第30話

次の朝、ようやく神官ジーが城にやってきた。ラクシュミはミカエルから昨晩のことを聞いていた。

ロイが闇の者を殺したことをだ。神官によれば、その者が他の者の前に姿を現すことはもうないということだった。

この国で闇の獣などが出現することも当分はないようである。

それは喜ばしいことではあったが、イシュタールはそれで助かったわけではなかった。

闇に連れ去られてしまったというのだ。

だが、全身闇に染まった状態ではない者が闇に落ちた場合、闇の世界から抜け出す確率は高くなるそうだ。

それはイシュタール次第ということらしい。

闇の者を殺すのをなぜ自分でしなかったのか、とか神官についてはいろいろ謎があったが、ラクシュミはとりあえず、王の間にやってきた

神官を見て、立ち上がり、「このたびはどうもありがとう」と礼を言った。

「いえ・・・」

神官は頭をかいている。

ミカエルから聞いたとおり、神官はかなり若く見えた。

「ロイがしばらく世話になりました」

「いえ・・・あの子がんばったよ。えらかったよ」

「そうですか。もう帰られるそうですね？」

「うん」

その時悲壮な表情のゆりがロイと一緒に王の間にやってきた。

ロイは昨晩ジーと一緒にミカエルの屋敷にとまり、朝城に帰ってきていた。

「あなたが神官？イシュタールは結局・・・」

ゆりはイシュタールのことが気が気ではなかった。挨拶どころではないようだ。

「ゆり、イシュタールのことはもう聞いた。神官はよくやってくれた。もう帰らなければならないそうだ」

ラクシュミがフォローするように言った。

「え？もう？」

「お兄さん忙しいんだって」

ロイが言った。

「とりあえず、この国ではしばらく闇の獣なんかが出てくることはないようだ」

「そうなの。それはよかったけど」

「聖地によろしく伝えてください」

「お兄さんまた来てね」

ラクシュミに続いてロイが言った。

「うん。僕それじゃそろそろ行くよ」

神官は去っていこうとし、ゆりはとっさに「待って」と呼び止めて神官の腕を握っていた。

「まだ聞きたいことがあるの。本当に私達ができることは何もないの？」

その時だった。ゆりは奇妙な感覚を覚えて目をぱちくりさせた。

この感覚をどういえばいいかわからない。

この人を知ってる？

そう感じたのだ。一方ジーのほうも、ゆりを見てちょっと首をかしげていた。

「ゆり、聞きたいことは全部聞いたから・・・」

ラクシュミの言葉にゆりはぱっと手を離した。

「ごめんなさい」

「・・・・」

ジーは無言のまま歩いて門を出て行った。


門の外ではミカエルやヴィクターが待っていた。

それぞれジーに礼を言い、ジーは「家楽しかった」と最後にミカエルに告げて、姿をぱっと消してしまった。

瞬間移動で消えてしまったのだった。


ミカエルは門から出てきたゆりを見て慰めるように腕をなでた。

「王妃、イシュタールは強い、必ず戻ってきますよ。そう信じましょう」

「うん・・・」

「お兄さんもう行っちゃったの？面白い人だったなあ」

ロイは名残惜しそうに言っていた。

「瞬間移動で行かれましたよ。聖地まで飛ばれたんですかね？すごい距離ですが・・・」

とミカエル。

「本当に若い神官だったわね。なんだか誰かに似てる・・・」

ゆりの左目は蛇の目に変わっていた。

「誰か？」

「うーん、誰だろう・・・」

ゆりは首をかしげていた。

「とりあえずイシュタールの様子を見てもいいよね？」

「しばらく触らないほうがよいんですよ」

「見るだけならいいでしょ？王様の許可もらおうっと」

蛇の目のゆりは再び王の間に入って行った。


一方、神官ジーは城の庭園にいた。だがもうその存在は、神官だったジーではなかった。

背格好は同じだがその顔がまず違っていた。輝く金髪、顔立ちはますます凛々しく、青い瞳はどこまでも純粋に澄んで見えた。

たとえ一万人の人間にまぎれようとはっと目立つ存在感、今この場にゆりがいれば、「あ！」と声を上げるに違いない。

だが、その姿はもう、普通の人間には見えなくなっていた。

「おーい、ジェイク！」

側に飛んできたのは小さなクーリーフンだった。ジェイクと呼ばれた少年は顔をあげた。そう、神官ジーはハロルドの息子、

ジェイクだったのだ。

「迎えにきたんだよ。終わったの？」

「うん」

「無事終わった？」

小さいクーリーフンは無邪気な顔で聞いた。

「言われたことは・・・後はあの人が助かるかどうかだけど・・・」

ジェイクは何か考えるように首をかしげていた。二人の言葉は神の言葉だったので、ジェイクはもうすんなり言葉を話していた。

「こればっかりはねえ・・・・」

とクーリーフン。

「実はさっき城に行ったんだけど、そこで気になる女の人に会ったんだ」

ジェイクがこんなことを言い出した。

「気になる女の人？」

「うん。なんだかすごく気になる人なんだ。どうしてかわからないけど」

「そう。じゃあまあとにかく帰ろう」

「うん」

クーリーフンはジェイクに触れて、二人は神の国へと戻ったのだった。



黒目のゆりはラクシュミの許可をもらい、街の教会に連れてきてもらっていた。

イシュタールはベッドに横たわっている。傍らにはジュメとユリウスがいた。

「王妃・・・」

二人とも驚いた顔でゆりを見た。

「ジュメ、辛かったでしょう」

ゆりはジュメの顔を見て涙があふれてきた。ゆりはジュメに寄り添って体に腕を回した。

「私など・・・イシュタール様が本当におかわいそうで・・・」

ジュメは泣いていた。

ゆりをつれてきたミカエルも、沈んだ表情をしている。

「大丈夫よ。絶対にイシュタールは帰ってくるわ」

ゆりは自分に言い聞かせるようにジュメに言っていた。

「はい、王妃・・・」


イシュタール・・・戻って来て・・・


イシュタールが今どんな状態にいるのか、ゆりにはわからない。


本当に私ができることは何もないのだろうか？


二人のゆりは同じ事を考えていた。


その夜、ゆりは暗い部屋で自分のベッドに座っていた。とてもじゃないが寝る気にはなれない。

口から出てくるのはため息ばかりだった。


だめだわ・・・変なことばかり考えてたらまた黒もやでてきちゃうかも・・・・


ゆりは歩いてベランダに出て、「うわ！」と声をあげて後ずさっていた。

バルコニーになんとガーベラがいたからだった。

ゆりは目をこすって再びガーベラを見た。本物である。だが、あまり光り輝いてはいない。

「ガーベラ？どうしたの？」

「こんばんは。こっそりきちゃったわ」

ガーベラは少し微笑んで言った。

「こっそりって・・・」

どうやらお忍びということらしい。

「彼が大変な目に遭ったわね。あなたが悩んでいるだろうと思ってきたの」

「イシュタールのこと、知ってるの？」

「ええ」

「彼を助ける方法何かない？」

ゆりは必死の顔でガーベラに近寄った。

「助ける方法、というか、彼がいる世界に行くことならできるわ。昔、同じようにある男が闇に囚われて、その恋人が助けに行く手助けを

したことがあるの」

「え？本当？」

「ええ、成功した幸運な二人だったわ。もうずいぶん昔のお話だけどね」

「私が助けに行くこともできる？」

「その時助けに行った女性は戦士だったわ。二人には強い愛もあった。あなたは戦士じゃない。そんなあなたがあの世界に行って

彼を助けるというのは大変よ？」

「う・・・・」

「一人よりは二人の方があの世界を抜ける確率は上がるとは思うけれどね。彼もあなたの顔を見れば奮起するだろうし、だけど、

当然失敗すれば二人とも帰ってこれないわ。あの世界では、私もあなたを助けることもできないし。それでも行くというのなら方法を

教えてあげるわ」

「・・・」

ゆりはすぐに行く、とは決断できなかった。イシュタールのことはとても心配だったが、今、自分は一人ではない。自分に何かあれば、

赤ん坊も巻き添えになってしまうのだ。それに、ガーベラの言うとおり、自分は戦士ではない。この国でさえ、結界の外を一人で歩くことも

できはしないのだ。

「闇の世界ってどんな世界なの？やっぱり闇に閉ざされた世界なの？」

「さあ、行ったことないから知らないわ」

「じゃあどうやったらその世界から抜けることができるの？」

「実は、あの世界でも、神の力が及ぶ所があるのよ。うまい具合にその場所で神の助けを呼んで、神が呼応すれば、助かることもあるのよ」

ゆりはガーベラの言葉を心の中で繰り返し、考えていた。

「神の力が及ぶ場所・・・」

「どうする？」

「確かに、一人よりも二人の方が助かる確率は上がるかも・・・」

イシュタール一人でその場所を見つけることができるかどうか、ゆりにはそれが不安だった。

「考える時間はあまりないわ。行くのならば急いだ方がいいわよ。数日経って彼が戻らなければ、もう帰ってくることもないわ」

「どうすれば行けるの？」

ゆりはついに言った。

ガーベラはゆりに小さな黒い小瓶を渡した。

「これを飲んで彼の横に寝転んで。一緒の夢を見ることができるわ。この場合、あなたの心も彼と同じ世界に行ってしまうことに

なるけれど・・・」

ゆりは小瓶を受け取り、それをぎゅっと握り締めた。

「幸運を祈っているわ」

ガーベラは自分の左手の薬指にしていた金の指輪を、ゆりの指にはめた。

「ガーベラ、ありがとう」

ゆりは微笑んだ。

「あ、そうだわ。あの世界の物は食べないで。水も飲んじゃだめよ」

「わかったわ」

ゆりはバルコニーから部屋に戻った。


ガーベラの側に大きなクーリーフンがやってきた。珍しく浮かない顔つきである。

「彼女に何かあれば、お母さんはこの国の人間に恨まれることになるよ？そんなこと教えなくてもよかったのに・・・」

「そうね。でも彼女ならきっとやってくれるわ」

ガーベラは自信に満ちた表情をしていた。一体何を根拠にそう思うのか、クーリーフンは大きなため息をついていた。

「ハロルドの言葉じゃないけれど、愛の力だけではなんともならないこともあるよ。彼女のことも心配だけど、彼女が戻ってこなかったら、

お母さんはまともじゃいられなくなるんじゃないのかな？それも心配だよ」

ゆりはガーベラがもう一人の自分だと認めた人間だった。その人間が闇にとらわれれば、ガーベラもおかしくなってしまうのではないのか、

クーリーフンはそう感じていた。

「彼女ならきっと抜け出せるわ。私はそう信じるわ」

「・・・・」

「私は私の心をかけるわ」

「ああ、もう、お母さんがお母さんじゃなくなったら、僕だってこのままじゃいられないよ」

「大丈夫よ」

「どこからくるの？その自信」

ガーベラはその問いには答えなかった。.


どうか、あなたの恋人達のことを思い出して・・・


ガーベラは祈るように両手を組んでいた。


部屋に戻ったゆりはもう一人の自分に話しかけていた。

「イシュタールを助けに行きたい。いい？」


─私に依存はないわ

と返答があった。

「二人なら、きっと何でもできるよね。イシュタールだって助けられる」


─そうよね。二人ならなんでもできるよ！

一人ではない、というのが今ほど心強いと思ったことはなかった。

「赤ちゃん、ごめんね。でも、絶対に戻ってくるからね。絶対。問題は王様だけど・・・」


─言えば反対されるわ。簡単に書置きだけして、私が飛ぶわ

「わかったわ。じゃあすぐ書くわ」

ゆりはランプの火をつけて、簡単に手紙を書き、急いで動きやすい服や靴に着替えた。といってもズボンはここにはないので

白いブラウスを着てひざまでの青いスカートをはいた。


蛇の目のゆりに変わり、ゆりは結界を抜け出して、イシュタールの元まで瞬間移動した。暗い部屋にはイシュタール一人きりだった。

ゆりは黒い小瓶を開けて中身を飲み干し、イシュタールと同じベッドに乗って横に寄り添った。


その時ラクシュミから思念が届いた。


─ゆり！お前どこに行った！戻ってこい！

どうやらゆりが消える気配を察したようだ。

─ゆり！ゆり！


「王様ごめんね・・・・イシュタールに無事会えるように・・・」

ゆりは目を閉じた。

ほどなくしてゆりは眠りについた。


薄暗い空間に二人はいた。その先に、もっと黒い空間が広がっているようだ。

「あっちに行けば闇の世界かな？」

黒目のゆりが言った。

「あのさ、考えたんだけど、何も二人も行くことないよね。あなた戻ってよ」

蛇の目のゆりが言った。

「え？」

「指輪はお守りにもらっていくわね。じゃあね」

蛇の目のゆりは、黒目のゆりを思いっきり突き飛ばした。

その瞬間、黒目のゆりは目覚め、ベッドから落とされていた。

「ちょ、ちょっと！ちょっと待って！」

ゆりはベッドに駆け寄った。自分の指から指輪はなくなっている。

彼女は一人で行ってしまったのだ。

「そんな！一人で行ってしまうなんて・・・二人なら何でもできるって言ったじゃない！」

ゆりはベッドをたたいていた。


その時部屋の中にハインリヒがやってきた。

「王妃！やはりこちらでしたか。一体何してるんですか！」

「・・・・」

「王妃、王が心配されてますよ。部屋に戻りましょう」

「戻れないよ。彼女が帰ってくるまでは戻れない・・・」

「彼女？誰のことです？」

「・・・もう一人の私よ。彼女だけイシュタールの元に行ってしまったの！」

「ええ？」

驚愕するハインリヒの前で、ゆりは泣き崩れてしまったのだった。


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