第16話
「これが髪に良いシャンプーだ。頭を洗う時は、優しく洗うんだぞ。やはり良い髪には睡眠と、規則正しい食事が欠かせないようだ。
くるみなんかもいいんだ。野菜もいい」
フリットがイシュタールのハゲに気づいたその晩、フリットはイシュタールの屋敷にやってきて、髪についていろいろ語っていた。
二人は客間にいる。
イシュタールの方はちょっとぼんやりした様子で聞いている。フリットは髪に良い高そうなシャンプーやリンスももってきていた。
自分用に持っていたのか、それともわざわざ買ってきてくれたのかもしれない。
髪がちょっと抜けたくらいのこと、イシュタールにとってはさほどのことでもなかった。女性ならば外出もできなくなるかもしれないが、いい年をした男である。
それにイシュタールの髪はかなりうねっているので、そうハゲを指摘されることもなく、フリットの他にイシュタールの頭に気づいたのは屋敷のメイド
くらいだった。夕食の時に気づかれたのである。普段からそう髪型に気を遣うほうでもなく、これ以上ハゲがでかくなれば困るだろうが、まあ、これくらいは
どうということはないのだ。フリットの方がショックを受けているくらいである。
フリットの説明がひとしきり終わった後、イシュタールはようやく口を開き、
「いろいろ持ってきてくれてありがとう」
とお礼を言っていた。
「フリットがそんなに髪に詳しいとは」
かなり熱が入った説明だったのでイシュタールは意外そうに言っていた。
「若い内から髪に気をつけていれば、将来的に違うと思ってな……」
フリットは以前大人になったロイに髪のことを言われて以来、未だに髪のことを気にしていたのだった。
「それに統計的に、淡い髪の色の方が濃い色の髪よりも将来抜けやすいんだ」
フリットはちょっと視線を落として言った。
「そうか……いや、今からそんなきにしなくても……」
逆にイシュタールの方がフリットを気遣っていた。確かに、よく聞く話である。
「イシュタールの場合は、心理的ストレスも多いとは思うが、子蛇のこととか、赤い月のことも気にしてるんだろう？」
フリットはずばりと言った。確かに、今イシュタールを悩ませているのはその二つのことである。
自分だけが苦しむよりも、他人を苦しませることの方が、イシュタールにとっては苦痛なのだった。
今イシュタールには彼女は3人いるが、ジュメは子供を産んだからいいとして、残り二人は、もう若い年齢ではない。
相手はイシュタールだけでいいと言っている女性達である。一年赤い月を飛ばすだけでも申し訳なくてならないのである。
「やはり今年も無理そうなのか？」
「うーん、今のままでは無理だろうな。彼女にやけどさせてしまいそうだ」
イシュタールはちょっと意味ありげにフリットを見てみたが、「だめだ」とフリットに先に言われてしまった。
「やっぱりだめか」
「二度はだめだろう。まあ他に男もいるんだし、離せばだれかとくっつくだろう」
「そりゃそうだろうが……」
長年の恋人を、ただ離すだけというのはイシュタールにはできかねた。
「その妖精の子供が人間だったらよかったのにな」
フリットがちょっと笑って言った。
「そうだな。ちょっとは大きくなったかなあ……」
イシュタールが妖精の男の子のことを思い出した時、
テーブルの上のランプの炎がぼっと燃え上がり、二人そろって「おおっ？」と身体をのけぞらせていた。
ランプの上に火の妖精が浮かんでいた。男である。妖精はイシュタールを見るとほほえんだ。
『イシュタールさん、こんばんは。サラディン様がイシュタール様にお会いになりたいようで、ちょっと火の神殿にいらしてくれませんかね』
「え、はい、いいですよ」
イシュタールは立ち上がって言った。
イシュタールはフリットに妖精の言葉を伝えていた。
「ちょうどいいじゃないか。あのことを相談するんだ」
フリットは即座にいった。
「恥ずかしがらずに言うんだぞ」
「あ、ああ、じゃあ行ってくる」
イシュタールは片手をあげて、火の妖精と共に消えた。フリットは「絶対言うんだぞー」と叫んでいた。
火の妖精につれられて、イシュタールは久々に火の神殿にやってきた。人間界よりもだいぶ暖かい。時刻は、夜のようである。
広間にサラディンがいた。
「ああ、突然すまなかったな」
「サラディン様、ご無沙汰しております。先日もいろいろ助けてくださりありがとうございます」
イシュタールはサラディンの側にくると深々と頭をさげて、はっと後頭部を気にしていた。
「ああ、元気でいたか？ ちょっとお前と話がしたくなってな。こっちにこい」
サラディンは立ち上がり、イシュタールを別室へと誘った。お互い向かい合わせて座ると、イシュタールはかなり恐縮していた。
テーブルには酒が用意されていた。
「好きだろう。飲んでもいいぞ」
「は、はい、ありがとうございます」
イシュタールははじけるように答えていた。そういえば神の国で酒を飲んだことはなかった。人間界に贈られたジンラのお酒にもイシュタールは
手をつけなかったし、ジンラのお酒を飲むのはこれが初めてだった。
今はもう遠慮しなくてもいいだろう。
イシュタールは震えそうになる手で銀製の杯に真っ白で取ってのある陶器の器から酒をつぎ、一口飲んだ。
これをなんと表現したらいいだろうか。
なんともいえない香りが鼻をぬけていく。この味は、極上のブドウを吟味して作られた酒に違いない。
芳醇で、奥深い。
イシュタールはついうるっとしていた。
「おいしいです」
「そうか、いっぱい飲んでいいんだぞ」
サラディンはつい苦笑して言った。
「ありがとうございます。サラディン様もどうぞ」
イシュタールはサラディンの杯に酒をついでいた。
「そうやって感動するってのはいいことだ。私はジンラの酒を毎日飲んでいるからな。うまいのが普通になってしまっているからな」
「本当においしいです。それで、私に何か話でもあったのではないですか？」
イシュタールは本当においしいお酒にうれしそうな顔をして聞いていた。
「ああ、人間界の暮らしはどうかと思ってな。実は半妖精というのは珍しい存在なのでなあ、お前も最初は苦労しただろうが、最近はどうだ？」
サラディンは酒を飲んで聞いた。
「はい、なんら苦労なく過ごしています」
イシュタールはつい言ってしまい、フリットの言葉を思い出してはっとした。
だが、命を助けてもらいながら、『赤い月に女を抱きたい』とサラディンに言うのもはばかられた。
「ならいいんだが……気になったことがあれば言ってもいいんだぞ」
サラディンはやんわりと聞いていた。
「はい……実は……その……」
イシュタールは言うべきか言わざるべきか悩みながら頭をかいていた。
「なんだ？」
「その……」
イシュタールは頭から手を離し、その手を見て「わっ」と声をあげていた。指の間に赤い髪の束が挟まっていたのである。
つまり、大量に髪が抜けたのだ。サラディンはイシュタールの手を見て目を丸くしていた。
「どうしたんだ？」
「その、髪が抜けました」
「どうしてだ？」
サラディンはイシュタールの後ろに回って頭に手をあてていた。
「髪が一部分ないぞ。どうしたんだ？」
「はい、あの……」
「病気か？」
「いえ、ただ抜けただけです」
「どうしてだ？」
「その、すいません。実は悩んでいることがありまして……」
イシュタールはようやく、赤い月のことをサラディンに話したのだった。話を聞いたサラディンはうーんと考え込んでしまった。
「すいません」
イシュタールは申し訳なさそうに謝っていた。
「赤い月かあ、さてどうしたらいいか。うーん、私の一存では決められんな。明日アシュランに相談してみよう。今夜は泊まっていけ」
「ありがとうございます」
「前使っていた部屋が空いている。そこで休むといい。酒も部屋に持っていっていいぞ」
「ありがとうございます」
この場はお開きになり、イシュタールは以前いた懐かしい部屋に入った。ここに来るといろいろなことが思い出される。
ここで出会った女の妖精は、今はいないのだ。そう思うと、切ない思いがこみ上げてきた。
明日か……急に消えてしまったなあ……まあフリットが知っているからいいかな？
寝よう
イシュタールはもらったお酒をすべて飲み干して、眠りについた。
朝、イシュタールは身体の上に何かの感触を感じて目を覚ました。身体の上にいたのは赤い髪の子供だった。
「あ。バーナード、元気だったか」
イシュタールは身体を起こしてその子供を腕に抱いた。妖精の子供はさほど大きくなってはいないように見える。
「あーぶー」
バーナードは口をとがらせてイシュタールに火をふいていた。
「うわっ」
「ごめんね。これが愛情表現なの」
ルティアナが部屋にやってきた。
「ルティアナ様、おはようございます」
「いつの間にきたの？ 長くいられるの？」
「すいません。長くはいられないんです」
「なんだあ。つまんないねー、バーナード」
「ぶー」
ルティアナはバーナードをだっこしてつれて行った。
なにはともあれ、子供は元気そうである。
サラディンに朝の挨拶をし、サラディンの祈りの時間が終わってから、共に雲の上の神殿に行くことになった。イシュタールは起きてからずっと
緊張しっぱなしだった。もしアシュランに激怒されるようなことにでもなったらどうしようと、気が気ではないのである。
妖精達が懐かしがって話しかけてくれたが、気もそぞろである。
ついにサラディンにつれられて、イシュタールが再び雲の上の神殿へと行くことになった。
神の国にきてから、なんとも清々しい空気に包まれている。その最も尊い場所が、ここ、雲の上の神殿なのである。
西の聖域の神官達が一度でいいからこの目でみたいと願ってやまない神殿へ、イシュタールはやってきた。
神殿の中に神々の姿は少なかったが、アシュランはアシュランの間にいた。イシュタールは丁寧に挨拶をし、サラディンがイシュタールの事情を
アシュランに話したのだった。
話を聞いたアシュランは怒ることはなかった。腕を組んでうーんとうなっている。
「このような相談ですいません」
イシュタールはつい謝っていた。
「子を為したいのは人間の本能だ。うーんどうすれば一番いいかな？」
「イシュタールは、人間をはらませることができるのか？」
サラディンは根本的なことをずばり聞いていた。イシュタールはどきりとしている。
「できるんじゃないか？ 完全な妖精ではないし、男としての機能も、死んでないと思うが」
アシュランは顔色も変えず答えていた。
「そうか、ならいいんだが」
「女に触れるのが赤い月の間だけでいいのなら、手はある。赤い月の間妖精の性質をかなり落とすんだ。だが、体調も悪くなるから
10日は無理だな。せいぜい、５日かな。その間がんばって励むか」
「５日間、人間になれるんですか？」
イシュタールは目を見開いて聞いた。
「完全な人間にはなれないが、近くはなる。そうしよう」
「ありがとうございます」
アシュランが手招きをしたのでイシュタールは近づいていった。アシュランは何かをぶつぶつつぶやいて、イシュタールの額に指をあてた。
光の筋が頭を通り抜けたような気がした。
「これでよし。まあ普段その気になったら火の妖精をくどくんだな」
「それから、イシュタールの頭を治してやってくれないか？」
サラディンはイシュタールに近づいて肩に手をあてて、身体をくるりと回転させた。
「髪が抜けたんだ」
「ほんとだ。見事に抜けたな」
アシュランはイシュタールのはげた部分を見つめている。イシュタールはなんとも恥ずかしくてたまらなかった。
「人間は悩みすぎると髪が抜けるそうだ」
「そうか。そんなに悩んだのか。ま、いいだろう。これじゃ相手をする女も幻滅してしまうからな」
アシュランはイシュタールの頭に手をあてて髪を元に戻してくれた。イシュタールが頭にさわると、髪が戻っていた。
「何から何までありがとうございます」
「ありがとう。それじゃこれで」
サラディンがイシュタールをつれていこうとすると、アシュランが「あ、そうだ、ちょっと待て」と制した。
「イシュタールにちょっと用がある。おおい、誰かいるか？」
アシュランが後ろの幕に向かって声をかけると、伝令の神、ライサが「はーい」と言いつつ出てきた。
アシュランはライサになにやら耳打ちし、ライサは出て行った。
「イシュタールにあわせたい者がいるんだ」
「そうか。私はいくぞ」
「ああ、私が人間界に送ろう」
「じゃあな。イシュタール」
「サラディン様、ありがとうございます」
イシュタールは深々と頭を下げた。サラディンは出て行った。
「お前はちょっと待ってろ」
「はい」
会わせたい者？ ガーベラ様？
イシュタールはついガーベラを想像しながら待っていたが、やってきたのは少女の神だった。アナスターシャくらいの大きさの、軽くウエーブした
金髪の美少女、癒やしの女神キュリアである。
「アシュラン様、おはようございます」
「ああ、キュリア、あの蛇はどうなった？ もってきたか？」
「はい、へびっち、遠慮しないで入っておいでー」
キュリアが入り口に向かって話しかけると、なんと、２メートルほどの蛇がにょろんと広間に入ってきた。綺麗な緑色の蛇である。
胴体の太さは１０センチほどか。
蛇はキュリアの側までやってきた。
「これがあの蛇か？」
アシュランは目を丸くしていた。
「はい、結構大きくなりました」
「……大きくなったもんだな……うーん？ なんかおかしいぞ。この蛇何かしなかったか？」
アシュランはキュリアに聞いていた。
「え？ その……実は、成長の実をあげてしまいました」
キュリアがもじもじして答えた。
「成長の実？ キュリアがあげたのか？」
「はい」
「本当か？」
アシュランが顔を寄せている。
「実はその……パティウスが」
「やっぱり」
「怒らないでください。パティウスは私のために成長の実を取ってきてくれたんです」
「やったのは本当に成長の実なのか？ 何で緑になってるんだ？ 魔法の実じゃないのかな？」
「そうなんですか？ 実を食べたら色が変わったんです」
わきにいたイシュタールは、二人を見たり、蛇を見たり視線を動かしていた。全く話の内容もわかっていない。
ふいにアシュランがイシュタールを見た。
「実はな、お前があっちの世界から助け出されてきた時のことだ。私は火の神殿で床に落ちていた焼け焦げた物を見つけた。
何か、意思を感じる不思議な物だったから私はそれを拾って、ちょっと力を使ってみた。すると、それは蛇に変わったんだ。
小さい弱々しい蛇だったんで、キュリアに育ててもらっていたのだ。お前、その蛇に心当たりはないか？」
イシュタールは緑の蛇を見下ろしていた。
「え？ 私の？」
「だと思うんだがなあ……それとも女の方のかな？」
「もしかして、私の肌にいた緑の蛇でしょうか？」
「肌にいた蛇？」
アシュランが眉を動かした。
「ふしぎな縁でもらった蛇なんです。あれ以来いなくなってしまって……」
「お前そうなのか？」
アシュランが蛇を見下ろして聞いたが、蛇はキュリアにひっついたまま動かなかった。
「イシュタールと一緒に人間界に行くか？」
そう聞くと、蛇は首を横に振っていた。どうやら言葉がわかるらしい。
「ここにいたいのか？」
大きくうんとうなずいていた。
「だそうだ。どうする？」
「私は、かまいません。彼が生きていたというだけで……なにせ私の代わりに死んだんじゃないかと思っていましたから……」
イシュタールはようやく感動して泣いていた。
肌にいた子蛇は生きていたのだ。それだけでもう感無量だった。
「へびっち、一緒にいかなくていいの？」
キュリアがしゃがんで聞くと、蛇はうなずいていた。
「あの、触ってもいいですか？」
イシュタールが近づいてきて、蛇の胴体をなでた。
「こんなに立派になって……」
「魔法の実のせいだぞ」
アシュランがぼそっと言った。
「今までありがとう。元気で」
イシュタールは泣きながら蛇の頭をなでていた。蛇はイシュタールを見上げていた。この蛇に肌にいた頃の記憶があるのかどうか、
イシュタールにもわからない。
「それじゃ、これで」
イシュタールが蛇から離れると、蛇は意を決したようにイシュタールの側にやってきた。
「へびっち、彼と行くの？」
キュリアが聞くと、蛇はうなずいた。が、名残惜しげにキュリアを見ていた。
「へびっちをかわいあがってあげてね。さようなら、へびっち」
「行ってくれるのか？ ありがとう。ありがとうございます。キュリア様、アシュラン様」
「それじゃ人間界に送ろう」
アシュランの光がイシュタールと蛇をとりまいた。
イシュタールが飛ばされたのは城の庭園だった。昼時らしい。ちょっと日が照っていたが、空気は冷たかった。
「あれ？ へび？ へびがいない」
気づくと緑の蛇はいなかった。イシュタールはあたりを探し回ったが、先ほど見た蛇はいなかった。
「どういうことだ？ 一緒に来たんじゃなかったんだろうか？」
せわしなく考えたがわからない。
「もしかして……」
イシュタールは上着の留め具を外してシャツのボタンを外し、自分の肌をみた。
「あっ！」
すると胸元に、真っ赤な蛇の頭が見えたのである。なんとあの蛇は、イシュタールの肌にくっついていたのだった。
「びっくりした。なんてことだ……しかも色が赤くなって……しかしでかいな。うわっ！！」
イシュタールはあまりの驚きに尻餅をついてころんでいた。胸から蛇がにょろっと出てきたのである。蛇は地面にすとんと降りて、
勝手にはって行った。胸から出ると、蛇は鮮やかな緑に変わっていたのである。
「あ……ああ……おい、どこに行くんだ？ 王と王妃に最初にご挨拶しないと」
イシュタールはあわてて起き上がり、シャツのボタンを締めて蛇を追いかけた。
こうして、この晩でイシュタールの悩みは綺麗さっぱり解決した。赤い月も5日は大丈夫らしいし、肌にいた蛇も戻った。
「蛇、蛇、へびっち」
そう呼ぶと蛇は顔を向けた。どうやら言葉が分る賢い蛇らしい。
「分るなら待ってくれ〜」
蛇は素早く移動して行った。
言葉が分るが言いなりになる気はないらしい。
イシュタールの悩みは解決し、代わりに、自由な蛇との生活が始まったのだった。
つづく
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