第24話

今日は朝から雨が降り続いていた。イシュタールは雨音を聞きながらぼんやりベッドに座っていた。

例年ならば、一族の者達にとっては心躍る時期であるものを、こんな嫌な気分ですごさねばならないとは。

しかも数日部屋にこもりきりだ。外で思いっきり身体を動かせば気が晴れることもあるかもしれないがそれもできない。

自分の事情が一体どの程度知れ渡っているのか、それもよくわからない。

ヴィクターやロナウドもやってきてくれたものの、今は自分の所に訪問してくる客の方が気の毒になるくらいだった。

昨晩はどんな夢だったのか、考えることも疎ましい。暗い世界の夢を見ただけ、のような気がするが、身体は確実に闇に蝕まれている。

今は足首まで茶色に染まってしまっていた。体中茶色に変わってしまったら、考えるだけで憂鬱だが、考えずにはいられない。


カンカンとガラスをたたく音が聞こえてきた。イシュタールは窓に顔を向けたが誰もいない。すると小さな手が上に出てきてガラスを

たたいていた。イシュタールはかなり戸惑ったものの、窓に近づいて開けた。すると外にいたのはミルキダスの子供ゼッドだった。

相変わらずつんつん髪で悪がき坊主っぽい顔立ちだをしている。

「おはようございます。イシュタール様」

「お、おはよう。一人か？ゼッド」

周りを見たが他には誰もいなかった。

「うん。一人だよ。ねえ、見て、見てこれ！」

ゼッドは得意げな顔をしていた。

「え？何を？」

「僕ぬれてないんだよ！ほら、どこもぬれてない！」

ゼッドはぐるぐる回っている。確かに雨は降っているのに身体はぬれていない。自分の身体にシールドをはっているからだ。

一族の大人は普通にしていることだが、7歳でこれをやるのはすばらしいことだ。

「本当だ。すごいじゃないか」

「でしょ？苦労したんだー雨の日に練習してさ、でももう実は限界なんだ。入れて」

「だめだ」

「なんで？」

「ここは・・・そう、危険なんだ。家に帰りなさい」

「ここ教会だよ？お父さんもいつも教会に行けってうるさいくらいだよ？なんで危険なの？」

ゼッドにすれば最もな質問だった。

「とにかくだめだ」

「ははーん、さてはおいしいお菓子でも食べてるんでしょ。僕にも頂戴」

「え？ない、そんなものない」

「はいっちゃうもーん」

ゼッドはにこにこ顔で勝手に部屋に入ってきた。ゼッドはもう、短い距離なら瞬間移動もできるのである。

青ざめたのがイシュタールだった。

予想しない出来事である。相手が子供でも、触るのはやはりまずいだろう。そう思ってゼッドから後ずさっていた。

ゼッドはきょろきょろと部屋の中を見回していた。

「イシュタール様ここで何してるの？」

「別に何も・・・ここには何もないぞ。帰りなさい。あれ？学校だろ？学校に行きなさい」

「今日休みだよ」

「そうか。とにかく、どこか行きなさい」

「・・・・」

ゼッドはじーとイシュタールを見上げて近づいてきた。

イシュタールは再び後ずさっている。小さい子供から後ずさるイシュタールははたから見ればおかしな図であった。

ゼッドは真面目な顔で言い出した。

「おじさんちゃんとご飯食べてるの？なんかやせたんじゃない？」

「え？」

「あ、やばっおじさんって言っちゃった。ごめんね。これあげる、おいしいよ」

ゼッドは気になるほどに膨らんでいたズボンのポケットから何かを取り出した。

それは小さくて赤いリンゴだった。6個ある。

「さっき採ったんだ。おじさんも食べなよ」

「あ、ありがとう」

リンゴを差し出されて、イシュタールは仕方なくゼッドに近づいて手を出した。

ゼッドはリンゴを全部渡すと、「ばいばーい」と言って扉から出て行った。


リンゴを受け取ったままイシュタールはしばらく立ち尽くし、くすりと笑っていた。

笑ったのはどれほどぶりだろうか。

リンゴを口に入れてみると、甘酸っぱい味がした。

無邪気なゼッドがイシュタールにつかの間、穏やかな時間を与えたようだ。



その頃ミルキダスは教会の外でぶつぶつ文句を言っていた。

「まったく、ちょっと目を離すとすぐいなくなる・・・」

文句の相手は自分の息子、ゼッドである。今日は家族全員でお祈りにやってきたのだった。恋人のキャシーとジェシカ、二人の娘達は

もう帰っている。教会の外をきょろきょろ探していると、ゼッドは教会の中から出てきた。

「ゼッド、一体どこにいたんだ」

「つまんないから外に出てた」

「お祈りくらいちゃんとしなきゃだめじゃないか」

「だってつまんないもん」

ゼッドは口を尖らせている。

「お前ってやつはいつもいつも・・・」

「教会の中でイシュタール様に会ったよ」

ゼッドが何気に言い出して、ミルキダスはぎょっとした。

「え？イシュタール殿に？」

「うん」

「それでどうだった。ご様子は？」

「何か、やせてた」

「・・・・」

「あのおじさんどうかしたの？」

ゼッドは言ってからしまったと思った。つい、気が緩むとおじさんと言ってしまうのだ。そしてミルキダスに怒られるのだった。

ミルキダスのほうはそれどころではなかった。イシュタールの災難を聞いてから気にしない日はないほどである。

だが、部屋を訪れるほどの勇気はミルキダスにはなかった。自分が行ってもかえってイシュタールに気を使わせるだけになるだろう。

「どうしたの？お父さん泣いてるの？どこか痛いの？」

つい涙腺が緩んだミルキダスにゼッドは矢継ぎ早に聞いてきた。

「別に・・・なんでもない。行くぞ」

ミルキダスはゼッドの腕をつかんで瞬間移動した。


イシュタール殿、どうか闇に打ち勝ってください！


ミルキダスの願いは一つだった。



その日、ゆりはハザークの部屋で竪琴を奏でていたが、まったく心ここにあらずといった様子だったので、ハザークに

「別に無理に奏でなくていいぞ」といわれてしまっていた。ゆりは竪琴はテーブルにおいてハザークに向き合った。

「すみません・・・話は知ってると思うんですけど・・・・」

「緑の蛇の男が災難にあったという話だろ？残念ながらそっちは詳しくない」

「今までそういう噂とかも聞かれてないんですか？」

「そういう存在がいるだろうということは知っている。これは皆知っていることだろうが、考えるのはあまりよくないことだ」

「考えると闇を呼び寄せる、とかいう噂のことですか？本当なんでしょうか？」

「考えるだけで身震いするだろう？」

「はあ・・・」

「トリハダが立ちそうだ」

「ちょっと考えるだけでそこまでですか」


ハザーク様にトリハダ・・・


これもまた珍しいことである。

「王妃様は異界の方ですから、ちょっとピンと来ていらっしゃらないのではないですか？」

同じ部屋にいた侍女が告げた。

「ああ、お前が異界の人間ということも忘れかけてた。すっかり」

「私達にとっては考えるだけで身の毛もよだつことなのですわ」

「そうですか」

「ですからそういう噂があっても知ろうとしなかったのですわ」

「ああ、なるほど・・・」

そういわれると納得だった。

「変な獣の話なら何度か噂を聞いたがな」

「獣ですか？」

「普通の獣ではないのだ。とにかく、真っ黒で凶暴らしい。実際に見たことはないが」

「そうなんですか・・・」

ゆりは凶暴そうな獣を思い描きながら答えていた。



すっかり雨は上がり、日が暮れて、世界が闇に染まる頃、西の砦にいた戦士達の動きがあわただしくなっていた。

砦近くにある牧場の家畜達が襲われており、そこの者が今まで見たこともない生き物を見たといって訴えてきたのである。

戦士達が牧場を訪れると、確かに大きな獣に食いちぎられたような無数のウンガという牛に似た動物の死体が転がっていた。

とにかくあっという間の出来事だったらしい。そしてその近くの牧場でも被害にあっていたのだ。


「あれは狼でもイノシシでもねえ！怪物だ！」

興奮している牧場主を落ち着かせて、戦士達は砦で指示を出すキース将軍の元、動き出した。


「怪物ねえ。龍のほうがよっぽど怪物っぽくないか？」

「いえてるね。あれより怖い生き物がいるのかねえ」

戦士達にとっては、この世で一番怖い動物は龍だった。あれに比べればたとえ熊でも怖くはないといった感じであろう。

「熊じゃないのかな？」

「珍しいが黒豹とか」


─皆油断しないように


獣探しに加わっていたミカエルが皆に思念を送った。獣達はどうやら山の中に入って行ったようだ。

時期が時期である。夜山を駆け回るのはミカエルにとってもどきどきする出来事であった。イシュタールのことは皆が知っているわけでも

なく、たいていの者達は病気なのだと思っている。

陽があけるまで待った方がいいのか、とキースも思ったが、被害が広がる恐れがある上獣達がどこまで移動するかもわからない。

やはり今追うべきだと、結論づけた。




─おかしいと思ったらむやみに近づくなよ！


─みつけましたよ！でかい獣らしき物が山の中を走りまわっています。5頭ほどはいるかと─

同じく探索していたシャナーンがいち早く思念を送ってきた。


─どんな姿をしている？


キースが聞いた。

─とてつもなくでかいイノシシのようなものでしょうか

宙に浮いていたシャナーンが答えた。

─やれそうか？

─動きが早いですが獣は獣です。やれます

─皆、聞いているか？5頭ほどの獣がいるようだ。位置は・・・・・


キースが皆に指令を出し、探索に出ていた戦士達は一斉にその方向へと移動をした。


シャナーンはイノシシのような、と思ったが、獣は猪突猛進というわけでもなく、山の中木々の間をすばやく走り抜けていた。

シャナーンはまずはその一頭を宙を移動しながら攻撃した。力による攻撃は獣に命中した。だが、その獣は背中にちょっと傷を負った

だけでかまわず走っている。

「なんて頑丈な・・・」


─接近戦は危険です。力による攻撃にしてください！


シャナーンは戦士達に思念を送った。

やはり相手はただの獣ではなかった。ただの獣だったなら、シャナーンの一度の攻撃で息絶えたはずなのだ。


山の中をすばしっこく逃げ回る獣の相手はかなりてこずり、獣を殺すのに、シャナーンでさえ10回もの攻撃をしなければならないほどだった。

ようやく息絶えた獣を見たシャナーンは、獣から赤い血が流れていないことに気づいた。

「こいつは・・・」

「なんでしょうか。一体。やっぱイノシシでもないし・・・」

巨大なイノシシのような体つきであったが、毛は針のように固そうで、口は大きく、目もぎょろりとしていた。

近づいてきた戦士をシャナーンは制した。

「触ってはいけない。絶対に。いいですね」

「は、はい」

「残りを追いましょう」

シャナーンは残りの4頭を追った。


戦士達は接近戦を避けて戦い、ようやく4頭を始末した。


─ 一頭が山を抜けた！

残りの一頭を戦士達は追った。

力で攻撃を受けながらも最後の獣は逃げ、山を抜けて行った。獣を追っていたミカエルはその道筋に、人がいるのを見た。

「まずい！」

ミカエルは命いっぱいの力で獣を攻撃した。

獣の身体に一筋の閃光が放たれたが、その閃光は身体を貫通することはなく、獣はそれでも前に進んだ。だが、

その獣はその人物の前でぴたりと止まった。そして断末魔をあげることもなく、どさりと横に倒れたのである。

ミカエルはその場に近づいて唖然とした。後から他の戦士達も続いている。

獣は今度こそ息絶えていた。しかもそののどもとに、一本の剣が刺さっていたのである。剣をさしたのは、立っていた若者であった。

「あ・・・えーと・・・怪我はないですか？」

平気そうだったがミカエルは一応聞いてみた。

ぱっと見、その若者は一族の者ではなく、そしてどの一族の者かまったくわからなかった。

若者は獣から剣を抜き、布で剣をぬぐい、腰に戻した。

旅人が羽織る土色のマントをまとい、茶色系の地味な服装であったが、顔立ちは凛々しく、金髪の短い髪に青い瞳をした青年だった。

肌の色は陽に焼けた健康的な色だ。青年といっても年齢は若そうに見えた。背もさほど高くはない。ひょっとしたら大人でもないのかもしれない。

この若者が獣をしとめるほどの怪力を持っているとは到底思えないが、なよなよした感じではない。だからといって筋肉隆々でもなかった。

ミカエルの目から見てもまったくもってなぞである。

その場に集まった戦士達の誰もがぽかんと口を開けて青年を見ていた。一体どういう技で獣をしとめたのか。さっぱりわからない。


「どうも、大丈夫ですヨ」

若者が皆を見て告げた。声も優しげで若かった。やはり大人にはなっていないのかもしれない。

「こいつらの処理の仕方知ってます？知らなかったら教えてさっしゃげる。いや、さしあげ・・・とにかく教えるヨ」

「あの、あなたどちら様ですか？」

ミカエルが聞いた。

「私ですか？えーと・・・なんと言ったかなあ・・・神様の使いで・・・し、し・・・・」

「神官？」

誰かの声に、「そう、それですよ」と若者は弾けるように言った。

「神官ですよ」

「そうなんですか。その若さでもう神官なんですか」

ミカエルは驚いたがかえって納得していた。

嘘だろう、と思う者はいなかった。神官だから獣を軽々としとめた、とすれば納得できる。

戦士達はなぜここに偶然神官がいるのか、そっちに興味を持ち始めていた。

「この獣の処理、教えてください」

シャナーンがすかさず言った。イシュタールの話はここではできないのだ。

「これって魔物なんですか？」

ミカエルが聞いた。

「そうよ。まずは、処理ですヨ。いいっすか？触っちゃだめなのヨ。大きな布を用意して、触らないように手袋かなにかすんダヨ？

それからね・・・」

若者は真面目な顔で説明していたが、言葉はどうもところどころおかしい。どうやら慣れていないような感じである。


指示を受けてあらかたの戦士達が散っていき、ミカエルと若者だけになった。

「神官様、今日はどちらで泊まられるんですか？よかったら街にお連れしますよ」

「僕お金ないネ」

「お金なんかいりませんよ。もちろんこちらで何もかも出しますから」

「あなたの家がいいな」

「私の屋敷ですか？いいですけど」

「よろしく」

「所であなたのお名前は？」

ミカエルは伺うように聞いた。すると若者は考え込んでしまった。

自分の名前を言いたくない理由でもあるのだろうか。

「・・・・・ジーです」

「え？ジー？」

「そう、ジー」

「変わった名前ですね」

ミカエルは思わず言ってしまった。その名前ではさんをつけたら『ジーさん』になってしまう。様をつければ『ジー様』だ。


4人の戦士達が返ってきた。手にばかでかい布を持っている。男達は獣に触れないように注意して力で持ち上げて獣を布で来るんだ。

「ミカエル様、どこに運びますか？」

「そうだなあ。広くて周りに何もない場所がいいとすれば、やはりあそこだろうな」

毎回戦が行われる場所のことだった。だだっ広い丘で、周りに何もない。

「ちょっと遠いが運ぼう」

「はい」

「神官様もいらっしゃいます？」

「僕行くヨ」

「では私に触ってください」


とりあえずこの場にいた獣をミカエル達は移動させた。


こうして獣達はすべて丘で焼かれた。星空に灰色の煙が上がり、周りにはなんともいえない嫌なにおいが立ち込めていた。

話を聞いたヴィクターやキース、フリットやハインリヒも丘にやってきていたので、ミカエルは神官の若者を皆に紹介した。

「獣をしとめるのを手伝ってくださいました。神官のジー様です」

「ジー様？」

いち早く反応したのはヴィクターだった。

だがそこはいい大人なのであまり突っ込まず、フリットが「お若いのに神官とはすごいですね」と感心していた。

「ハロルド様の神官なんですか？」

ハインリヒが聞いた。

「えーしいていえば」

なんともあいまいな返答だったのでハインリヒはちょっと首をかしげていた。

すると神官ジーはよろよろっとよろめきだしたので一同びっくりした。

「ど、どうしたんですか？」

「この匂いでどうも・・・・うう・・・」

「今日はもう休んでください。ご案内します」

「ううううーん」

ミカエルはうめいて倒れそうなジーを連れて瞬間移動した。


「確かにひどい匂いですね。まったく・・・」

フリットも鼻に手をあてている。

「まったくだ・・・結局こいつらは闇の獣だったんですか？」

ハインリヒは鼻にハンカチをあてていた。

「そうみたいですね。食われたのが家畜だけでよかったですよ」


「こんなに早く神官が来てくれるとはありがたい。これでイシュタールの件もどうにかなればいいが・・・」

キースは小声でつぶやいていた。

「そうだな。頼りになるのかならないのか、よくわからない神官様だが・・・」

ヴィクターが答えた。


なにはともあれ、聖地から神官がやってきた。

この先事態が好転するに違いない。皆夜空にあがる灰色の煙を見上げながらそう思っていたのだった。



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