第34話
「あ、なんだかイシュタールに出会えたような気がするわ！」
声をあげていたのは、現実世界での黒目のゆりだった。二人はあれからずっとベッドの側にいる。
「本当ですか？」
側にいたハインリヒが聞いた。
「なんだかそういう気がする」
「そうですか」
離れていても二人は元は一人なのだ、通じるものがあるのかもしれないとハインリヒは感じていた。
だが、問題はそこからどうやってこの世界に戻ってくるか、である。
闇の世界とはどのようなものなのか。
今この部屋にはランプの灯りがともされていたが、外はもう真夜中、世界は闇に覆われている。いや、星はきらめき月が輝く夜だった。
夜とはいっても恐ろしくはない。だが、今は朝が待ち遠しい。
これほどまでに朝が待ち遠しいと思う日はなかった、とハインリヒは感じていたのだった。
一方、町を出た蛇の目のゆりとイシュタールだったが、とりあえず一本道を歩いていた。
不気味な鐘の音はやんだ。
道には馬車も馬の姿も見えない。どんよりした空に、空を飛ぶ鳥の姿も見えなかった。だが、どこからともなくカーカーとカラスの鳴き声のような音が聞こえてくる。
道をそれて木々の間を入っていけば、様々な動物達がいるに違いない。
「案外あっさり出られてよかったね。戦うことになるかと思っちゃったわ」
ゆりが気楽を装って言った。
「これからどうすればいいんだろうねえ。とりあえず、一本道を行ってみるしかないのかしら？うーん……」
「王妃」
「神様に助けを求めればいいのかなあ。助けてって言えば助けに来てくれるのかな？」
「王妃」
「あ、そうだわ。思い出したわ。ガーベラが、神様の力が及ぶ場所があるとか言ってたわ。そこを探しましょう！」
ゆりはぽんと手をたたいた。
「王妃……」
ゆりはようやくイシュタールに顔を向けた。
「なあに？どうしたの？私に会えてうれしくないの？」
イシュタールはかなり複雑な表情をしていた。
「正直うれしくないです。いえ、その前に、どうしてここにいらっしゃるんですか？」
（やっぱり気になるか……）とゆりは目をそらせた。
「王妃、どうやってここにいらしたんです」
「わからないの。なんかさ、変な男に会ってね。それで気づいたらここにいたの」
「変な男に会った？」
イシュタールは目を細めていた。
「そうよ。だから別にイシュタールを助けようと思って来たわけじゃないのよ。本当よ」
「…………」
「イシュタールったら、いくら私が無謀だといっても、そこまでは……そりゃあなたを助けたい気はあったけどね」
「本当ですか？」
イシュタールは歩きながらもゆりをじっと見ていた。
「本当よ。そんなことよりもここから出ることを考えようよ。イシュタールは私を無事に連れて帰ってちょうだい」
「はあ……」
イシュタールはあまり納得できていないようだ。ゆりとしてもイシュタールに負い目を感じさせたくなかったので、助けに来たとは言いたくなかった。
「イシュタールは気づいたらどこにいたの？」
「あの町の中だったんですよ。それでこれは夢かと思ってうろうろしていたら、あのさっきの女性に出会って、途中から覚えていません。やはり夢ではないようですね」
「偽ガーベラすごかったね。よく抱かなかったわねえ。イシュタールすごいよ」
「はあ」
イシュタールは頭をかいていた。
「あの女性の誘惑をかわすなんてねえ。ミカエルだったらやばかったかもよ」
「私もクラクラといきかけましたよ。ユリウスのおかげです」
「え？なんでユリウス？」
ゆりは瞬いた。
「秘密です」
イシュタールはちょっと恥ずかしげだ。
二人で子部屋に行き、女性に誘惑されたものの、イシュタールはどうしてもパンツをさらすのが嫌で、そこでストップがかかったのだった。
誘惑を逃れたのがたまたま穿いていたパンツのおかげとは、イシュタールも言いにくい。
「なんか怪しい……」
「それよりも、この道はどこに続いているんでしょうかね」
イシュタールは前を向いた。道はどこまで続くのか、わからない。遠くに林が見えるので、まっすぐに道が続いているわけではないのだろう。
この先に違う町があるのだろうか。
「さあねえ。さっきの男女はどっかに行ったのかな？」
馬に乗る前に森の中でいたしていた男女のことである。さすがに今もしてはいないだろうが。
「そういえば、あの女性が先ほど神の力がどうのと言ってませんでしたか？どういうことですか？」
イシュタールが思い出して聞いた。
「ガーベラが、ここに来る前に指輪をくれたの」
ゆりは右手にはめている金色の指輪を見せた。
「ガーベラ様が？王妃は突然ここに来たのではないのですか？」
イシュタールは鋭い指摘をした。
「え？その……まあいいじゃない。どうでも」
ゆりは困った様子である。
「よくないですよ。やはり私を追っていらしたんですね？」
「無事帰れば丸く収まるでしょ？」
ゆりは笑みを浮かべて言ったが、イシュタールは珍しく怒ったのか口を閉ざしてしまった。
「イシュタールってば。そういうことは帰ってからにしようよ。今は、どうやったら帰ることができるか考えようよ」
「王になんと謝ればいいのやら……」
「帰らないと謝れないからさ」
「…………！」
イシュタールははっと左の林を見た。
「どうしたの？」
「何かの気配を感じたんです。動物かもしれないですが……」
「さっきのゲイルも夜は怖いって言ってたわ。イシュタール、この世界で力使える？」
「……いえ、無理のようです」
イシュタールは瞬間移動さえできなかった。敵が襲ってきた時、どうやって戦えばいいのか。
イシュタールは「ちょっと待っててください」と言って林の中に入って行き、武器になりそうな手ごろな太さの木の枝を探して持ってきた。
一メートルほどの太めの木の枝である。棍棒の変わりくらいにはなるだろう。
「何もないよりはましかな」
「もしかしたら剣を持って寝たら持ってこれたのかしら？しくじったわ」
とゆり。
「とりあえず、先を急ぎましょう」
「うん。でもどこに行けばいいのかわからないよねえ。神様に助けを求めるのもどこで求めればいいのかな。どの神様かなあ。やっぱりアシュランかな？
アシュランに助けを求めればいいのかしら？アシュラン助けてって言えば、ふがっ」
イシュタールがあわててゆりの口をふさいでいた。
「王妃、その名前は口に出さない方がいいかもしれませんよ」
「え？」
「何かが来る！」
イシュタールはゆりから手を離して身構えた。
木々の間から飛び出してきたのは二匹の巨大な黒い鳥だった。
いや、鳥かと思いよく見ると、黒い翼がついた人間である。大人にはなる手前の少年といった良く似た風貌の二人だった。
短い黒髪に黒いズボン、シャツの上には黒いベスト、肌も褐色だった。細身で背もそんなに高くはない。
二人は翼をはためかせながら宙に浮いていた。先ほど出会った穏やかそうなゲイルとは違い、こちらは目つきはかなり鋭い。
悪そうな感じに見える。神の誰かに似ているということもなかった。
「忌まわしい名前を口にするのはだれだ」
「まぬけ、ん？あっちの人間じゃねえ？こいつら」
一人がもう一人に聞いていた。
「本当だ。だからか」
二人は観察するようにゆりとイシュタールをじろじろ眺めている。
イシュタールは木の棒を構え、ゆりはその後ろにいた。『アシュラン』という名前はこの世界では禁句のようである。
「ってことは、町まで連れてってやらなきゃならないねえ」
「じゃあお前男を連れて行け。俺は女と遊んでから行こうっと」
一人がじーとゆりを見ていた。子供かとおもいきや、そういうことの興味はあるらしい。
「ふん、物好きだね」
「俺物好きよ。へへっ」
怪しい笑いにゆりは身を縮ませている。
「おい、お前、町に連れてってやるよ」
一人がイシュタールに近づいた。
「不要だ。私達は町から出てきた所だ」
「なんで？」
「とにかくほっといてくれ」
イシュタールはもう一人を気にしつつ、相手に言っていた。
「もうすぐ夜になるぜ。獣に食われたいのか？」
もう一人のほうは宙に浮かんだまま、横からゆりを眺めていた。
「ねえちゃんはこっちにきな」
「いやよ。私達のことはほっといて」
ゆりはイシュタールの側で言った。
「どうやら二人とも死にたいらしい。ほっとくか」
イシュタールの側にいた方が言った。
「男はほっとこう。女は貴重だからね。俺と遊ぼうよ」
ともう一人。
「いやよ！」
「勝気な女、好きだよん」
一人がゆりを捕まえようと下降してきた。イシュタールはとっさにゆりをかばい、木の棒で男に立ち向かう。
「女を守るのに必死だね。でもそんな枝じゃね」
イシュタールは棒を振るっているが、相手は難なくかわしていた。宙を飛んでいても身のこなしはかなりすばやい。
「おい、男を押さえておいてくれよ」
男はもう一人に頼んでいた。
「えーめんどいなあ。まったく」
男はイシュタールの後ろから近づき肩をつかもうとし、イシュタールはもう一人の方を向いて木の棒で突いた。
「おっと！」
その瞬間、もう一人の男がゆりの身体を正面から捕まえて宙に浮こうとした。
「やめてよ！」
「王妃！」
「お前はこっちだよ！」
男は突かれた時にとっさにイシュタールの木の棒を握り締めていた。すごい力である。
「くそ！離せ！」
「離してよ！」
ゆりはむちゃくちゃに暴れて男から逃げようとする。
「暴れるなって！いてっ！」
ゆりの右手が男の頬をかすり、男はぱっとゆりを離した。
30センチほどの高さから落ちたゆりは、地面の上にしりもちをついた。
「いてえ！てめえ何しやがる！」
男の頬には赤い筋がついていた。
「引っかかれたのか？」
イシュタールの相手をしていた男がイシュタールの棒を離して飛び、聞いた。
「違う、何かが当たった」
「王妃、大丈夫ですか」
イシュタールはゆりを起こしている。
一人の男が、もう一人の男の傷を近くで見た。
「焼けたようになってるぞ」
「なんだよ。何しやがったんだよ」
ゆりは（指輪があたったせいだ）と気づいて右手を見た。だが、そこには金の指輪はなかった。
「あれ？なくなった。指輪なくなっちゃった！」
ゆりはあわてて地面を探したものの、どこにも金色の指輪は落ちてはいなかった。
「さっきので消えちゃった！」
「てめえ、しこたま痛い目にあわせてやるからな」
傷を負った男はゆりを睨んでいた。
（ひえーどうしよう！火に油を注いじゃったよー！）
力が使えず剣もないイシュタールはどうやってゆりを逃がすか、夢中で考えていた。相手が空を飛べるだけにどうにも戦いずらい。
しかも相手はただの少年ではなかった。
走って逃げてもすぐに追いつかれてしまうだろう。かといって林に入っていくのはもっと危険だ。
「神様助けて！アシュラン様助けて！」
ゆりは思わず神に助けを求めていた。
「「その名前は呼ぶな！」」
翼がある男達の形相が怒りに変わっていた。
「おい、バカ女、その名前を呼ぶと獣達までやってきて暴れるぞ。やめろ！」
「闇の王にすがる方がずっとかしこいぞ」
「嫌よ、絶対に元の世界に戻るんだから！」
ゆりは決意を新たに叫んでいた。
イシュタールは男達二人の動きに神経を集中させている。
「まったく、いてえぜ。腹が立つから獣に食わせようぜ」
傷を負った方が言い出した。
「だけど殺したら後で怒られるからなあ。王にばれたらえらいことになるよ」
「とりあえず女は痛めつけて泣かせてやる。こっちに来な！」
「やだ！」
傷を負った方が下降しようとして止まった。地面のどこかを見ている。もう一人も同じ所を見ていた。ゆりも二人の視線の先を見た。
自分の左後ろに、ゆりは予想だにしない生き物を見て口を開けた。
「あれは……犬だよな？」
宙に浮いている男がもう一人に聞いた。
「犬？にしては……ずいぶんと禍々しい……」
イシュタールもちらりとゆりの左後ろを見た。
そこにいたのは綺麗な、毛並みの長い犬だった。町ではあまり見たことがないような大きめの犬である。大きさはオオカミほどだろうか。
毛は金色だった。オオカミとは違い穏やかな顔をした犬だ。
「わんちゃん！」
ゆりが声をあげると、座っていた犬は「ワン」と吠えた。そしてしっぽを振りながら近づいてきた。
「なんでここにいるの？」
その犬には見覚えがあった。かつて、神の国で見かけ、そしてドルイドの試練の時にも助けてくれた犬である。
「その犬を知ってるんですか？」
イシュタールが聞いた。
「うん。なんでここにいるのかな？」
４人が４人ともそれぞれ疑問を感じていたが、翼がある二人は、憎憎しげな顔つきだった。
「こんな犬は見たことないぞ」
「しかも反吐がでそうなほど禍々しいじゃねえか」
「お前ら、神の力を借りやがったな」
「そんな獣を持ち込みやがって許せない！」
二人は素早く下降してきた。イシュタールがとっさに身構えて、近づいた所で男の腹に力を込めて棒を振った。
男はその棒を片手でつかんで引いた。
「くっ！王妃！」
下降してきたもう一人はゆり目がけている。横にいた犬がすぐさま男に飛びかかった。
「グウウ！ワン！」
「犬っころが！」
男が犬の顔に肘鉄を食らわした。
「ギャウン！」
犬は地上に転げ落ちた。
「わんちゃん！」
ゆりは犬に駆け寄った。一方イシュタールは男に木の棒を取られて、殴られそうになり、それをかわして回し蹴りをしたが、それは宙に逃げられてかわされた。
相手の動きが素早すぎてこちらの攻撃があたらない。
「わんちゃん大丈夫？」
犬はぶるぶると顔をふるって立ち上がっていた。
「こんな犬を連れてきて何考えてるんだ？」
男は不思議そうである。確かに、この犬はどう見ても戦闘系ではなかった。
ゆりもなぜこの犬がここにいるのか不思議でたまらない。
犬の身体がぱっと光り輝き、ゆりは驚いて手を離した。
「わんちゃん？」
犬の身体がどんどん大きく膨らんできて、ゆりは「うわあ！」としりもちをついていた。
「ええ！」
敵の男二人は攻撃をやめて、イシュタールもその様を見ていた。
金色の毛並みはそのままに、首が長くなり顔つきも変わってきた。ぎょろりとした目に長い口、大きな牙も見える。頭には二本の角まで見えるではないか。
身体は馬くらいまで大きくなり、尻尾も長く伸びていた。
二本の角から敵の男二人に向かってびりびりと電撃が放たれて、二人はとっさのことに避けもできずにそれを食らっていた。
「うわあああ！」
「なんなんだ！こいつはー！」
イシュタールもゆりもあっけにとられている。
犬だった獣がちらりとゆりを見た。ゆりは大きな目に何かの意思を感じてはっと立ち上った。ぼんやりして見ている場合ではない。
「イシュタール！乗るのよ！早く！」
「は、はい！」
イシュタールははっと我に返ったように走りよってきて、二人はあわてて背を低くした獣の背中にまたがった。
と同時に獣はものすごい速さでその場を離れて道を走り抜けて行ったのだった。
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