第27話

暗闇の中うずくまっていたイシュタールは、ふと、上空から淡い光が差しているのに気づいた。

顔を上げようとしたものの、体は動かない。


「イシュタール様」

自分を呼ぶ女性の声が聞こえた。

「イシュタール様、イシュタール様」


動けない・・・・

動けないんだ・・・・

そちらは向けないんだ・・・・


「イシュタール様、神官様ですよ。いらしてくださったんですよ」

教会の一室にて、ベッドで眠るイシュタールにジュメが話しかけていたが、イシュタールは一向に目を開けなかった。なおも続けようとするジュメに、

部屋に入ってきた神官ジーは、「いんだよ」とさえぎっていた。

「寝たままがいんだよ」

「ですが・・・」

ジュメは待望の神官がかなり若かったので驚いていた。言葉は別として育ちがよさそうな印象である。だが、年が見た目通りならば、

神官としての経験は浅そうだ。

「イシュタール、どうしたの？」

ジーの後ろからひょっこり顔を出したロイは、まったくイシュタールの事情を知らず驚いていた。

「ロイ様、どうしてここに」

驚いたのはジュメも同じだった。

「顔色悪いよ。病気？」

ロイはイシュタールの青白い顔にそう思ったようだ。

「そう。ビョーキだよ。悪い虫が引っ付いた」

ジーが言うと、ロイは「え？どんな虫？」と驚いた。

「目に見えないんだよ。さあ、君、布団とって」

ジーはロイに指図していた。

「僕？いいけど」

ロイはイシュタールの上にかかっていたかけ布団をぱっとはぐっていた。

「全部全部」

「はいはい」

ジュメが手伝って布団をベッドの脇においた。

ジーは上からじろじろと横たわっているイシュタールを眺めている。ロイはイシュタールの素足を見て「わっ！」と声を発した。

「どうしたの？足が黒くなってる！！」

「え？」

イシュタールの足がどす黒く染まっていたがジュメには見えなかったようだ。

「君見えたね。ちょっとズボンあげて」

「うん」

ロイがイシュタールの足に触れようとした時、ジュメが「キャー」と悲鳴をあげてロイを抑えていた。

「いけません。何をさせるんですか！」

「大丈夫よ」

ジーは普通に答えていた。

「大丈夫ではないです！」

「この子強いよ。平気よ」

「だめです！だめです！絶対だめです！」

ジーは必至になってロイを抱きしめているジュメの肩にポンと手をあてた。

「大丈夫」

「神官様」

ジーが頬をなでると、ジュメはふっと力をなくしてごろんと床に倒れてしまった。

「あ、ジュメ！お兄さん何したの？」

「ねせただけだよ」

ジーは自分よりも背が高いジュメをよいしょと抱き上げて、椅子に座らせた。

ジュメは椅子の背にもたれて目を閉じている。

ロイが見たジーの頬はちょっと赤くなっていた。

「どうしたの？ほっぺ赤いよ？」

「女の人初めて触ったから・・・」

ジーは恥ずかしげに頬をかいていた。


ロイがイシュタールのズボンを下からめくろうとしたものの、ズボンは分厚いぴったりした生地だったのであまり上にあがらず、

結局ロイはイシュタールのズボンを腰から下まで脱がすことになった。そうしながらも「何で僕が・・・お兄さんちょっとは手伝ってよ・・・」と

不満たらたらである。それもそのはず、小さい子供にとっては大人の男のズボンを脱がす、なんてことはかなりの重労働だった。

しかもイシュタールは普通の男よりも大きい。

「イシュタールったら重いよ・・・シャナーンくらいならよかったのに・・・よいしょっと」

やっとの思いでロイはイシュタールのズボンを下にずらしていた。

不満ながらも従っているのは、やはりイシュタールの様子にただならぬものを感じたからだろう。

ジーは眺めるだけだった。どうやら手伝う気はないらしい。

「あーもう疲れた。パンツも脱がす？」

「いや、そこまでいいよ。ほら、ここまで黒くなってる」

イシュタールの両ふくらはぎの半分あたりまで、肌の色は黒っぽく変色していた。

さすがのロイもそれを見ると神妙な顔つきになった。

「何かやな感じだ。どんどん黒くなるの？全部黒くなったらどうなるの？」

「死ぬかも」

「死」という言葉にロイはぎょっとなった。

「お兄さんイシュタールを助けてよ。そのために来たんでしょ？」

「いや」

「いや？いやって？」

「僕はそうじにきた」

「掃除？掃除ってゴミを取るあれ？」

「僕はこの人を助けられない。助かる道は、すでに、用意されてる。それに気づけば・・・」

「わけわからないよ！」

「そろそろ行こう。その人のズボンはかせて」

ジーはイシュタールから目をそらせた。

「えー？また僕がするの？ちょっとは自分でしてよ」

「やだ」

「誰か手伝ってよー！！！」

ロイはぶつくさいいながらもイシュタールのズボンをはかせたのだった。

「お兄さんって人使いが荒いよ！父様よりもえらそうだ！」

「そうかい？」

「そうだよ！」

イシュタールのズボンを履かせ終わったロイはゼーゼー肩で息をしていた。

「じゃあそうじに行こう」

「僕は王子様なんだ。掃除なんてしたことないんだぞ！」

ロイは偉そうに言った。

「じゃあ初めてね。初めてっていいね。なんでも」

ジーは部屋から外にすたすた出て行った。やはりここはついていかねばならないのだろう。

「イシュタール！なんだかわからないけどがんばれ！」

ロイは寝ているイシュタールに声をかけてジーを追ったのだった。



その日、ロイが城に戻ったのは夜が更けてからだった。戻ったロイはふらふらで、そのままばたんキューと寝てしまったため、

城で待っていた兄弟達やゆりが話を聞く間もなかった。

「明日の朝、朝食を食べてからまた神官様の元に行くそうです」

侍女からそう伝言を聞いただけだった。



城の一室、王の休憩の間にはラクシュミもいたが、フリットとミカエルがやってきていた。ミカエルは今日ロイがしたことの報告をしていた。

ミカエルの報告によれば、ロイは午後ずっと教会の外で短刀を振り回していたとのことだった。

「悪い虫を退治している、とロイ様はおっしゃられていましたが、その虫はロイ様と神官様にしか見えないようで・・・周りから見れば奇妙な光景でした」

「悪い虫？」

ラクシュミも言いながら首をかしげていた。

だが神官がいる、というのだからいるのだろう。

「それで神官はイシュタールと話はしてくれたのか？」

「それが・・・」


ミカエルがイシュタールの部屋に行った時には、もうジーもロイも去った後だった。部屋にはぼんやりした顔で座っているジュメとベッドで寝ている

イシュタールがいた。ジュメに話しかけようとした時イシュタールが目を覚ました。

起き上がったイシュタールはミカエルと目をあわし、イシュタールはふと自分の体の異変に気づいた。

なぜかズボンが中途半端な腰の位置でとまっている。しかもチャックも腰のボタンも開いたままだった。

「？これ、ミカエルが？」

「え？私が？いやなにも・・・」

イシュタールは奇妙に思いつつもズボンを直していたが、部屋の中はちょっと微妙な空気が漂ったのだった。


─ミカエル様、ロイ様は無事なんでしょうか？


その時ジュメからミカエルに思念が来た。


─ロイ様？無事だと思うが？

「イシュタール、ここに神官のジー様こなかったか？何か話をしたか？」

ミカエルはイシュタールに直接聞いてみた。

「いやなにも・・・」

「ここにいらしてくださいましたよ。よく分からない間に行かれました」

ジュメが答えた。

「そうなのか？」

「せっかく来てくださったのに話もできなくて申し訳なかったな・・・」

イシュタールはぼそりとつぶやいていた。


その後ミカエルが教会の外に出ると、教会の横手でロイが短刀を振り回していた。

その短刀はロイのものではないようだ。

教会の土地で幸い一般人は周りにいなかったが、ミカエルから見てもロイが何をしているのかさっぱりわからなかった。

ジーはというと、傍らで時々ロイに指示を出しているだけのようだ。

「ジー様、何をなさっているんですか？」

ミカエルはジーに近づき、聞いた。

「そうじ」

「掃除？」

「君には見えないよ。ここらに悪い虫がいっぱいだ」

「え？いっぱい？」

ミカエルは思わず自分の周りをきょろきょろ見ていたが、何も見えなかった。

「もーなんだよ。こいつら！どっからわいてでるんだよー！！」

ロイはぶつくさ言って短刀を振り回している。ロイには見えているようだ。

「それって闇の者に関係あるんですか？ところでイシュタールに会ってくださいました？」

「彼はやばいね」

「どうやったら助かるんですか？」

「神を信じること」

「はあ・・・」

「おーい、あっち逃げたよ」

ジーはロイに声をかけた。

「もー疲れた。ミカエル変わってよー」

ロイは泣き言を言っていた。

「だめだよ。君にしかできないの」

「うがー！」

ロイは雄たけびをあげつつ走り回っていた。



「午後はずっとこんな感じでしたね」

ミカエルはロイに同情しつつ告げた。

「ロイにしか見えないということは、神の加護と何か関係があるのかな？」

ラクシュミは首をかしげた。

「そうでしょうね。ちょっとロイ様には気の毒でした」

「そうか？なんだか楽しげだが」

「その悪い虫とやらはイシュタールにひかれてやってきてるんだろうか？」

フリットが聞いた。

「やはり闇の気配に引かれてそいつらはやってくるそうで、そいつらにはたいした力はないんですが、あまり増えるとまた闇の獣を

引き寄せたりしてしまうことがあるとか」

ミカエルがジーから聞いた話をまとめるとそういうことのようだった。

「そうか。ならロイにがんばってもらうしかないな」

「イシュタールもつらいだろうな・・・」

友なのに何もできないことが辛いミカエルとフリットだった。



次の朝、ぼさぼさの髪で食堂にやってきたロイは、もくもくと朝食を食べていた。そんなロイにラギやシス、アナスターシャは「昨日何してたの？」

と続けさまに聞いていた。

「すごい楽しいこと」

ロイはパンを詰め込んだ口で答えていた。

「楽しいことって」

「内緒だよーん。へへん」

掃除をしている、などとは口が裂けてもいいたくないロイだった。見方をかえれば、ゲームのようで楽しいといえないこともない。

城にじっとこもっているよりは外で悪い虫退治をしている方が楽しいだろう。だから文句を言いつつも今日も行く気満々のロイだった。

「何よーあやしー」

アナスターシャは怪訝な顔である。

「ちょっとあなた達出て」

ゆりは他の子供達を促して外に出した。ミシェイラはシスが抱っこしてつれて行った。

誰もいなくなった所でゆりはロイに近寄ってこっそり聞いた。

「ロイ、もしかしてイシュタールに会った？」

「あったよ」

ロイがあっさり答えたのでゆりはもっと顔を近づけていた。

「イシュタールどんな様子だった？」

「うーん」

「教えてちょうだいよ」

「いいよ。イシュタールの秘密教えてあげる」

「秘密？」

「耳貸して」

ゆりが耳を近づけると、ロイがこっそり耳打ちした。

「イシュタールね。しましまのパンツはいてたよ」

「え？」

「ご馳走様でした。僕もう行かなきゃ」

ロイは椅子から降りてゆりから離れた。

「ちょっと、そんな秘密いいわよ。イシュタールの様子を聞いてるの」

「行ってきます」

ロイは瞬間移動で移動してしまった。

「ロイ！もー何がしましまのパンツよ。なんでパンツみたのよ！」

ゆりは悔しげに言っていたが、答えてくれる者は誰もいなかった。




自分の体の変化に、一番嫌悪感を抱いていたのは、やはりイシュタール自身であった。

教会の中ですら、闇の力は止まらないのだ。

神への思いがあれば闇の力は止まる、と牧師は言っていたが、実際にはどうなのか。一度闇に囚われたらもう無理なのではないか。

神々の長アシュランに祈りを捧げるのもなんだか意味がないことのような気すらするのだった。

それこそ闇の者の思う壺、といった所だろう。

このまま闇にとらわれるのは恐ろしい。いっそのこと命を絶ったほうがいいのではないか。

もはや自分は一族にとっては無用な人間ではないのか。

イシュタールはそんなことさえ考え出していた。

闇に抗うにはやはりそれ相応の精神力が必要なのだ。


私はこんなにも弱かったのか・・・


そんな自分に失望さえする。

「メリッサに会いたい・・・」

自分が無事なうちに愛しき者にあっておきたい。

イシュタールは強くそう思い、その気持ちをとめられなかった。


一目だけでいい。無事な姿を見てすぐにここに帰ってこよう


イシュタールは教会に監禁されていたわけではなかったため、すぐに瞬間移動していた。

まだ朝早い。屋敷にメリッサがいるはずだ。


イシュタールはこっそりメリッサに会おうと屋敷に行った。窓の外から部屋の中の様子を伺うだけでも、と。

裏庭からメリッサの部屋をのぞくと、中でメリッサがジュメに手伝ってもらい着替えをしていた。

メリッサを見るのはずいぶん久しぶりのような気がした。

中に入って娘を抱きしめたかったが、それはできない。

だが、少し話をするくらいならいいのではないか、ふとそんな考えが心をよぎった。


ほんの一言、二言だけでも・・・・


その時ぱっとメリッサが窓の方を見て、「きゃー！」と悲鳴をあげたのだった。

ジュメが驚いて窓辺を見た。

メリッサは窓を見ながら「きゃーきゃー」言っている。

「イシュタール様！メリッサ、どうしたの？イシュタール様よ」

「違う！お父さんじゃない！怖い人がいる！」

メリッサはジュメに抱きついていた。

「え？怖い人？」

もう一度ジュメが窓を見たときには、イシュタールはいなかった。

「今のはイシュタール様よ。お父さんよ」

「違う！違うよ！お父さんじゃない！」

かたくなに首を振るメリッサだった。


メリッサに悲鳴をあげられて、イシュタールはひどく動揺していた。

すぐに町から外れた林の中へと移動していた。


メリッサには私が違うように見えていた。もう、元の私ではないのではないだろうか？


悪い考えが頭の中をめぐり、イシュタールは気分が悪くなっていた。

朝だというのに目の前を闇が包んでいるかのようだ。

「教会に戻ろう・・・・」

イシュタールは瞬間移動で教会に戻った。



部屋に戻るとそこにはロナウド将軍がいた。

「イシュタールどこに行っていたんだ？心配したぞ」

「将軍・・・」

「・・・ひどく顔色が悪いな・・・」

ロナウドは青白い顔のイシュタールを見て目を細めた。

「・・・・将軍、もしもの時は、私が命を絶つことを王に許可を─」

「お前何を言い出すんだ！もうあきらめるつもりなのか？」

ロナウドは両手を握り締め、頬を紅潮させていた。

「今の私はもう、一族にとってはお荷物です。取り返しがつかなくなる前にそうしたいんです！」

「私よりも先に逝くというのか。そんなことは許さんぞイシュタール。皆、お前が無事帰ってくるのを待ってるんだぞ。王も、王妃も、皆・・・」

「怖いんです。自分がこの先どうなるのか。そして周りも皆、怖いに違いない。皆に迷惑をかけるのも辛いんです」

「迷惑だなどと誰も思ってはいない。気をしっかり持て！」

「怖いんです。そのうちこの両手すら真っ黒く染まるのではないかと・・・」

「イシュタール・・・」

イシュタールは全身黒く染まった自分を思うとぞっとした。そんな自分を誰かに見られるのも考えたくない。

「もしもの時は、ですよ。闇を徘徊する存在にはなりたくないんです」

「・・・わかった。一応、王には申し上げておこう」

今のイシュタールの気持ちを、おそらくは自分も理解することはできないのだろう。ロナウドはそう思い、告げたのだった。

「だが、私はお前の灰をまくのだけはごめんだぞ」

「わかっています」

ロナウドはイシュタールを抱きしめてやりたい衝動にかられたが、それができないのがもどかしかった。

こんな時は誰かにすがりたいだろうに。


その時扉がバンと開かれて、重苦しい雰囲気は壊された。

「あ、おはよーイシュタール」

「「ロイ様！？」」

部屋に入ってきたのはロイだった。二人はロイを見て目を丸くした。

「ロイ様お一人ですか？」

ロナウドが聞いた。

「うん。イシュタール、はい、これあげるよ。こっちが似合うから」

ロイはイシュタールに紙の包みを渡した。

「なんですか？」

「僕もがんばる。だからイシュタールもがんばるんだ」

「え？」

「じゃあね」

ロイはぽかんとしている二人を残して行ってしまった。

「ロイ様は私のことをご存知なんですか？」

イシュタールが戸惑いつつロナウドに聞いた。

「ロイ様は神官の手伝いをしているんだ。それで聞いたんだろう」

「え？なぜロイ様が・・・」

「神の加護があるかららしい」

「神の加護・・・」


そういえばロイ様は私を見て何も言わなかったな・・・


先ほどメリッサは自分を見て怯えたが、ロイは普通だったとイシュタールは不思議に思ったのだった。他の子供が自分を見たらどうなのだろう。

「ロイ様にまでご迷惑を・・・」

「迷惑ではないと言ってるだろう。今回はたまたまお前が被害にあっただけだ。お前が悪いなどと誰も思ってはいない。それよりも何をもらったんだ？」

ロナウドはロイが渡した包みが気になっているらしい。

「なんでしょうか」

イシュタールは紙の包みの中の物を取り出した。

そして思わず「う？」とうめいていた。

中に入っていたのは、男物のパンツだった。赤いでかい花柄でかなり派手である。

それを見たロナウドは、「ちゃんと特大サイズだ。よかったな」と言ったのだった。




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