行った。
ついたところは農園だったが、ぶどう農園ではなかった。プルーンやプラムのような実がついた木が並んでいる。
太陽の光がまぶしく温かい。人間界では冬なので、ゆりはついまったり気分になった。
「ガーベラ」
呼ばれて振り向くと、ジンラとサントスが歩いてくるのが見えた。ゆりは二人に近づいていった。
「どうしたんだ？」
ジンラはすぐそばまで歩いてきたが、サントスはちょっと離れたところで立ち止まり、こちらを見ていた。シャイなのも相変わらずである。
「ただ会いに来ただけ。アマンザはいないの？」
「ああ、アマンザはぶどう農園じゃないか？」
「そうなの。さっき雲の上の神殿にいたんだけど、アシュランが腰痛だとかで、アリアスがすごく騒いでたの」
ゆりはこの際ジンラに言ってみた。
「ああ、さっきヒルデリアが飛んできて言ってた。そんなにたいしたことはないんだろう？」
「そうよ。たいしたことはなさそうだけど、アリアスはすごい剣幕でダーナを連れて行ったの」
「そうか。まあそりゃアリアスもダーナが心配だろうからなあ。またあんなことがあったらと気が気じゃないんだろう」
「そうよね」
ゆりは意味が分かってなかったが、そう返した。
どうやら、以前アシュランの体調が悪いときにダーナに何かあったらしい、ということはわかった。
「ガーベラも一人で遠くまでいかないでくださいね」
サントスは離れたところから言っていた。
「サントスったら、近くに来てよ」
「いえ、ここにいてもあなたの美しさはよく見えてます」
サントスは頬を真っ赤にしていっている。
「もう」
「ハロルドのところにはしばらく飛ばない方がいい。忙しいだろうからな」
「わかったわ」
「そうだ、面白いものをやろう。気に入るかな？」
ジンラはゆりから離れて、ジンラの背丈ほどの木になっている実を取って渡してくれた。紫色の楕円の実である。
「これ、プルーンでしょ？」
「食べてみろ」
ゆりは実をかじってみた。甘酸っぱい味とともに、鼻にふわっといい匂いが漂ってきた。お酒の匂いである。
「あれ？ なんだかお酒の味がするような？」
洋酒につけたフルーツを食べているような味なのでゆりは驚いた。
「私の力を入れて大きくなったんだ」
「おいしい！ もっと食べてもいい？」
「ああ」
ジンラは持っていた実を全部渡してくれた。
「おいしー」
「それじゃ私は行く。ガーベラ、あまり一人にならないようにな」
「はーい」
ジンラは消えて、ゆりは草の上に座ってプルーンを食べていた。サントスは離れたところに立ったままである。
二人の間に子供までいるとは思えない距離である。
「用事があるから横に座って」
ゆりは声をかけた。
「え？」
「ここに来て」
「はあ……」
サントスはそろそろ近づいてきた。
「今日はネルはどこにいるの？」
「キュリアに会いに行きましたよ。蛇を見に行くとか言って」
「へー」
へび？
ゆりは心の中で首をかしげていた。
「それで用事ってなんですか？」
「はい、あーん」
ゆりはプルーンをつまんで、サントスに近づけた。サントスはきょとんとしている。
「口を開けて」
「え？」
「せめてちょっとは恋人らしいことしようよ～」
「えー……」
サントスの頬がもっと赤くなった。
「口を開けて」
ゆりは少しだけ開けたサントスの口に、プルーンを突っ込んでいた。
そのころ、ダーナの神殿では大勢の神が集まって大変な騒ぎになっていた。全員がまるで敵でも攻めてきたかのような表情をしている。
その真ん中にいたダーナは困った顔でいたが、ここから出ようにも隙間もないほどに囲まれていて出られなかった。
風の神ウィル以外のダーナの恋人たちもいたし、ダーナの子供たちもやってきて、口々にダーナの心配をしていた。
「心配してくれるのはありがたいけど、そうそうあんなことにはならないわよ」
ダーナが言うと、
「それはわからないだろう」
と緑の神ジュライがいった。
「そうだ。念には念を入れなければな」
とアリアス。
「そうよ。しばらくお母さんを隠しましょう！」
「それがいいわ」
娘たちが言い出して、奥の部屋に行ったかと思うと戻ってきて、ダーナをシーツでぐるぐる巻きにしていた。
「ちょ、ちょっとー！！！」
そこにウィルがやってきた。
「アシュラン、もう腰痛は治ったって」
神々は一斉に注目したが、すぐに
「いや、しばらくは心配だ」
「そうだな。用心にこしたことはない」
と言い出した。
「いい加減にして！ もう大丈夫だって言ってるんだから大丈夫でしょう！」
ダーナはシーツを押しのけていた。
「その油断がいけない」
「そうだ！」
「お母さんを隠せー」
「おー」
「ちょ、ちょっとー！！！」
ダーナは娘たちにシーツにくるまれて、しまいには５人にかつがれていた。
「ここよりもお父さんの神殿がいいんじゃないかしら？」
「そうよね。あっちの方が守りが堅いわ」
「いきましょ。いきましょ」
「こらー！！ 歩いていけばいいでしょー！」
ダーナはそのまま連れていかれて、恋人たちも、娘達をたしなめるどころかぞろぞろついていった。
「あーあー」
ウィルはす巻きにされたダーナを見ながらつぶやいていた。
人間界では朝になり、ゆりは戻ってきていた。サントスと会っている時にクーリーフンがやってきて、二人きりになったときに少し話を聞くことができた。
以前アシュランの具合がひどく悪くなったとき、神の国の結界が弱まって、夜になり向こうの世界、つまり闇の世界の神が一人侵入してきたのだという。
その神は、なんとダーナを拉致してしまった。そのときダーナは意識を飛ばして、かろうじて心をこちらにとどめて助かったのだという。
アリアスたちが慌てるのもそういうことがあったからだ。
目覚めたゆりはベッドに寝転んだまま考え込んでいた。
闇の世界とのやりとりは人間界には伝わることはない。そのダーナの話は神話にはない可能性が高い。
あったとしてもかなり違った話になっているだろう。
「ダーナの神話かあ……そういえば何か大きな事件があったような？ ラギに聞いてみよう」
ゆりはベッドから降りて顔を洗いに行った。
「ダーナ様の事件といえば、一つ大きなのがあったよ。一時ダーナ様がひどく体調を崩していた時があったんだよ」
食堂にてゆりがダーナの事件のことを聞くと、ラギはすぐに答えていた。
「私もその話は知ってる。人間たちから優しい心が消えて、それでダーナ様の力が衰えたって話でしょ？」
アナスターシャが言った。やはり神話には別の話としてのっているようだ。
「ダーナ様になにかあったの？」
そう聞いたのはシスだった。
「ダーナは元気よ。ただ、神の国で前にダーナに大変なことがあったって聞いたから、神話にあるのかなーって思ったの。詳しいことは聞けなかったから」
「人間の信仰が薄れると、神様の力が弱くなるらしいからね」
シスが言った。
「それっていつの話なの？大昔？」
ゆりが聞いた。
「大昔ってことはないよ。専門家の研究では、約５千年くらい前のことだよ。世界中で戦が多かった時があって、たぶんそのへん。
その頃この国でもいろいろ事件があったようなんだけど、実は古代叙事詩が失われたのもそのころなんだよね。
ハザーク様に聞いてもそのころのことはよく覚えてなくて、今ではさっぱりわからないんだよね。史実にもあんまり詳しく載ってないんだ」
「へー……この国でも混乱期だったんだ。ダーナの影響力ってすごいのねえ」
本当にこの二つの時期が一致するならだが、まさか、古代叙事詩とダーナが関係していたとは、ゆりもこれには驚いた。
「あれ？ 戦が増えて、ダーナ様の具合が悪くなったんじゃないの？」
アナスターシャが聞いた。
「もしかしたら逆かもね。ダーナの神の力が衰えて、人間界に戦争が増えたのかも？」
「神様も時々病気になったりするの？」
聞いたのはナナミだった。
「神様も力が衰える時があるのかもね。王様がたまに力がおちるのと一緒かもよ」
「そうなんだ」
ダーナは慈愛の女神である。人間への影響は大きいに違いない。身体は失われて心は残ったが、すぐに元のダーナには戻れなかったのかもしれない。
神々の影響力を考えると、確かに神々の長であるアシュランの腰痛もばかにできない
すっかり元気になってますように、とゆりはアシュランの心配をしていた。
神の国では夜になり、アシュランの腰の具合はすっかりよくなっていたので神々はほっとしていた。
「本当に大丈夫なんだろうな？」
アシュランと同じ部屋にいたのはハロルドだった。ハロルドはアシュランが腰痛だというのを聞いてから、神の国の確認にあちこち飛び回っていたのだった。
「大丈夫だ。これから誰かの上に乗ってもいいくらいだ」
アシュランは酒を飲みながらそんなことを言っていた。
「……アリアスにそれを言ったらどやされるぞ」
「そうそうあんなことにはならないだろう。それに二度もダーナを狙わないと思うが、目的は達したんだからな。もう狙わないだろう」
アシュランは紫色の実を口に入れていた。
「これジンラが持ってきたんだが、うまいな」
食べていたのは、ゆりが食べたお酒の味がするプルーンだった。
ハロルドは神妙な面持ちだった。
あちらの神は、ダーナを拉致することに成功したのだ。心は手に入らなかったが体は手に入れた。
あろうことかダーナの体に別の魂が入り、新たな神が誕生してしまったのだ。闇の世界には、ガーベラと似た顔の神もいれば、
そういういきさつでダーナと同じ顔をした神もいるのである。
「まあ、お前の不調があちら関係だけとは限らないからな。前に人間界で大地震が起こった前も、頭が痛いとか言ってたろ。
その前は大洪水があったし、他には─」
「アシュラン様失礼します」
部屋にグレンが入ってきた。
「さきほど人間界、西の聖域のアシュラン様の石像に雷が落ちまして……」
「雷？ 私の像って、もしかして、あの神殿の前にある一番でかいやつか？」
「そうです」
「まさか……」
「それで石像が真っ二つになってしまいました」
「気に入ってたのに……」
アシュランは残念そうに長いため息をついていた。
「あ、腰痛はそれの前兆だったんだな。たいしたことじゃなくてよかった」
ハロルドがついほっとして言うと、「たいしたことだろう！」とアシュランがかみついていた。
「被害にあったのは石なんだからいいじゃないか」
「よくない」
「どうしましょうか。最初から作らせますか？」
グレンが聞いた。
「うーん、今あそこにいる人間ではあまりいいのがいないからなあ……仕方ない。工房の妖精をいかせろ。
あそこに飾る石像は人間が見て感動するような素晴らしいものじゃないといけないからな」
「わかりました。ではそのように言っておきます」
グレンは部屋から出て行った。
「真っ二つか…」
アシュランは苦い表情で自分の頭をなでていた。
その後これといって事件も大災害も起こらず、神の国は平和なものだった
ゆりもアシュランのことを心配していて、３日後神の国に行けた時にも、つい空の上の神殿に行ったほどだった。
「元気になって本当によかったわ」
ゆりは普段通りのアシュランを見てほっとしていた。
「せっかく来たんだから竪琴でも奏でていくか？」
アシュランがそう言ったものの、
「今は遠慮するわ。また今度ご披露しますわ。それでは失礼します」
ゆりは笑顔でさっさとアシュランの前から去ろうとした。その時、「邪魔するよ」とウィルが部屋に入ってきた。
「アリアスは落ち着いた？」
ゆりがウィルに聞いた。
「全然、アシュラン、アリアスにもう大丈夫だって言ってくれよ。アリアスもジュライも他の連中もダーナをずっと閉じ込めちゃってるんだよー」
ウィルが困った様子で言った。
「私はとっくに言ってるんだぞ。アリアスが聞かないんだ」
「このままじゃダーナが切れちゃうぞ。いや、もう切れてるんだけど」
ゆりはついその場面を想像していた。
「いくらいっても聞かないんだからしょうがない。まあ、１０日もすれば落ち着くだろう。そうだ、カサンドラあたりに周りを諭してもらったらどうだ？」
「そうだなあ。そうしよう」
ウィルは頭をかきながらアシュランの間を出ていき、ゆりも一緒に出て行った。
「ダーナは大変だったけど、何もなくてよかったわね」
「まあ被害は今のところ石だけみたいだからね」
ウィルが返した。
「石って？」
「知らないの？ 人間界のアシュランの神殿の前にあったアシュランの石像に雷が落ちて、見事真っ二つになっちゃったんだよ」
「え？ そうなの？」
「でかい石像だったからなあ。人間界じゃアシュランが浮気して雷が落ちたと思ってるかもな。下に降りるなら連れていこうか？」
ウィルが歩きながら言ってくれた。
「そうねえ。どこにいこうかなあ」
ゆりはまだ行き先を決めてなかった。ここに来る時はクーリーフンが連れてきてくれたのだった。
神殿の前の雲の上に出ると、ちょうどペガサスから降りるハロルドに出くわした。
「あ、ハロルド」
「あ……ふん」
ハロルドはぷんと横を向いたまま通り過ぎていったので、ゆりはきょとんとしていた。
「けんかでもしたの？」
それを見ていたウィルにきかれたが、ゆりには理由はわからなかった。
「変な人ねえ。私火の神殿に行くから送ってくれなくてもいいわ」
「そう、じゃあな」
ウィルは風に乗り、空を飛んで行った。
「ハロルドったら何を怒ってるのかしら？ 本当にけんかでもしたのかしら？」
ゆりはハロルドの態度が不思議だったが、追いかけて理由を聞く気にまではなれなかった。
一方ハロルドは、少々むっとした表情で神殿の中に入っていった。
ゆりをみて、さっぱり成功しなかった自分のいたずを思い出したからだった。
ダーナが解放されたのはそれから10日も後のことだった。周りがいくら大丈夫だといっても無理だったようだ。
「あーもー疲れた」
ダーナはかなり疲れた様子で湖につかっていた。水浴中だったのだ。
「まあたまにはいいじゃない。恋人達と濃厚な一時が過ごせたじゃない」
横にいたガーベラが冗談交じりに言っていた。
「どこが濃厚よ！ 夜もあんなに他人がいたんじゃ何もできやしないわよ」
ダーナは憎々しげに言っていた。
「寝室に毎日10人もいたのよ？」
「まあ、それもあなたを愛するがゆえだからねえ。愛されてるんだからいいじゃない」
「しばらくアシュランに何もないことを祈るわ」
「そうね」
「むしゃくしゃするからクーリーフンと遊びましょう。今日はクーリーフンはどこにいるか知ってる？」
ダーナは表情を明るくしていった。
「さっきハロルドの神殿に行くって言ってたわよ。今キュリアが蛇を育てるんだけど、成長したらしいから見に行くんだって」
「他にかわいらしい動物はいっぱいいるのに、どうして蛇なの？」
ダーナは不思議そうだった。
「さあ、私も知らないわ。どうして蛇なのかしらね？」
ガーベラも詳しい理由は知らなかった。
「でも、蛇もかわいいわよ」
ガーベラはゆりに気を遣ってそう付け加えたのだった。
人間界では、一の月後半になっていた。蛇の国の人たちの大きな話題は、やはりセリアの出産である。皆ヒルデリアに安産の祈りを捧げているほどだった。
なにせ、この出産には様々な奇跡が積み重なっている。まずは高齢のカーラの妊娠、そしてその子供がセリアのお腹に移り、しかもその子供はキースの
亡くなった子供の生まれ変わりなのである。力が強い子供が生まれるだろうし、人々が待ち遠しく思うのも無理はない。
セリアはお腹が大きくなってから街の病院に入院して、城には戻らなかった。城だと友人達がなかなかお見舞いにこれないのでそうしたのである。
ここまでくれば、多少食べ過ぎても安全とのこともあった。出産も病院ですることになり、その時にはゆりも駆けつけるつもりでいる。
エルバートははまるで自分が出産するかのようにそわそわしているし、キースやカーラも落ち着かない日々を過ごしている。当然ミカエルもである。
「名前なんだが……やっぱり違うのつけないか？」
セリアの病室にて、キースはこの後に及んで言っていた。
「セルジュの生まれ変わりだとしても、別に違う名前でもいいと思うんだ」
「セルジュでいいじゃない」
横にいたカーラはそう返していた。
「セリア、何かつけたい名前があったら言っていいぞ」
キースはベッドに座っているセリアに言った。
「私ですか？ 別に、セルジュでいいと思いますけど」
「みんなセルジュ君が生まれるの待ってるんだから、今更名前を変えるってのもねえ」
とカーラ。特に、セルジュと同世代の者達は楽しみにしているのだった。
「そうか。セルジュでいいか……」
「何かつけたい名前でもあるの？」
「え、いや、そういうわけじゃないんだが……」
どうやらキースの心情はまだ複雑らしい。
西の砦の将軍の部屋には、キースの代わりにイシュタールがいた。城の西側は農園などが多くあるが、街もいくつか点在している。
その遙か西には険しい山脈が連なっているが、時折山を越えて山賊が現れることもあった。また、でかい熊や狼、虎はめったに見ることはないが
豹なども生息している。戦士達は被害があれば出向き、動物たちの駆除もしているのだった。
ドアをノックする音がしてフリットが入ってきた。
「やあイシュタール、今日はここにいたのか」
「ああ」
フリットはイシュタールに書類を手渡した。
「ありがとう。北の方は寒いか？」
「まあな、こっちはだいぶましだな。サインをくれ」
「ああ」
イシュタールは書類に目を通して一番下にサインをした。これは各砦を巡る、いわば回覧板のようなものである。
内容は今年の風邪の流行についてだった。思念を使えばすむが、これは形式上回しているのである。
「ちょっと酒でも飲んで行くか？」
イシュタールが気軽にさそった。
「ああ、そうだな」
フリットはソファに腰を下ろし、イシュタールは棚にある酒を取りに行った。
フリットはなにげにイシュタールを見て、ふと頭に目をとめた。イシュタールの赤い髪の間になぜか肌の色が見える。
「ん？」
フリットはイシュタールに背後から近づいた。そして愕然としていた。やはり、イシュタールの髪が、一部抜けているのである。ちょうど後ろ頭の真ん中である。
「おい……」
「ん？ 何か飲みたいのでも？」
イシュタールが振り向いた。
「いや、イシュタール、お前、頭が……髪が抜けてる所があるぞ」
フリットはこわばった顔で指摘した。
「え？ 髪が抜けてる？」
「後ろだ。後ろ」
イシュタールが頭に手をあてて、「ほんとだ」と言った。指が地肌に当たったのである。
「イシュタール、お前相当精神的にやられてるんじゃないのか？ 大丈夫か？」
フリットは心底心配していた。
「え？ いや、そこまではやられてないが……」
イシュタールは何度も頭に触っていた。
「だいぶはげてるか？」
イシュタールが髪を広げてみせた。抜けている髪の範囲は、3センチほどだった。楕円状に抜けている。
「いや、まだそんなじゃない。大丈夫だ。お前の髪はうねってるから、よせれば隠せる」
フリットは励ますように言って髪を寄せていた。まだ隠れるくらいである。だからだれも気づかなかったのだろう。
「そうか？ それならよかった。いつからはげてたんだろう？」
「お前にはいろいろあったからなあ。今も悩んでることがあるだろうし、そのせいじゃないのか？」
「うーん……明日は王妃に会う約束をしていたんだが、やめたほうがいいな」
「そうだな」
ゆりがイシュタールの頭をみれば、悲鳴をあげるかもしれない。
「イシュタール……」
フリットはイシュタールが不憫になり、イシュタールの肩に手をあてて目を潤ませていた。フリットはかなり自分の髪を大事にしているほうである。
「いや、そんなに同情しないでいい。髪が抜けるくらいどうということはないし、もっと抜けたら、いっそのこと頭をそればいいいし」
イシュタールが簡単に言いだして、フリットは「えー」と思わず声を発していたのだった。
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