第21話
カーンンカーンカーンと時を知らせる鐘の音が高らかに鳴り響いた。
いつもは遠くから響く鐘の音が、今日はやけに近くで聞こえる。耳が痛いほどの音量である。
それもそのはず、イシュタールは街の一番大きな教会の中の一室で夜を明かしていたのだった。
どこの町にもたいてい神々に祈りをささげる教会は存在している。
祭壇にはいつも神々への供物、酒や果物などが捧げられるし、昼間は神々に祈りをささげる人々が後を絶えない。
教会は街のシンボル的建物であり、城の北に位置するこの大きな街の教会も、青みががかった高価な石で作られた立派な建物だった。
500人ほどが入るほどの礼拝堂には祭壇の奥に大きなアシュランの像が置かれ、横の壁の沿い、女神や男神の像も並べられていた。
神々の像の近くには酒などが置かれているが、これは教会に来た人々が置いて行ったものだった。
女神像の前には朝摘んだのか、瑞々しい花束が置かれている。
三角屋根の建物の後方にはとんがり屋根のついた高い塔のような建物があり、その上方に大きな鐘があった。
その鐘が先ほど鳴り響いていたのである。
鐘の音が鳴り終わった後、イシュタールは部屋にある窓から外を眺めた。ここから見える景色は草地と数本の木、その奥はレンガの壁で
囲われているため、他には空が見えるだけだった。
ぼんやり空を見上げていたら扉をノックする音が聞こえてきた。
入ってきたのはジュメだった。朝早いというのにもう戦士服に身を包んでいる。
「イシュタール様、朝食をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
ジュメはテーブルの上に食事が乗った盆を乗せた。イシュタールはジュメの顔を見ていた。
目が赤い。どうやら昨晩は眠れなかったようだ。
無理もない、まさか自分にこんな災難がふりかかるとは、イシュタールでさえ予想しなかったことだった。
事があったのは３日前の夜である。その日は月も出ていない闇夜であった。北の砦から見て西の方角にある小さな町、西の国境となっている
山々のふもとに位置する町が始まりだった。農業で生計を立てているテウという町だが、人口もさほど多くはない。一族の者も住んではいない町だが、
ここは蛇の国なので一族の保護下にある町であることに変わりはない。
昼間この町を訪れた時、出会った20歳くらいの少女が妙なことをイシュタールに言ったのだった。
「最近夜が静かすぎてなんだか怖いんです」
「静か過ぎる？」
とイシュタールは聞き返した。
「本当に静か過ぎるんですよ」
と少女は言ったが、すぐに少女の母親がやってきて、「変なこと言っちゃだめよ」と少女をたしなめた。
「子供が言うことですので気にしないでください」
母親はイシュタールに何度も頭を下げ、不服げな顔の少女を連れて行った。
イシュタールは少女の言葉が気になり、夜、再びその町に出向いたのだった。何かあれば調べねばならないし、何もなければそれでいい、
くらいの気持ちだった。
人々も家畜達でさえ寝静まった時刻だった。この町にも酒場はあるだろうが、すでに店は閉まっているのだろう。町の中は静かで
蛇の姿さえ見えなかった。
通りを見渡しながらあちこちを探ってみたが、どこかがおかしい、ということもなかった。
まあ、こんな暗い夜は少女にとっては恐ろしいだろうな・・・
所詮はその程度のことだったか、とイシュタールが思った時だった。ふと、建物の影に隠れる人陰を見かけ、イシュタールはそれを追った。
黒ずくめの人物だった。頭から布をすっぽりかぶったような。瞬間移動した先にはなにもいなかった。あたりを見回したイシュタールは今度は
町の裏手の柵の近くでその人物を発見した。黒ずくめの人物は柵を越えて木々の間を入って行く。走っているにしては動きはなめらかだった。
敵か？
イシュタールはかなり警戒し、いつでも攻撃できる態勢をとった。だが、敵の気配はまったく探れない。
仲間を呼ぶか呼ばないか、判断を迫られたが、相手がどんな敵なのか、もう少し見極めたいという思いが勝った。
敵らしき人物の後を追い、木々の間を入って行ったが、見失ってしまった。
瞬間移動ができる敵だったのか、それならば今夜のうちに追わねばならない。
イシュタールは何かを感じて足を止めた。
静かだった。
なぜこんなにも静かなのだろう。
あたりは森が広がっているというのに、ふくろうの鳴き声も、狼の遠吠えも、虫の声さえ聞こえない。
少女が言っていたのはこのことだったのだろうかとイシュタールは思った。
その時ふいに目の前にその人物がふっと現れて、イシュタールははっと身構えた。
背丈はイシュタールよりも低く、頭はフードをかぶり身体は黒い布で覆われていた。だが瞳だけは赤く輝き、その瞳がイシュタールを見つめて
いたのだった。
「お・・・お前は・・・」
イシュタールが感じたのは言い知れない恐怖であった。目の前の人物が心底恐ろしい。なぜかそう感じた。なのに逃げられない。
足が動かなかった。
「私に出会ってしまいましたねえ」
その人物は男のようだったが、一見丁寧に聞こえる口調でそういった。
「強くて、まっすぐですね。これはどれほど抗えるか、楽しみですねえ」
いったい何を話しているのか、イシュタールには皆目見当もつかなかった。赤い瞳は呪縛のようにイシュタールを捕らえて離さない。
「贈り物ですよ」
男は黒い服から両手を出した。そして両手に持った何かをイシュタールに渡した。それは数匹の蛇の死骸だった。
いずれも炭のように真っ黒だった。
「うわっー！」
次に目覚めた時、イシュタールは自分の寝室にいた。朝だ。変な夢を見ただけだったのか、そう安心したが、夢にしては妙に現実味をおびえていた。
そしてあの不気味な赤い瞳、今思い出すだけでも背筋が寒くなる。
「夢、ではないのか・・・」
あれは誰なんだ。敵か・・・ならばなぜ、私を殺さなかったのか？
自分はまったく動けなかったのだ。殺そうと思えば殺せただろうに！
昨晩はあれから自分の力で屋敷に戻ったのだろうが、どうやって戻ったのか、何も思い出せなかった。着替えたイシュタールは瞬間移動で
昨晩、あの人物に出会った場所に行ってみた。今もあの人物がいるとは思わなかったが、蛇の死骸がどうなったのかも気になった。
だが、それらしき物は見当たらなかった。
それからイシュタールは屋敷に戻り、仕事も休み、誰とも会わなかった。自分の中で妙な予感がしていた。その予感が晴れるまでは、
誰にも会いたくなかった。娘のメリッサがやってきた時も、具合が悪いから、と合わなかった。
思えば、その奇妙な男のことを誰にも話さなかったのも、その予感のせいだったのかもしれない。
敵ならば仲間に話さねばならなかったが、それを口にすることができなかった。仲間があの男を捜して、そして出会ってしまったら、なぜか
それを思うと恐ろしい。心がざわめくのである。
その夜見た夢は、闇、だった。ひたすら闇の中をさまよい、何かから逃げ続けた。朝目覚めて太陽の光をこの上なくありがたく思ったが、
夢を見ただけだというのに身体は疲労していた。
そして身体の異変に気づいた。足の指の先が、茶色く変色していたのである。
これはやはりただ事ではない！
イシュタールはその朝、教会に行き、なじみの牧師に会い、事の次第を話した。老齢の経験豊かな牧師である。
するとその牧師はやはりイシュタールが恐れていたことを口にしたのだった。
「それは闇の者に違いありません。イシュタール様はその者に接触してしまったのです」
「やはり・・・そうですか・・・・」
悪い予感は的中した。
それだけではないように、と祈っていたのだが。
牧師は表情をゆがめ、今にも泣き出しそうであった。
「なんと、この国に、その者が現れたとは・・・」
「私はどうしたらいいのでしょうか」
「今から教会で過ごされるのがいいでしょう。イシュタール様、どうか御気を確かに。あの者に屈してはなりません」
「はあ」
牧師の力をこめた言葉に、イシュタールはどこか気が抜けた返答を返した。
自分がであったのは闇の者だった。
そう確信した所で、悲しみも、怒りもわいてこなかった。
それは、闇というのもがイシュタールにとっては未知なるものだったからかもしれない。
ただ、沼地をはだしで歩くような不気味さは感じていた。
イシュタールは個室に案内されて、そこで寝泊りすることになった。部屋の中には神々を象った像や、お守りなどが飾られている。
ベッドと机、小ダンスなどがおかれたさほど広くはない部屋だ。
「今こそ神々への信仰が大事です。どうか、神々への信仰を忘れないように」
牧師はイシュタールに何度もそういっていた。
「私はどうなるのだろう・・・」
この世界には闇の者という存在がいることはイシュタールも知っている。おそらく誰もが知っていることなのだが、神々の神話とは違い、
書籍にそのことが記されることはない。噂話もめったにすることもないのである。
ごくたまに、闇の者に接触した人間がいる、というのも知っていた。だがそれも大人数ではない。本当にごくたまに、の話で、
それも本当にそうだったのかどうかも疑わしい話だった。たとえば、突然気がふれた、と思ったら自殺してしまった、というようなことである。
教会の牧師ならば、そういう事例も多く知っていることだろうが、「私はどうなるんでしょうか」と聞いてもきっと「信仰を持ち続けなさい」
といわれるだけだろう。
死ぬのは怖くはなかった。敵と戦って死ぬのも怖くはない。ただ、そんな得体の知れない者のせいで死ぬのはごめんだった。
「誰も会わないといいが・・・」
仲間達があの者に会わないように、と、イシュタールは今はそれを一番に願っていたのだった。
教会の牧師によって、イシュタールのことは城へ伝えられた。
「なんてことだ・・・」
額に手をあてたラクシュミは、イシュタールの不運を思い、嘆いた
「ミカエルがイシュタールは思念も返さないと言っていたが、だからだったのか・・・」
イシュタールはミカエルやフリットからの思念にも応じなかった。
闇と接触した者には、触れてはならない、そう言われていた。触れればその者も闇に落ちてしまう、そういう言い伝えがあるのである。
「しかし、確かなのか？本当にそうなのか？」
ラクシュミは牧師に聞かずにはいられなかった。
闇と接触した者は近くに命を落とす、そうも言われていた。ならば、イシュタールはもうすぐ死ぬ、ということではないか。
「間違いではないのか？」
「身体の一部が闇に染まっていると申されていました。確かなことなのです」
「なんてことだ・・・だが、今まで誰もが死んだわけではないだろう？」
「それはそうでしょうが・・・イシュタール様は戦士です。強靭な精神力で打ち勝つことを願います」
「・・・・」
普通の敵の方が１００倍ましだった・・・よりによってなんでそんな者と出会ってしまったのか
闇の者と接触した者の逸話は、ラクシュミも噂で聞いたことはあるが、そう多くはない。
そういう話はあまり語られない方がよいとされているので、そう噂を聞くこともないのである。その噂もあまり良い結末ではなかった。
イシュタールの事を聞いた者達は驚愕し、ジュメにいたってはその場で気絶してしまった。
皆それほど闇というものを恐れていた。それはこの世界で生まれた人間達のいわば本能というべきものであったろう。
神々の世界があるならば、どこかにまた闇の世界があるのかもしれないが、普通の人間はそのことを気にすることはない。
闇に目を向けてはならない。光を向き、人は生きるべき者なのだ。
ラクシュミはとりあえず、戦士をテウの町に出向かせて、他に闇の者と接触した者がいないか、調べさせることにした。
そして子供達にも念のため外に出るなと言ったのだった。
教会でのイシュタールの世話はジュメが引き受けていた。ジュメにとってもこのことは大変なショックだった。
（イシュタール様が死んでしまうかもしれない）
そう思いジュメは何度も涙した。今目の前にいるイシュタールが、闇に侵されかけているなど、ジュメにもとうてい思えなかった。
イシュタールは誰よりも冷静に見えた。おびえている様子も、感じられなかった。嘘なのではないか、とそう思えて仕方なかった。
「王妃から手紙が来たんだが・・・ジュメ、王と相談してくれないか」
「はい、わかりました」
ジュメはできるだけ明るく言って部屋を出て行った。
そんなジュメを見送ったイシュタールは、心配をかけているな、とは思ったが、「私は大丈夫」などと言って安心させるのも気が進まなかった。
教会に来ても同じような夢を見た。
闇の中、何かから逃げていた。敵の姿が見えない、というのはなんとも不気味だった。
最後にはあれに食われて死ぬのだろうか。それとも別の夢に変わるのか？
それも今のイシュタールにはわからない。
イシュタールは窓辺に立ち、陽の光をその身に浴びた。
王にも王妃にも、二度と会うことはできないだろうな・・・
今は仕事さえもできない自分がもどかしく、自分の不運よりも王に申し訳ない、と一人心で詫びたイシュタールだった。
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