第５５話

「わっ、なんだここ・・・」

ヴィラはあたりを見回して驚いた。目の前には緑の屋根の大きな屋敷があったが、なんと逆さになっている。

少し離れた所に山が一つ見えるが、よく見ると緑の巨大な蛇がとぐろを巻いていた。

屋敷と巨大な蛇山の他にあるのは、子供のらくがきのようなよくわからないものだった。それらはあたりを漂ってふわふわと浮いている。

蛇のようなものや花、鳥のようなものだ。生きているものではなく、クレヨンのようなもので描かれたラクガキである。

緑の蛇のラクガキが目の前を横切って行った。

「うーむ・・・」

ヴィラは自分の首に緑の蛇がぶら下がっているのに気づいた。

なにげに右手の袖をめくってみると、そこに蛇はいない。

「出てきたのか。ということは・・・・」

ヴィラは何かに気づいて逆さの屋敷に入って行った。


屋敷が逆さなら、屋敷の中も当然全て逆さになっていた。二階に向かい、片っ端から部屋を開けて行き、ついに目当ての人物を

発見した。

「ディラン殿」

「あれ？ヴィラ殿じゃないですか」

ディランは椅子に座り、テーブルの上の紙に何かを描いていたようだ。部屋の中にもらくがきのようなものが漂っている。

「なぜ逆さなんですか？」

とディランが聞いた。屋敷の中も逆さなら、ディランも逆さだ。だが髪の毛も服も、テーブルも椅子も重力に反している。

「いえ、逆さはそちらですよ」

とヴィラが指摘した。

「え？」

「この屋敷逆さになってますよ」

「そうなんですか？」

その時屋敷ごと逆になり、ヴィラはわっと驚いた。気づくとディランの横にいた。

「また会えてうれしいですよ。ヴィラ殿」

ディランは立ち上がってヴィラの手を握っていた。ヴィラの胸はどきどきしていた。突然上下が逆になったからである。

「私もですよ」

と言いながらテーブルを見ると、大きな紙にラクガキが見えた。横にはいろいろな色のクレパスが置いてあった。

空中を浮いていたのはディランのラクガキのようだ。

「あれ？その蛇はもしかして・・・」

ディランはヴィラの首から下がっている蛇を見た。

「子蛇のようですよ」

「そうですか。私の蛇もどこかにいるかな？」

ディランは部屋の中を見回したが、緑の生きている蛇はいなかった。まだ肌にいるのかと鮮やかな緑のシャツのボタンを外して胸を見た。

肌に緑の蛇はいなかった。

「あれ？」

「あ、もしかしてあの蛇山かな？ものすごく巨大な蛇山がありましたよ。この外に。それがディラン殿の蛇なのかも」

「そうなんですか？」

「外にもディラン殿のラクガキが浮いてましたよ」

「ははは、お恥ずかしい」

ディランは頭をかいてヴィラに椅子を勧めた。

「ここはディラン殿の夢のようですね」

「そうですか。自分では自覚はないですが、そうなのでしょうね」

ディランも腰を下ろした。

横にいるディランはどちらかというと陽気だった。

ヴィラはあの話題を出すべきかどうか迷っていた。

「せっかくだからお酒を飲みましょう」

ディランは棚からお酒の瓶とグラスを持ってきてヴィラに酒を注いだのだった。二人は乾杯してお酒を飲んだ。

ヴィラは一口飲んで味がおかしいことに気づいた。

これはお酒ではなくただのぶどうジュースだ。だがディランは普通に飲んでいる。


うーん・・・酔っぱらっていたのかな？


そうヴィラは思った。よく見ると、ディランはちょっとやせて見えた。やつれて見えた、という方が正しいかもしれない。


やはりあの話題を出そう


「ドルイド殿はお気の毒でしたね」

そういうと、陽気だったディランの表情ががらりと変わったのだった。



ヴィラがディランと出会っていた頃、ゆりは王の寝室でラクシュミと会っていた。

神の試練を乗り越えてドルイドに出会ったのは１０日も前のことである。

ゆりは子供達や侍女、恋人達やラクシュミにも、試練のことやドルイドに出会えたことを語っていた。

ものすごい試練を成し遂げた、ということに関しては、ミルキダスやシャナーン、シス以外は皆言葉半分に聞いていたようだ。

だが、誰も単なる夢だと言いはしなかった。なぜならゆりはしばらくの間ひどい筋肉痛で、特に夢から覚めた日は歩くことさえままならない

くらいだったからだ。恥ずかしながらトイレに行くにも誰かにおんぶされて行っていた。

そんなにも身体を酷使してまでドルイドに会いに行ったということに特にシャナーンは感動して泣いていた。夢でドルイドとの別れを体験した

だけに、ドルイドのことを自分のことのように思っていた。

シスも「母様はすごいね」と感動していた。だがラギは「お母さんは体力ないから実はそんなに高い塔じゃなかったんじゃない？」

と憎らしくも言っていた。アナスターシャもそれについては同意していた。

「塔の高さが問題じゃないんですよ。試練をやり遂げたってことが素晴らしいんですよ」

「そうですよ。王妃の心が美しいです」

とジュノーやミルキダスはラギに言い、ヴィラは「王妃にとってはとてつもなく高い塔だったに違いないですよ」と言っていた。

ハインリヒは、「ドルイドも喜んだでしょう。よかったよかった」と自分のことのように喜び、ミカエルは「私が死んでも上ってくれます？」

などとゆりに聞いていた。

「いやよ。もう二度と上らない」

ゆりがつれなくそういうと、ミカエルはむくれていた。

「大丈夫よ。ミカエルが亡くなる時は、ちゃんと看取ってあげるからね。みんなもお願いだから知らない内に死なないでね。もう二度とあの塔は

上れないから」

ゆりは男達に懇願するように告げた。

一度上れたのだから二度目も上れるかもしれないが、もうお金をもらってもあの塔に上るのはごめんである。それに神様も二度も同じ試練は

やらせないだろう。


そんなことはさておき、ゆりは皆に言っていないことがあった。神の試練はたった一人でやり遂げたと言ったが、実は一人ではなかった。

筋肉痛が治り、ゆっくり考えることができて、今日はようやくラクシュミにそのことを話そうと思ったのである。

もう一人の自分のことを。


寝室にラクシュミがやってきて、ゆりは改まって話があると言ったので、ラクシュミは何の話かとちょっと身構えていた。

「あのね、王様、私自身のことなんだけど・・・・私って、時々ちょっと違うことない？」

ゆりはちょっと小首をかしげて聞いた。

「ん？」

「時々違わない？」

「何がだ？」

「そのー私じゃない誰かになってるとか・・・」

「・・・」

ラクシュミとしても返答に迷う所だった。

「何の話をしてるんだ？」

「もう一人の私の話」

「え？」

ラクシュミは（とうとうゆりがもう一人の自分に気づいたのか？）と驚いていた。

「実はね、ドルイドに会いに行った時、私二人いたの。二人で励まし合って塔上ったの」

「そ、そうなのか・・・・」

「王様は、もう一人の私に会ったことあるでしょ？」

「ある」

「子供達も？」

「ああ」

「ミカエル達も？」

「ああ、あるな・・・」

「やっぱりそうなんだ・・・」

ゆりは思っていたことがやはりそのままだったが、それをどう判断していいのかよくわからなかった。

「ゆり、そのことについては、お前はあまり考えない方がいいぞ」

ラクシュミは用心して告げた。

「え？そうかな？でも、私にとっては大事なことじゃないのかなあ？もう一人の私について考えた方がよくないのかな？」

「いや、考えない方がいい。今までそれでやってきたんだし、お前はお前、今まで通りでいいと思うぞ」

「そうなの？」

「ああ」

「でも、それってもう一人の私に悪くないのかな？」

ゆりにとってはもう一人の自分は、今や一緒に塔を苦労して上った仲間のようなものだった。だからそう思ったのだ。

神の試練がなかったならば、感情的にも違っていただろう。

「考えたって混乱するだけだろう。お前が混乱するともう一人のゆりも混乱してしまうんだ。だから今のままでいい。そのことについては

気にしなくていいんだぞ」

ラクシュミは優しく言った。

「そうかなあ？」

「ああ、そうだ」

「じゃあみんな私のこと変だと思ってないのかな？」

「いいや、皆にとっては、お前達はどちらも大事な王妃だ。それだけだ」

「はあ・・・」



どちらも大事な王妃・・・


私が知らないもう一人の自分。確かにいろいろ考えると混乱しそうだわ。特に赤い月とか・・・

考えない方がいいかも。話し合ったら喧嘩するかもしれない・・・自分に嫉妬するってのもばかみたいだし・・・


今はもう一人の自分を追い出したいと思っているわけではない。神の試練は、もう一人の自分がいなければ成し遂げることはできなかった。

ただ、自分が自分のことを知らないということが不安だったのだ。


ゆりはもう一人の自分とじっくり話し合った方がいいのではないかと思っていたのだが、ラクシュミの話を聞いて考えない方がいいかも

しれないと思えてきた。だが心情的にはちょっと複雑だ。

周りに変だと思われていないということだけはわかった。


「わかりました。もう一人の自分についてはあんまり考えないことにします」

「その方がいい」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

ラクシュミに話したことでゆりはちょっとすっきりして眠りについた。



一方、ヴィラにドルイドとゆりが出会った事まで聞いたディランは泣いていた。

「そうなんですか。よかった。よかった・・・・」

友の死は、ディランの心に少なからず変調をきたしているに違いない。それがこの夢なのだろうとヴィラは感じていた。

「ドルイドの奴、シス様達にも会いに行ったとは・・・ゆり様方には知らせないでおこうと思っていたんですが・・・すみませんね、いい年した

男が・・・」

ディランは涙を拭いた。

「いいんですよ。現実世界では、あなたもなかなか泣くことができないんじゃないんですか？ハインリヒ殿も、あなたのこと、

とても心配してましたよ」

「そうですか・・・ハインリヒがいてくれれば、と情けないことに何度も思ってしまいましたよ。他に友もたくさんいるというのに、『幼なじみ』

というものは特別なんですかねえ」

「そういうものですよ。きっと」


部屋の半分から奥が草原へと変わっていた。小さい子供達が３人、背中を向けてかけていくのが見えた。

緑の髪の男の子、青い髪の男の子、二人の後ろから走って行く、二人よりは少し小さい黒い髪の男の子が見えた。



「ドルイドは、フークスには自分が長くないことを話していたんです。どうして私に話してくれなかったのか、と私は悲しく思ったんですが・・・

フークスによれば、私を支えて欲しいから話したそうですが、それでも、私はドルイドの悲しみを、もっと共有したかった。一人でどんなにか

悲しんでいたのかと思うとやりきれなかったんですよ・・・ドルイドは私に手紙を残してくれたんですが、その手紙にも、悲しいなどということは

一切書かれていなかったんです。『３人の愛の女神の寵愛を受けることができた私は幸せだったのではないかと思う』とそんなことが

書かれていました」

「・・・」


黒髪の男の子がこちらを向いて立ち止まった。首までのストレートの髪の、右目が蛇の目の男の子だった。

男の子がこちらを向いて笑っている。くったくのない笑顔で笑っている。

ヴィラの頬を涙が流れていた。

「ドルイドはゆり様達にお別れをすることもできたんですね。よかった。なんだか私の心も軽くなりました。ありがとう。ヴィラ殿、

今日あなたに会えてよかった。本当によかった」

ディランは泣きながらもうれしそうに告げた。

「いいえ、この出会いも、元はといえば王妃とあなたの縁から始まったことですから」

ヴィラは手で涙を拭いていた。


黒髪の男の子は前を行く二人に促され、再び走り去っていった。


たとえ友は亡くなっても、幼き日の美しい思い出は永遠に、宝石のように心の中に残る。


「私は、いつでもあなたの話し相手になりますよ。寂しかったらいつでも呼んでください。私にとってあなたは一番騎士ではないですから。

ただの友として話を聞きますよ」

ヴィラはディランに笑みを作って見せた。

「どうもありがとう。今日泣いたこと、ハインリヒには内緒にしてくださいよ」

「ははは、どうしましょうかねーいっちゃおうかな〜」

ヴィラが意地悪げに言うと、ディランは「お願いしますよ」といつの間にやら右手に短剣を持っていた。短剣の先がぴかっと光っている。

「わっ力技はずるい！」

ヴィラはあわてたせいか椅子からお尻が落ちていた。

「いたた！」

ヴィラは床に尻餅をついていた。

「冗談ですよ。ははは」

「ひどいですねーもう・・・ハインリヒ殿には言わないけれど、王妃には言います」

「え？その方が困りますよ！」

「いえ、言います！」

「ヴィラ殿！」

ヴィラはさっさと部屋を出て行った。草原の景色はすでに消えていた。

屋敷の外に出てみると、大きな蛇山の横に小さい蛇山ができていた。

ヴィラの首にいた蛇はいつの間にかいなくなっていた。宙を飛んでいたラクガキも消えていた。

「あ、本当に大きな蛇山ですね・・・」

ディランが山を見上げてあっけにとられている。これだけ巨大な蛇は見たことがない。

「ハザーク様よりでかいですね」

「ちょっと上ってみましょう」

「ええー」

ディランに促されて、ヴィラは巨大な巨大な緑の蛇山を登ることにした。

（王妃が受けた試練じゃあるまいに・・・）そう思ったヴィラだったが、ディランを見ると、なんだか楽しそうに目を輝かせている。

「瞬間移動で上まで行きましょうよ」

「嫌です。上りたい気分なんです」

ディランは子供のように言い張って蛇の胴体を上っていた。胴体の一つ一つが巨大でつかむ所もなく、上るのが結構大変だった。

それでもディランは上に上っていく。ヴィラも続いて行き、半分ほど上った所で横の小さい蛇山に目を向けた。

すると、先ほど見かけた３人の男の子達がなんと蛇の頭の上に座っているではないか。こちらを見て手を振り、何か言っている。

「がんばれ」とでも言っているのかと思ったら、声が聞こえてきた。

「やーい、へたれー！へたれー！」

「軟弱坊主ー！」

「体力なしー！」


「お前達しめるぞ！」

ヴィラが声をあげると、「へへーん！」と子供達は３人そろってこちらにあっかんべーをして見せた。

上の方を行くディランはそのやりとりには気づいていないようだ。


「弱そうな奴だ」

「いや、弱いだろう」

「弱い弱い！」

「悔しかったら全部上ってみろー！」

３人そろってはやしたてている。


「うー！！！腹立つガキ共だ！」

子供達の悪口を受けながら上に上ったヴィラは、蛇の頭近くで座っていたディランにようやく追いついた。

「いやーなんだか子供みたいで楽しかったですよ」

ディランは満足げだ。

「ディラン殿、子供の時かなり悪かったでしょう」

ヴィラはいきなり鋭い瞳でそう聞いた。

「え？私ですか？いえ、ハインリヒは悪かったですが、私とドルイドはおとなしいものでしたよ」

ディランはすました顔で告げた。

「嘘だ。絶対嘘だ！」

「本当ですよ」

「いや、悪かった。悪坊主だったでしょう」

「いえいえ」

横の蛇山に子供達はもういなかった。

「何を根拠にそんなことを・・・」

「私にはわかるんです。あなたも結構悪かったでしょう」

ヴィラは断言していたが、ディランは「そんなことはないですよ」と否定し続けたのだった。


どうやら子供の頃の思い出も、ディランの中ではちょっと美化されているようだ。

蛇山でそんなことを思ったヴィラだった。



つづく

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