第14話
「いち、に、さん、いち、に、さんー」
「いてっ！」
「あっごめーん」
「もー姉様ったらまただよ。わざとじゃないよね？」
「違うわよー」
城の中の一室にて、アナスターシャとシスがダンスの練習中だった。教師はハインリヒである。
「ではもう一度」のハインリヒの声で二人は両手をつないだが、「いち」の声でアナスターシャの右足がシスの左足の上に乗っていた。
シスがじろりとアナスターシャを睨んだ。
「えへへ、今のはわざと。もう疲れちゃったよう」
「休憩にしましょう」
ハインリヒの言葉にアナスターシャは「やった！」とばかりに手を離して、部屋にいた侍女にお茶とお菓子を頼んでいた。
シスとハインリヒはやれやれといった顔つきをしている。
「もー姉様ってば・・・あれでちゃんと覚えられるのかなあ」
シスの不安げな声にハインリヒは苦笑していた。
「大丈夫よう。後・・・何年だっけ？」
「後７年だよ。７年後には過去だよ！」
「７年あれば大丈夫よ！」
アナスターシャは自信満々だ。
「そういいつつあっという間に３年経っちゃったけどね」
「そうですね。早いですね」
とハインリヒがしみじみと言った。
「大丈夫大丈夫」
「あの自信はどこから来るんだろう・・・」ぽつりとつぶやいたシスに、「王妃の血から来てるんですよ」とハインリヒはこっそり告げていた。
「僕も同じ血入ってるけど姉様ほど気楽にはなれないけどなあ・・・・」
侍女がティーセットを運んできて二人も席に着いた。
後７年、とはアナスターシャが過去の女王に呼ばれる時期まで７年ということである。あの戦いからもうすでに３年の月日が経ってしまったのだ。
古代語、剣技、魔法、様々な勉強に礼儀作法、ダンス、アナスターシャには時間がいくらあっても足りない。
ダンスは昔は一族の必須事項で、城でダンスパーティーが開催される事もあり男女の出会いの場にもなっていたのだが、今では習う者は稀で
街の一般人が趣味でダンスを踊るくらいのものだ。しかもそのダンスは昔とは違う。昔のままの優雅なダンスとなると、踊れる者も今はいない。過去から
やってきたハインリヒくらいのものだ。もう一人いるとすればエルバートの中にいる水蛇カーライルだろう。
アナスターシャはダンスよりも剣や力の練習の方が好きだった。舞うように優雅に振舞うというのが苦手のようだ。何が楽しくて踊るのかが理解できない。
「過去に行っても修行するんでしょ？踊ってる暇ないと思うけどなあ」
「そんな事ないですよ。歓迎会だパーティーだなんだと様々な催し物があるはずですからね、一応覚えておいた方がいいですよ」
口を尖らせているアナスターシャにハインリヒが告げた。
「そうだよ。あっちでは子供だって踊るんだからね」
とシス。
「恥かいたらいやでしょ？」
「あー、なんだか行くの嫌になっちゃったかもなー、だって大変そうだもんなー」
しまいにはアナスターシャはぶつくさ言い出した。
「それじゃ変わりに僕行くよ」
シスがすかさず言うと、アナスターシャはすぐに「冗談よ」と言いなおしていた。内心過去に行けることを誰よりも喜んでいるのはアナスターシャだという
ことをシスは見抜いている。
「その頃にはハインリヒの子供生まれてるし過去に報告できるね」
シスの言葉にハインリヒは目を細めて「そうですね」と告げていた。
その頃、ハザークの塔の方では、ハザークが寝そべっている長椅子の前には小さめの椅子が二つ並べられ、ナナミとロイが座っていた。
部屋の真ん中ではベビーベッドが置かれてその周りには５人の白い髪の女性達と、王妃のゆりが取り囲んでいた。今ゆりの左目は
蛇の目に変わっている。
ベビーベッドの中には赤ん坊のミシェイラが横になり、時々じたばた手を動かしたり笑ったりしては侍女らを喜ばせていた。
ミシェイラの横には鮮やかな７色の蛇がとぐろを巻いている。ミシェイラはその蛇をじーと眺めては時々手で触っていた。
「きゃはは」
「うふふ、かわいらしい〜」
「本当に、一日眺めても飽きませんわねー」
こちらでは侍女らの黄色い声が飛んでいたが、
「ジュベルビー、ヤレヤレ」
「ヤレウィヤレウィだ」
「ヤレウィー」
ナナミとハザークは、ゆりには理解できない言葉を言い交わしていた。こちらは古代語の勉強中なのだ。
「ぐう・・・・」
どさっと音がした。ゆりが見るとロイの身体が椅子から横に落ちている。
「びっくりした。寝ちゃってたよ」
ロイが頭をかきながら椅子に座りなおし教科書を拾った。
「ロイってばすぐ寝るんだから」
とナナミ。
「だってさー古代語って眠くなるんだもん。ナナミはよく寝ないね」
「眠くならないもん」
「部屋で寝ろ」
とハザークが言った。
「やだ！僕も賢くなるもんね」
どうやらロイも勉強する気はあるらしい。
「じゃあ起きてろ」
「はーい・・・」
「じゃあ次ロイ読んで」
とナナミが言った。
「えー・・・えーと・・・・ル・・・ダ・・・・ミ・・・」
「そんなんじゃ日暮れちゃうよう！」
「うるさいなあ。イ・・・ウィ・・・」
「まあゆっくりやってくれ・・・・」
今度はハザークの方が目を閉じていた。
ゆりがそのやり取りに苦笑していると、
ーまー
という声が聞こえた。
「ん？ミシェイラ呼んだ？」
ミシェイラは金色の瞳でゆりを見あげている。ゆりはニコニコ顔を向けた。
するとミシェイラはニコニコ微笑んでゆりの隣にいる侍女を見た。
ーまー？
「え？今私に言いました！？」
侍女が驚いていた。確かに自分に向かって言ったような気がする。
「どうしたの？」
と他の侍女が聞いた。
「ミシェイラ様が私にまーって言ってくださったんですわ！」
「ええ！？」
ーまー？
今度はその横の侍女がぎょっとしている。
「あら、私にも」
ーまー？まー？
ミシェイラはどうやら侍女ら皆に「まーまー」言っているようだ。
「毎日顔を見てるからまーだと思ったのかもよ」
ゆりは気にすることもなく笑みを浮かべていた。
「そうよ。皆まーよ。よかったね。まー一杯で」
ーまーまー
侍女らは皆喜びのあまり泣いていた。よっぽどうれしかったようだ。
「ミシェイラ様ったら・・・」
「本当にかわいらしい事を・・・」
「どうしたんだ？」
とハザークが聞いた。
「ミシェイラ様が、私達に『まー』と」
「気のせいだろう」
ハザークはつれなく言った。
「本当ですのよ」
「ふーん？」
ナナミとロイは口を閉じていた。ゆりが『何も言っちゃだめよ』と思念を送っていたからだ。
「ハザーク様もこちらにいらしてみて」
「とーと言われるかもしれませんわ」
侍女らに促されてハザークはベビーベッドの側に立った。
ミシェイラは金色の瞳でハザークを見上げた。ハザークが瞬いた。
ーまー？
「え？」
「何か言われましたハザーク様？」
侍女らは興味津々だ。
ーまー？
もう一度聞こえた。明らかに自分に言っているようだったのでハザークは答えた。
ー我はまーじゃないぞ
するとミシェイラの顔がみるみるゆがみ、やがて「わーん！」と泣き出してしまった。
「わーん、わーん！」
「あらあら」
ゆりが抱っこしてもミシェイラはわんわん泣いている。
「ハザーク様何か言った？」
ゆりが聞いた。
「我は別に・・・まーじゃないと言っただけだが・・・」
突然ミシェイラに泣かれてしまい、ハザークはちょっと困った顔つきだ。
「びええええええん！」
「パパ赤ちゃん泣かしちゃだめですよ」
とナナミ。
「否定したらだめなんだよ。ねーとかにーとか言ってあげないと」
ロイが近くに来て教えてくれた。
「そうなのか？早く言ってくれ、そういうことは」
「びええええん、びええええん！」
「よしよし、そんな顔で泣かないで」
ゆりがあやしたが、どうにもだめなようだ。
「だめだ、奥の手を使おう。それじゃこれで」
ゆりはミシェイラを連れて消えた。王の間に行ったのだ。
ハザークがみると、５人の侍女らはちょっと非難がましい目を向けていた。侍女らからこんな目で見られるのはもしかしたら初めてかもしれない。
「パパの場合はどうなのかな？『パパー？』それとも『パー？』」
ナナミが首をかしげていると、ハザークは「『パー』はいやだ」とつぶやいた。
ミシェイラはようやく王の間で泣き止んでいた。泣きつかれたのかラクシュミの腕の中で眠ってしまった。
「すごい、効果てきめんね」
ゆりは感心している。
「・・・」
ラクシュミに睨まれたのでゆりは寝てしまったミシェイラを連れて王の間を出て行った。ラクシュミは今他国の商人から他の国の情報をいろいろ聞いていた
所だったのだ。
もしかしたらハザーク様には「とー」と言うかもと思ったんだけどなあ・・・
最近ミシェイラはすこぶる機嫌のいい時に思念を送ってくる。ラクシュミには「とー」でゆりには「まー」だが他の兄弟達にも「まー？」と語尾を上げて聞いていた。
「まー？」といった時シスとラギが喜んだのでミシェイラは「まー？」というと喜ぶと思っているのかもしれない。「まー」と「まー？」は別物なのかどうかは謎だ。
先日ロイが違うよ、と言った時にもミシェイラは泣き出してしまったのだ。せっかく言ったのになんで？といった所らしい。笑顔で訂正するのはいいようだ。
親しい人には皆「まー？」と聞いているミシェイラだが、まあそんな事は侍女らに説明するのも野暮というものだ。
ハザーク様のことは「とー」と教えるべきか、それとも「パパ」かなあ？
とゆりが悩んでいる時、ハザークも次にミシェイラに聞かれたらどう答えようかと悩んでいたのだった。
その夜、ゆりは夢の中で神の国に移動していた。空の神殿に入ってすぐの大広間のような所にいた。あまり知った顔の神はいなかったので、ゆりは
るんるんで神殿を出て行った。もちろん姿は麗しいガーベラである。下を見ると弾力のある二つのふくらみがある。綺麗な白い肌でゆりでも触ってみたい
ほどの胸だ。
どこに遊びに行こうかなーとりあえず・・・・うげっ！
雲の上に一頭のペガサスが飛来していた。そしてそこから降りてくるのは褐色の肌の神、ハロルドではないか。
なんというタイミングの悪さ！
ハロルドが目ざとくこちらを見たのでゆりは逃げられなかった。今移動すれば怪し過ぎる。追ってこられるかもしれない。
よし、ここはガーベラになりきってやる！がんばればばれないはず！
ゆりは自分では極上の笑顔を作り、やってきたハロルドに声をかけた。
「あら、ご機嫌よう、ハロルド」
「ああ」とハロルドは答えた。
よし、ばれてない。やればできるじゃん！
ゆりはそそくさと通り過ぎたが、「こら」と声をかけられた。
「挨拶だけで行く気か？ガーベラ」
「え？」
ゆりはどぎまぎしながら振り向いた。ハロルドはなんだか意味ありげな目を向けている。
「ご機嫌よう、ハロルド！っちゅっ♪それじゃ」
ゆりはハロルドに投げキッスをして背中を向けた。
「違う！何だ今の！」
「何だって何かしてほしそうだったからさー」
「さっさとどこ行く気なんだ」
ハロルドは逃げないようにかゆりの手をつかんでいた。
「どこって別に・・・」
決まってるじゃない・・・湯気が立ち上るあの・・・私だけの秘湯！
それでなくても最近あそこに入れてないし
「だめだ。こい」
ハロルドはさっさとゆりの腕を引っ張って神殿の中に入って行った。
「ちょっと！まだ何も言ってないわよ！」
「用事が済むまで待ってろ」
「えー」
あからさまに嫌な顔をするとぎろりと睨まれた。
おーこわっ！私が何したっていうんだ！っていうか被害にあったの私の方なのに！
ハロルドはアシュランの間の外まで行き、ちょうど通路を歩いてきた神を呼んだ。
「ちょっと来いグレン、私が戻ってくるまでガーベラがどこにも行かないように見張っていてくれ」
「はい！？」
頼まれたグレンは目をぱちくりさせている。
「頼むぞ」
ハロルドはそれだけ言ってアシュランの間に入って行った。
「・・・・」
グレンはゆりの前まで来たものの、どうしていいやら困った様子だった。
「ちょっと来て」
ゆりはグレンの手を引っ張り、通路の角の方に行った。そして誰もいないのを確認してこっそり聞いた。
「ねえグレン、ハロルドの弱点教えて」
「はい？弱点？」
「そうよ。ぐうの音が出なくなるネタ何か知らない？何でもいいから」
「そういうのは別に・・・」
「お・ね・が・い」
ゆりは身体を寄せて甘えた声を出した。
「ガーベラ様・・・・」
グレンはちょっと驚いたようにのけぞっていたが、やがてもう一人のガーベラであることに気づいたのか、ちょっと苦笑していた。
「ハロルド様と何かあったんですか？」
「私をいじめるの。ひどいことばっかりするの」
「ひどい事？たとえば？」
「えーと・・・私の裸の石像創ったり・・・」
「それのどこがひどいんです？」
「それはえーと・・・説明しにくいんだけど、とにかくハロルドをぎゃふんと言わせたいの。ハロルドの弱みが知りたい！」
「そう言われましても・・・」
ゆりはそっとグレンの手を握り締めた。この顔で迫られて言う事を聞かない男がいるだろうか。
「ぎゃふんなんて言うか！何聞いてるんだ！」
背後からいらついた男の声が聞こえてきた。ハロルドがもう戻ってきたのだ。
「お前何べったりグレンに引っ付いてるんだ」
グレンはあわててゆりから離れていた。
「気安く他の神に引っ付くな！」
「グレンとは仲良いんだから。いいじゃない別に」
ゆりが開き直って言うとグレンのほうがぎょっとしていた。
「そうなのか？いつの間に？」
ハロルドの目がグレンを見た。
「いえいえ、まさか！何もないですよ！それでは！」
グレンは逃げるように消えてしまった。
「あ、グレーン・・・」
「全く・・・」
ハロルドはため息をついてゆりの手を引っ張って行った。
「もー何なのよーハロルドひどいよ。私に嫌がらせばっかりして！」
「私が何をしたって言うんだ？」
「子供になるの知っててお酒くれたでしょ！」
「子供？」
「あれ飲んだら子供になっちゃったわよ！」
「そうなのか。そういう効用があることを忘れてた。だが、そっちの方がガーベラに近かったんじゃないか？」
嫌味っぽく言われてゆりの頬が引きつった。
こんにゃろー！！！
と心の内では罵声を浴びせていたが、口には出さなかった。二人は再び神殿の外に出た。
「どこに連れて行くのー？」
「私の神殿だ」
「えー！何かエッチなことする気だ！」
「そんな事するか！ほら、乗るぞ」
ハロルドに促されてゆりはペガサスに乗った。二人を乗せたペガサスは空へと飛翔したのだった。
「全くもう、本当は私のこと好きなくせに」
「何か言ったか！？」
ゆりのつぶやきにハロルドはすぐ反応した。
「本当は私のこと愛しまくってるくせにー！！！！」
ゆりは腹が立ったので大声で言ってやった。
ハロルドは驚いたようにのけぞっている。ペガサスは一瞬がくんと下がり、また普通に飛んで行った。
「わっびっくりした！」
一瞬からだが浮いたのでゆりはあわててハロルドに抱きついていた。
「・・・・愛の証もやったのに逃げてるのはお前の方じゃないのか？」
「愛の証って？」
そう聞くとハロルドの頬は引きつっていた。
「思い出しました」
ロイにくれたあれのことのようだ。だが今はライオネルに封印されている。
「だって改めてそんな事するの恥ずかしいもん」
「こっちに来たら私に最初に挨拶に来るくらいのことはしてほしいもんだ」
「・・・・すいません。ところでなんで私だってばれたの？」
「なんとなく勘だ」
「勘は女の専売特許なのに・・・・」
ゆりは小声で口惜しそうにぶつぶつ言っていた。
ペガサスはやがてハロルドの大きな神殿の前へ降りた。ゆりはハロルドに支えられてベガサスから下りた。
「ねえ、子供達いる？」
「今日はいないな」
「なんだあ。え？じゃあ誰もいないの？」
「そんなことない。妖精はいつも何人かはいる」
「そう・・・」
神殿に入ると妖精に頭を下げられた。部屋の中で腰を下ろすように勧められて、ゆりは素直に椅子に座った。テーブルの上には赤い花をあしらった
テーブルクロスのようなものが置いてあった。タペストリーを置いているようだ。もしやカサンドラが織ったのかも、とゆりはしげしげと
テーブルの上を見つめていた。
「水でも飲むか？」
「はい」
ハロルドが水さしから白い杯に水を汲んで持ってきてくれた。
「ねえこれって、カサンドラ製？」
ゆりはテーブルの上を指して聞いてみた。
「ああ、捨ててあったのを子供らがもってきたようだ」
「え？なんで捨ててあったの？」
「失敗したようだ。どこが失敗したのかよくわからんが」
白い布の四隅に花の飾りがあり、真ん中にも綺麗な花が咲いていてめしべやおしべまで細かく描かれている。
ゆりはタペストリーを隅から隅まで眺めたが、どこが失敗なのかわからなかった。デザインも完璧のような気がするが、まあ芸術家というものは
そういうものなのだろう。
これが失敗作とはもったいない・・・他にもお宝がありそうだな。今度ゴミ箱あさっちゃだめかな・・・
ゆりが不埒な事を思った時、「カサンドラのゴミが欲しいとか思わなかったか？」とハロルドに聞かれてしまった。
「まさか、ちらっとも思わなかったわよ」
「どうだかな」
ゆりは水を飲もうと杯の中をまじまじと見つめ、ハロルドをちょっと睨んだ。
水には少し色がついている。ただの水ではない。
「なんだ？」
「この水、なんかピンク色なんですけど」
「それが？」
「あからさまにあやしいでしょ」
「そんな事ないだろう。ピンクの水は神の気を保つためには必要な・・・」
「ハロルドのと取り替えて」
ゆりはハロルドの言葉も聞かずに言い放ち、杯を差し出した。
「まあいいが」
ハロルドは簡単にゆりの杯と取り替えた。
「こっちは普通の水じゃないの」
ハロルドの杯の水は普通の水だったのでゆりはその水を飲んだ。
「全くもう油断もすきもないんだから」
ハロルドはピンク色の水を飲みながら内心にやりとしていた。実はひっかけたのだ。ゆりが飲んだ水にこそ、クーリーフンに作らせた薬が入っていたのだった。
ふふふ・・・これで今日は・・・・
とハロルドが内心ほくそえんだ時、「ワンワン」と犬の吠える声が聞こえてきた。
「え？今のもしかして犬！？」
ゆりははっと立ち上がった。
「ああ」
「わんわん！」
ゆりは一目散に部屋を出て行った。
「おっおい！ガーベラ！」
「やーん！かわゆい！ゴールデンレトリバーみたい！」
通路に金色の長めの毛の犬が１匹いた。
「かわいー犬久しぶりー！」
ゆりは懐かしさのあまり犬の側にひざをつき、犬にほおずりした。長い髪が床についてしまってるがおかまいなしだ。
「くーんくーん・・・」
「ああ・・・この感触久しぶり・・・」
こちらの世界に来て犬を見たことがなかったのでゆりは感動していた。
まさかこんなにかわいい犬にあえるなんて！
犬はせわしなく尻尾を動かしている。神の国にいるだけあって犬の毛並みは綺麗でつやもあった。こんなに綺麗な犬も見たことがない。
「おーいガーベラ・・・」
ハロルドはちょっと呆れた顔で通路に出てきた。
「かわいーこの犬飼いたいー」
「ガーベラ・・・」
その時「兄貴いるか〜」と声が聞こえてのそのそ男が歩いてきた。ゆりは顔を上げてその男を見上げた。
「あっガーベラもいたのかよ」
やってきたのは獣姿のライオネルだった。ゆりはライオネルの顔を見たとたん、がーんと稲妻に打たれたような気がしたのだった。
ハロルドの顔がはっと引きつった。
「ガーベラ！」
ゆりの身体を自分に向かせた時にはもう遅かった。
ゆりはハロルドを両手で押しのけてライオネルの前に立った。頬は桜色に染まっている。瞳も潤んでいた。
「ああ、なんて素敵なお方」
「は？」
ライオネルは目を見開いていた。
「あ・い・し・て・る」
ゆりはたくましい胸にぴったりくっついた。ライオネルの上半身は腕と首周り以外は布で覆われていたが、布の上からでももさもさした毛の感触が感じられて
ゆりはいとおしげにライオネルの胸元をなでなでしていた。
「兄貴、どうなってんだ？」
ライオネルはきょとんとしてハロルドを見ていた。
「・・・」
ハロルドは苦い顔で頭をかいた。
「ああ、なんて雄雄しい姿なんでしょう。この毛深さといい、このかわいらしい尻尾といい、このおててといい・・・」
ゆりはライオネルの手の肉球をぷにぷに押していた。
「気持ちいい〜！この突き出たお口！素敵！ほれぼれしちゃうわ！」
ゆりの目はもう恋する乙女の目になっていた。
「お口を開けてみて！」
ゆりは背伸びをして強引にライオネルの口をぱかっとあけた。大きな象牙色の牙が４本見えた。
「まあ！なんて素敵な牙！私が毎晩磨いてあげたいわ！」
「あががが」
ライオネルは口を開かされたままだったので声を出せなかった。ハロルドはゆりの身体をひっぺがして目元に手をあてた。
「しばらく眠ってろ」
「やー・・・・ぐー・・・・・」
ゆりの身体はがくんと力をなくし、ハロルドはその身体を抱きとめた。ライオネルはじーっとハロルドを見つめている。
「なあー」
「何も言うな。今の事は夢だ。忘れてくれ」
ハロルドはライオネルの言葉を遮り告げた。
「・・・まあいいけどさ・・・」
「何か用だったのか？」
「別に、暇だったから一緒に飲まないかと思って・・・」
「今は忙しい！」
「わかった」
ライオネルは頭をかきながら素直に出て行った。
「なんでこうなるんだ。全く！クーリーフンを探さなきゃならん。近くでクーリーフン見たか？」
ハロルドは通路の端っこで伏せている犬に聞いた。
「わんわんわん」
犬はハロルドを見上げて三回吠えた。
「見てないか・・・ちっ・・・空から探した方が早いな」
ハロルドにはどうやら犬の言葉がわかるようだ。女神の身体を部屋のベッドに寝かせて出て行き、ペガサスに乗って空を飛んでいった。
こういう時に限ってなかなか見つからないものだが、しばらく飛び回り、ハロルドはようやくクーリーフンを森の中で発見した。そして先ほどのいきさつを
苦い表情で説明したのだった。
「そうなんだ。大丈夫だよ。あれってそんなに持続性ないから、もう少ししたら薬の効果も切れると思うけど」
クーリーフンはバカにすることもなく告げた。クーリーフンも一時だけのほれ薬.だから作ったのだ。永続性のあるものはさすがに自分の母親にも飲ませられない。
「そうなのか？ならいいが・・・・」
「残念だったね。だから普通にくどいた方がいいって言ったのに・・・」
「それが癪にさわるからああしたんだ。全くバカなことをしてしまった。それじゃな」
ハロルドはさっさとペガサスに乗って飛んで行ってしまった。
だが神殿に戻った時には女神の姿はなかった。
どうやら起きてどこかに移動してしまったようだ。
参ったな。いつものガーベラに戻ったのか。それともあのままか？
ハロルドは今度は女神ガーベラを探しに行った。
それより少し前、ベッドで目覚めたガーベラの中身はゆりのままだった。ゆりはなぜ自分が寝ていたのかさっぱりわからなかった。
ハロルドといたという記憶はあったがライオネルに恋をした部分は消えていたのだ。
「あれえ？おかしいなあ・・・ハロルドはどこかな？」
部屋には一人っきりだった。
水飲んでいつの間にか寝ちゃったとか？それともあれには眠り薬が？まあいいや。ほっておかれてるみたいだしどっかいっちゃえ
ゆりはそのまま移動した。
「今日こそはお風呂に入ろうっと♪」
ゆりは火の神殿に飛び、妖精達に挨拶しながらさっさとお風呂に向かった。「サラディンにはお風呂から出た後で挨拶に行くっていっといてね」と
妖精には言付けている。
だがうきうきした足取りはお風呂場に入った所で止まってしまった。お風呂の中に誰か入っている。むわっとする湯気が薄くなると姿が見えた。
男だ。しかもかなり体格の良い男だった。
「ライオネル？」
その声に男は顔を向けた。そう、入っていたのは人間姿のライオネルだった。
「おっガーベラ・・・・」
「もーなんで私が来た時にいるのー？」
「・・・・」
ライオネルは先ほどのことを聞こうかなと思ったが、ハロルドがからんでいるので聞くのをやめた。ライオネルにとって兄であるハロルドは頭が上がらない神の一人
なのだ。ゆりの方は先ほどの記憶はさっぱりない。
「しょっちゅう来てるの？」
「別にしょっちゅうじゃないけどよ」
「廊下にいるからすんだら教えてね」
また裸体を拝んでしまっては大変なので、ゆりは今日はすんなりお風呂場から出て行った。そして先にサラディンに挨拶に行き、お風呂場の外の通路をうろうろ
しているとようやくライオネルがやってきた。
「気持ちよかったぜーじゃあなー」
ライオネルは片手を上げてゆりの横を通り過ぎて行った。獣の姿で。
その時ゆりの中にドンと何か強い衝動が沸き起こったのだった。
「好きー！！！！」
ゆりは背中からライオネルに飛びついた。
「うわっなんだ！？」
「好き！好き！この毛深い所が好き！？」
ゆりはライオネルの背中にしがみついている。
「おいっ！ガーベラ降りろ！」
「いや！もう離れない。一生引っ付いてるわ♪」
「はあー？」
ライオネルは女神を振り落とそうと身体を動かしていたが、ゆりは力を込めてぴったり張り付いていた。
「ガーベラ！一体何がどうなってるんだ？！」
女神ガーベラの代わりように首をかしげつつ、ライオネルはもう神殿の外に出ていた。
「おーい！降りてくれー！」
「やだやだ！愛してるの！この大きな耳と尻尾とそれから・・・肉球も」
「なんなんだ。お前は！」
神殿の外で騒いでいたので妖精達やついにはサラディンまでもがやってきた。そしてライオネルの後ろに両手両足を広げてべったりひっついている
女神の姿を見たのだった。ライオネルは女神を振り落とそうとぐるぐる回り、当然ゆりもぐるぐる回っている。豪華な金色の巻き毛も右に左に揺れていた。
「何をやってるんだ？」とサラディンは唖然として聞いた。
「愛してるのー！！！！」
「降りろー！！！」
「私のこと愛してくれる？なら降りるわ」
「何言ってるんだ！？お前兄貴の恋人だろ！？」
「ハロルドなんてもう捨てる！あなたの方がいいの！あなたを愛してるの！」
「どうなってるんだ？」
とサラディンは横にいた火の妖精に聞いた。
「さあ・・・ガーベラ様はどうされたんでしょう？」
いつの間にライオネルまで恋人候補になってるんだ？
しかも気品もへったくれもないあの姿は・・・
「愛してる〜この毛並みも素敵♪」
「いい加減に降りろー！！」
目の前でぐるぐる回っている女神を見つめつつ、サラディンの心の中のガーベラ像はがらがらと音を立てて崩れ始めていた。娘ルティアナが出かけていたのは
幸いな事だった。こんなガーベラの姿はルティアナには見せたくない。やがてハロルドがこの二人を発見するのだが、それまでに風の妖精に見られてしまい、
『ガーベラがライオネルを恋人にしたがっているようだ』との噂を広められてしまった。
やがてゆりは元の世界へと戻り、ガーベラも元に戻ったのだが、その噂を聞いてあんぐりと口を開けた。
「私がライオネルに迫った！？嘘！なんで！？」
ガーベラはクーリーフンに事情を聞き、その場にいたというサラディンに会いに行った。すると、「しばらくは男女の仲は控えたい」
とサラディンにつれなく言われてしまった。
「えー！どうしてー！私は正気じゃなかったのに！」
ガーベラは悲しげに告げた。
「クーリーフンに事情は聞いたが・・・あんな姿を見てしまっては・・・・」
とサラディンは目を閉じた。
ガーン・・・・
どうやらよっぽどひどい姿だったのだろう。聞くのが怖い。
「もう！どうしてくれるのよハロルドのばか！」
ガーベラはハロルドに文句をいいに言った。元々全ての元凶はハロルドである。
「サラディンに呆れられちゃったじゃない！しばらく恋人じゃないって！」
「そうなのか？ふーん」
ハロルドは冷静な顔で答えた。
「何がふーんよ！」
ガーベラは出来る限り鋭い瞳でハロルドを睨んだ。
「恋人が減るのは私としても大歓迎だし、別にいんじゃないか？」
「何がいいのよ！この際もう一人減らす！？」
脅すように言うとハロルドはにやりと唇の端をあげた。
「元々お前が始めた遊びじゃないか。私はそれに乗ってるに過ぎないぞ。今回はまああれだったが・・・」
「何があれよ！あっちの時にそんな姑息な手段を使うなんて。ハロルドともあろうものが情けないじゃない」
「いいじゃないか。無理やりしようってんじゃないんだ。私だってちょっとした遊び心のつもりだったんだ」
「私の評判はどうなるのよ！」
「しばらくおしとやかにしてれば大丈夫だろう」
「よくないわ！はっ他の皆の様子を伺ってこなきゃ！」
ガーベラはあわてて移動した。
残されたハロルドは、「サラディンがいなくなるとは・・・まあ私にすれば今回の事もよかったかもな」と落ち込む様子もなく、舌を出した。
「どうせなら他の神も減ればいいのに・・・」
そうも思ったが、他の神はその場にいなかったので、ガーベラに恋人をやめるとまでは言わなかった。
ただ「クーリーフンの薬を間違えて飲んだんだって？それは災難だったな」と笑い話にされていた。原因はハロルドであるとは広まってないようだ。
全くハロルドったら！
ガーベラは一人ぷんぷん怒って自分の神殿に帰った。そして神殿にいたクーリーフンを睨んだ。クーリーフンはバツが悪そうな顔をしている。
「クーリーフンも悪いのよ！ハロルドの言う事聞いたりしてさ！」
「だってさーハロルド怖いんだもん。言う事聞かなかったら何されるか・・・」
ガーベラは両手を組んで長椅子に腰を下ろした。
「おかげでサラディンに嫌われちゃったじゃない」
「これに懲りたらもう遊びやめる？」
「・・・うーん・・・でも今回の事もちょっと面白かったから・・・・」
怒っていたガーベラの表情がにまにましてきた。
「ハロルドのことは腹が立つけど、でもまああれでかわいい所もあるしなあ・・・でもサラディンに呆れられちゃったからどうにかしないと・・・」
どうやら遊びをやめる気はないらしい。何が起こるかわからないスリルがやめられないようだ。
「困った母さんだなー」
クーリーフンは神殿を出て行った。
「でもまあ、僕もちょっと面白かったかな？」
空を飛んでいくクーリーフンの顔には笑みが浮いていた。結局何もできずじまいだったハロルドのことを思うと笑えてくる。
「こういうことは神でさえ思うようにいかないもんだね」
神でさえ色恋には苦労しているのだ。人間が苦労するのも当然といえば当然なのだろう。
一方目覚めたゆりは温泉の前まで行った記憶はあったのだが、その後の記憶はさっぱりなかった。湯に入ったのか入ってないのかそれもわからない。
なんだかすっきりしないなあ・・・どこで帰ってきたのかもわからないし・・・
すっきりしなかったゆりは朝風呂の用意を頼んでお風呂に入ることにした。
「入ってもすっきりしない・・・」
神の国での出来事がどうにも思い出せないゆりだった。
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