第29話

この世には人間と神の世界とは別に、闇の世界というものが存在している？

その世界は一体どこに？

闇に落ちた人間にはどのようになってしまうのだろう。

考えてはいけないといわれてもつい考えてしまう。

そこに行って帰ってくることはできるのだろうか？


目の前には真っ黒の扉があった。

ゆりはその扉の前に立っていたのだ。


この先に何が？


手を握られてはっと我に返った。

横には、白い、ぼやけた子供のような存在がいたからだった。


その夢をみたゆりは、目覚めた時軽く自己嫌悪に陥っていた。

考えてはいけないといわれてもつい考えてしまう。

このまま何もできないというのがもどかしい。

イシュタールはゆりにとっては大事な恋人だ。

過去の世界での恋人ドルイドは助けることができなかったが、イシュタールはまだ生きている。

何もできないままイシュタールを亡くしてしまうようなことにでもなったら、必ず後悔することだろう。


その朝は少し早めに支度をしてゆりはロイの寝室に行った。

ロイはまだぐーぐー寝ている。

ロイが神官の助手のようなことをしだしてすでに５日経っていた。ロイは毎日朝から晩までいろいろやらされているらしく、城に戻って

来る時はいつもぐったりしていた。

「ロイ、ロイちゃん起きて〜」

ゆりはいつもは出さないような甘え声を出していた。

「ロイ、ロイってば！」

「むにゃむにゃ」

「朝よ、起きてちょうだい」

ゆりは軽くロイの頬をぺちぺちたたいた。

「うーん」

ロイがうっすらと目を開けた。

「ねえロイ、昨日お母さんが頼んだこと覚えてる？」

「ねむいー」

「神官を連れてきてって言ったじゃない。どうにかして連れてこれない？」

ゆりはイシュタールに会うことができないので、せめて神官の話を聞きたいと思い、ロイに頼んでいたのだった。

ロイは眠そうに目をこすっていた。

「あのお兄さん城はやだってさ。だから無理だよ」

「なんでやなの？」

「偉い人に会いたくないってさ」

「じゃあさ、勝手に瞬間移動させちゃったらどう？」

母親としてこんな言葉はいかがなものかと思ったが、今は緊急事態だ。

「そんなことしていいのかなあ？」

「ちょっとだけでいいから」

「だめだよ」

と後ろで声がした。ゆりが驚いて振り向くとラギがいた。

「ロイにそんなことさせちゃだめだよ」

ラギに非難され、ゆりは「うっ」と声をつまらせた。

「神官様が嫌だって言うんだからあきらめるしかないよ」

ラギが諭すように言った。

「ロイごめんね。本当は私が会いに行きたいんだけど、王様が許してくれなくて」

ゆりはしょんぼりしていた。

ロイは身体を上げてゆりの顔の近くを指で触っていた。

「何？」

ゆりは顔をよけた。

「黒もやがあった」

「黒もや？」

「僕が掃除してるやつだよ。母様、闇のこと考えてたんじゃない？」

「え？」

「考えたらだめだってお兄さん言ってたよ」

「ごめん・・・」

ゆりは落ち込んで部屋を出て行った。

ラギは沈んだ様子のゆりの後姿を見送った。

ラギとシスとアナスターシャはイシュタールの事情を聞いていた。ロイが今やっていることも聞いたのだった。

「今日も神官様と修行？」

ラギがロイに聞いた。

「うん・・・」

ロイはベッドの上に座っていたが、浮かない表情だった。

「どうしたんだい？」

「・・・本当は、僕怖いんだ・・・」

ロイはうつむいたまま言った。ラギはロイの横に座った。

「修行がかい？」

「違うよ。イシュタールだよ。イシュタールの身体は、もう半分以上真っ黒になっちゃったんだよ」

ラギははっとした。

「僕がいくら掃除しても、真っ黒になるのを止められないんだよ」

「・・・・」

ラギはどう言えばいいのかわからなかった。本当ならば、自分も神官に会って詳しく聞きたい所だったが、

すでにミカエルやフリットが聞いているだろう。

「お兄さんはイシュタールを元に戻すことはできないって」

「そうなの？じゃあロイは何のために修行してるんだい？イシュタールの闇を倒すためじゃないの？」

「僕もそう思っていたけれど、よくわからない。なんか怖くなってきたんだ。この役を、シスにーに変わってほしいくらいなんだよ」

「ロイ・・・」

「僕がもっと大きかったらなあ・・・」

ラギがそんな弱音を吐くのは初めてだった。ラギはロイの身体を抱きしめた。

「手伝ってあげられなくてごめんよ」

ラギ自身、何もできない自分がもどかしかった。神の加護があったばかりにロイにばかり辛い思いをさせて申し訳ない、ラギはそう

思っていた。


その頃神官ジーは、相変わらずミカエルの屋敷に滞在していた。

そしてこの朝も、出された朝食を眺めるだけで手をつける様子はない。

この朝はテーブルを隔ててミカエルが座っていた。ミカエルは食事を眺めているジーを向かい側で見つめていた。

「神官様はお腹すかないんですか？」

ついにミカエルは聞いてみた。

「ん？」

ジーが顔を上げてミカエルを見た。

「何も食べられている様子がないので」

「ばれちゃったか」

（ばれるも何もないもんだ・・・）とミカエルは思った。

イシュタールのことも、それこそどうにかならないものかと何度もジーにたずねたミカエルだったが、答えは同じようなものだった。

結局最後にはイシュタール次第のような返答が帰ってくるのだった。ならロイは何のために鍛えられているのか、ミカエルにもわからない。

最近イシュタールの顔を見ると泣いてしまいそうで、ミカエルはイシュタールがいる教会にいけなかった。フリットも同じだという。

「ロイ様は今日も掃除ですか？」

「うん。そろそろ終わらせたいんだけどね。僕はそんなに長くいられないから」

「そうなんですか？」

「うん」

ジーはやはり多くは語りたくなさそうだったのでミカエルは詳しく聞かなかった。

不安だけが心をよぎる。

一体いつになれば不安は晴れるのだろう。


いや、イシュタールに比べれば自分の不安など・・・・


ミカエルは教会にいるイシュタールのことを思い、唇をかみしめたのだった。


城で朝食を食べたロイは、イシュタールの元にいた。

イシュタールは見た目元気そうに見えた。だが、その手はもはや普通の色をしていなかった。ロイには黒く染まって見えていた。

ロイはイシュタールが変わっていくのを見るのは怖かったが、「君にしかできないことだよ」とジーに言われていた。

「イシュタール、好き」

ロイはイシュタールの身体にぴったりくっついていた。

「ロイ様昨日から変ですね」

イシュタールのほうは苦笑気味だった。昨日もロイは同じようにしていったのだった。

神の加護がある人間はイシュタールに触っても平気なようだった。だが、腕白なロイからこんな風に

しおらしくされると、やはり自分の状態に気づいているのだろうな、と感じてしまう。

「お兄さんがさ、抱っこしてあげなさいって言うんだ」

「お兄さん？神官様のことですか？」

「うん。抱っこして好きって言ってあげなってさ」

「そうですか。うれしいですよ」

今自分の娘すら抱きしめられないイシュタールにとっては、ロイの存在はありがたいといえるものだった。

「あ、そうだ。あのパンツはいてくれた？」

ロイの言葉にイシュタールはどきりとした。

「は、はあ・・」

「どれ」

ロイはイシュタールのズボンに手をかけて、イシュタールがその手を押さえた。

「な、何するんですか」

「ちゃんと履いてるか確かめようと思って」

「履いてます。ちゃんと履いてますから」

「本当？ならいいけどさあ」

ロイは手を離した。

「じゃあ僕行くよ。また来るよ。じゃあね」

ロイはイシュタールから離れて姿を消した。

「ロイ様・・・」

ロイの自分に対する気遣いに涙が出てきたイシュタールだった。イシュタールは、すっかり色が変わった手をぎゅっと握り締めた。


たとえ全身が闇の色に染まっても、私は負けない！最後まで抗ってやる！


変わらず怖い夢は見ていたが、最初の頃ほどの恐怖は感じていなかった。この状態になれてしまったから、というわけではない。

精神的に前向きな気持ちになれたせいだろう。この先自分の身に何が起こっても悲観すまい、そう思っていたのだった。



ゆりはここの所城にこもりきりだった。しかも、常に部屋に誰かいる状態だった。つまり、どこかいかないように監視されていた。

左目が蛇の目のゆりは、ふてくされた表情で目の前にいる男を見ていた。

「暇ですね。バラクでもします？」

そこにいたのはヴィラだった。

「しないわよ」

とゆり。

「別に監視しなくても飛んで行ったりしないわよ」

「だといいですがね・・・」

ゆりはため息をついた。

「ヴィラはイシュタールに会った？」

「会ってないですよ。なんて言っていいやらわからなくて・・・」

「そうよね。私も会えたとしてもなんて言ったらいいのかわからないわ。だけど会いたい。会って抱きしめてあげたい」

「だめですよ。万が一のことがあったらどうするんです？」

「触れもしないなんて・・・・」

「危険ですね。夜こっそり城を抜け出さないでくださいよ？」

「わかってるわよ」

そうしたいのはやまやまのゆりだったが、そこまで思い切ったことができなかった。自分の想像できない状況なだけにそこまでするのが

今のゆりでさえまだできなかった。イシュタールを助ける術がなにも思いつかないのだ。今行ったところで励まして終わりということに

なってしまうだろう。

「じゃあ神官には会った？」

「神官様はみかけましたよ。かなり若い方でしたよ」

「そう・・・」

その夜からロイは城に帰ってこなくなった。ミカエルの屋敷で泊まることになったとのことだった。


国では新酒ができる季節だった。いつもならば心がわくわくしてどうしようもない時期なのだが、ラクシュミも将軍達も今年ばかりは

ため息ばかりの日々を送っている。


10の月の20日、闇夜の晩のことだった。

その夜、イシュタールは胸騒ぎを感じて眠れなかった。最初に闇の者に出会ったのがこんな夜だったとイシュタールは思い出していた。

あれから１５日も経っていた。


静かだ。虫の声さえ聞こえない・・・・


窓から外を眺めたイシュタールははっとした。

外に、誰かいた。黒い外套を着た者が。その瞳は赤く輝いている。

「あなたは強いですね。すばらしい」

男は感嘆するように告げた。

「いまだ平常心を保っているとは、あなたは我が王国の住人となるにふさわしいですよ。私は本当にあなたがほしくなりました」

イシュタールは眉をひそめていた。

「私はお前のような存在にはならない」

「一度囚われれば元に戻ることはできませんよ。死ぬ以外はね。お仲間に疎まれてまでここに留まりますか？どっちみち、全身が

闇に染まれば我が王国に落ちることになりますよ？」

「私は、闇になど落ちない。決して」

イシュタールは両手を握り締めていた。

「最後まで抗いますか？それも・・・う・・・・」

男の声が止まった。イシュタールが目を凝らす。男は前のめりになり、後ろを向いた。男の背中には短刀が刺さっていた。そして、

その短刀に子供がぶらさがっているではないか。ロイだ。

「う・・・うう・・・お前は・・・・」

ロイは短刀を抜いて、今度は男の首に短刀を刺したのだった。

「うがっ・・・・この刀は・・・聖なる・・・」

男の姿は崩れ、姿を消してしまった。

「やった！イシュタールやったよ！」

ロイが短刀を落として、イシュタールに走りよった。

「ロイ様！」

イシュタールはあわてて外に出た。

「ロイ様！ロイ様！」

イシュタールはロイを抱きしめた。

「イシュタール、よく聞いて。お兄さんは言ってたよ。あいつは死んでも、イシュタールは闇の世界に行っちゃうかもしれないって！」

「え？」

「でも、出口はあるんだよ。しっかりしてれば、出られるんだ！神様を信じて！」

「神を？」

「神様を信じれば助けてくれるよ！」

ロイはジーから言われたことを必死になって伝えたのだった。

イシュタールは足に違和感を感じて下を見た。自分の足に、大人の手がかかっていた。その手はなんと地面からのびているではないか。


『是が日にもあなたは連れて行きますよ』


不気味な声が聞こえて、イシュタールの身体は下に落ちて行った。

「うわああああ！」

「イシュタール？！どうしたの？」

イシュタールはその場にばたりと倒れてしまった。

「イシュタール！」

ロイは必死にイシュタールの身体を揺らしていた。

「しっかりして！イシュタール！」

「やはり連れて行かれちゃったか・・・・」

横でイシュタールを見下ろしていたのはジーだった。

「お兄さん！」

「君はよくやったよ。えらかったよ！」

ジーはねぎらうようにロイの肩をぽんぽんとたたいた。

「だけど、イシュタールが・・・・」

「帰ってくるよ。ここまでがんばったんだから。きっと」

「うん・・・そうだよね・・・・」

ロイは涙をふいた。

「これで僕の仕事は終わりだ」

「え？もういっちゃうの？」

「うん」

「イシュタールが帰ってくるまでいてよ」

「実は忙しいんだ。もう帰らなきゃ」

「じゃあ最後に父様と母様に会ってよ」

「うーん・・・・」

ジーは頭をかいていた。

「二人にさよならくらい言ってよー」

「うーん・・・わかったよ。とりあえず、この人ベッドに寝せてあげて」

「うん」

ロイは力でイシュタールの身体をベッドに運んだ。

「あ、そうだ」

何かを思い出したロイは、イシュタールのズボンのボタンをはずしていた。

「何してるの？」

ジーが聞いた。

「ちょっと確かめたくて・・・あ、違うや。『きめるぜ？』どういうことだろう？」

ロイはイシュタールのパンツに書いてる文字を読んで首をかしげ、ズボンを元通りにしてジーと去って行った。

どうやらイシュタールはユリウスからもらったパンツをはいていたようだ。




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