第35話
神の国、ハロルドの神殿では、ハロルドが落ち着きなく腰に両手をあてたままうろうろ部屋の中を歩き回っていた。
部屋の中は真っ暗だったが、ハロルド自身が光を放っているため、真っ暗闇ではない。
「まだか……まだなのか……」
ハロルドはそんな言葉をつぶやいていた。
部屋の外ではジェイクがそんな父の様子を窺っていた。
闇の世界では、犬が変化した獣に乗ってしばらく走り、獣が止まった所でゆりとイシュタールは獣から降りた。
周りの景色は一変していた。地面は赤土色の岩で覆われていた。岩と土だけで、あたりには草一本生えていない。
左右にかなりの高さの垂直の崖がそびえ、崖は遠くまで続いていた。崖と崖の間はかなりの隙間があるでの、
通るのは容易そうだった。獣の姿はどんどん小さくなり、獣は元の犬の姿へと戻ってしまった。
「ありがとう、わんちゃん。さっきの姿って、麒麟かな？本に見た麒麟に似てたかも？」
ゆりはイシュタールに聞いた。
「そうですね。麒麟っぽかったですね。私も実際に麒麟を見たことはないですが」
とイシュタールが答えた。
北の大地にいる麒麟はその国の外にはいない生き物である。二人も実際にその姿を見たことはなかった。
犬はその場にへたりこみ、口ではあはあ息をしていた。
「疲れたよね、ありがとうね」
ゆりはしゃがんで犬の頭をなでた。
「この犬は、神の国の聖獣なんでしょうか」
イシュタールが聞いた。
「うん。きっと、指輪の中から出てきたんだわ」
助けてくれたのはガーベラ？それとも、ハロルドなのかもしれない……
そうゆりは思った。
「この先を行くしかないのかな？」
そびえる崖を登るのは不可能だし、せっかく来た道を戻るのも躊躇する、そうなれば、前に進むしかないだろう。
「そうですね。森の中よりは安全そうですが……もうすぐ日が暮れますね」
イシュタールは空を見上げた。すでに日は陰って辺りは薄暗くなっていた。このままここで一夜を超すことになるのだろうか。
それまでこの体が持つかどうか、イシュタールにもわからない。
「前に進もう。わんちゃん、歩ける？」
「くうん」
犬は起き上がった。
二人と一匹はでこぼこした道を進んでいったのだった。
いったいこの世界からどうやれば出られるんだろう？
神様の名前を呼んだら、またさっきみたいなのがやってきそうだし……
それにしてものどが渇いたわ
この世界に来て水一滴飲んではいない。何か食べたり飲んだりしてしまえばこの世界から出られなくなるようだ。
目の前に食べ物がないからまだましだが、ごちそうがどんと出て来たら、我慢するのが大変そうだ。
そのとき、ふと塔の試練のことを思い出していた。
ここに寿司屋が出現したら、それこそ黒目のゆりにとってはまずい状況になっただろう。
「王妃、手を繋ぎましょう」
「うん」
ゆりはイシュタールの大きな右手を握りしめた。
犬の足取りがどうも重いようなのがゆりは気になった。やはり神の国の生き物、この世界でいつまでも元気で動くことなどできないのだろう。
それとも先ほどの変身でかなりの力を使ってしまったのだろうか。
イシュタールも同じ事を考えていたのか、犬の方を見て瞳を曇らせていた。
「神の力が及ぶ場所……どこに行けばいいんだろう……」
ゆりはぼそりとつぶやいた。
「この世界で神の力が及ぶ場所って一体……わんちゃん知ってる？ わけないよね」
犬は重い足取りで歩きながら「くうん」と声を出した。犬は話せないし、そこまで都合よくはいかないだろう。
「もしかして、連れてきてくれたこの場所が、ってことはないでしょうか？」
イシュタールが言った。
「ここが？ ……神様の名前、呼んでみようか」
「……ちょっと危険かもしれないですね。ですがこのまま歩いているだけではしょうがない気もしますし……」
イシュタールは辺りを見回して武器になりそうな物を探したが、何も見当たらなかった。
辺りはますます暗くなっていく。このままでは真っ暗になりそうだ。
この世界にも月や星はあるのだろうか、とゆりは空を見上げた。
今の所、空は暗い雲に覆われていて、星一つ見えはしないが。
道は軽く上に傾斜がついてきた。道をさらに進んでいくと、開けた場所があり、左右にあった崖はぐるりと前方を取り囲んでいた。
「行き止まりですね」
「本当だわ。どうする？」
「…………」
イシュタールは上を見回した。崖は遙か上にそびえている。
ここから引き返すか、それともとどまって神の名を呼んでみるか、それしか選択肢はなさそうだった。
「一か八か神様の名前を呼んでみましょう」
「そうね。そうしてみましょう」
ゆりは両手を胸の前で組んだ。
「神々の長アシュラン、どうか、どうか私たちを元の世界に戻してください！」
イシュタールも目を閉じて同じように祈っていた。
「アシュラン様、どうか、どうか王妃だけでも……」
その時、ゆっくりと流れる真っ黒な雲の切れ目に星が一つ瞬いた。
「ワン」
犬はゆりに近寄って、ゆりの足を右足でかくようにした。
「どうしたの？」
「くうん」
犬は鼻先を上にあげていたが、その時、ゆりもイシュタールも離れた所に突然出現した別の物に気をとられていた。
目の前の空間に炎が揺らめいている。炎はゆりの目の高さほどの位置に浮いていた。
「え、な、何？」
とっさに炎が大きくなり、イシュタールはゆりをかばっていた。
ゆりはイシュタールの体の横から前をみた。
炎を手に立っている人物がいる。
真っ赤な長い髪、赤いローブを着たその人物の顔に、ゆりはどきりとした。
「出た！黒いサラディン……」
肌は茶色かったが、その風貌はサラディンとよく似ていた。
「嫌な名前が聞こえたと思ったら……向こうの人間か。こんな所で何をしている？」
しかも、男はサラディンと声までそっくりではないか。
「彼は、こちらの火の神なんでしょうか」
ゆりの言葉を聞いたイシュタールがつぶやいていた。
「きっとね」
「……お前はもう少しでこちらの人間になるな。そっちの女はまだか、さて、町まで行きたいのなら送ってやらないこともないが……」
サラディンに似た神は、冷ややかな瞳でこちらを見ていた。
「その前に、それは排除しよう」
サラディンに似た神が右手をふっとかざした瞬間、犬の身体が跳ね上がり、「ぎゃうん！」という鳴き声とともに犬の身体は地に落ちていた。
犬の身体は無残にも真っ黒焦げになっていた。
「な、何をするの！？ わんちゃん！」
ゆりはあわてて犬に近寄ったが、犬の身体からは煙があがっていた。
金色の毛並みのおもかげもない。身体に触れると燃えるように熱かった。
「わんちゃん！わんちゃんしっかりして！」
「くう……ん……」
犬は口から舌を出したまま、最後に弱々しい声を出して息絶えてしまった。
「なんということを……」
イシュタールが悲痛な表情で言った。
「ひどいわ！動物にこんなことをするなんて！」
「何がひどい。この世界にはいない動物なのだ。排除するのは当然だろう」
相手は淡々としたものだった。
ゆりはあふれる涙を抑えられなかった。男に対する怒りよりも、自分達のために申し訳ないという気持ちの方が大きかった。
「ごめんね。ごめんね。わんちゃん……あ！」
犬の口から淡い光の塊が出てくるのを見たゆりは、とっさにそれを手で掴んで自分の口に入れた。
実体のないもののようだったが、それはゆりにされるがまま、口の中に入ったように消えてしまった。ゆりは涙を拭いて立ち上がった。
帰ろう。一緒に帰ろうね。わんちゃん……戻ればきっとどうにかなるはず！
「さて、お前達はどうしてほしい？」
「私たちのことはほっておいてくれ」
イシュタールが答えた。
「といっても……この世界で向こうの神の名前は禁句だ。お前達もしや、向こうに帰りたいと思っているのか？
無理なことよ。向こうの神の力はここでは届かない」
「そんなことないわ。必ず、必ず向こうの世界の神様が助けてくれるはずよ！」
ゆりは叫んでいた。
「向こうの神が、何から助けると？どうしてこの世界から逃げたいと思うのだ？
この世界で暮らすのも、そう悪いものではない。いや、いろいろなしがらみから解き放たれて、むしろ自由にさえなれるというのに」
「私たちは向こうでも十分幸せだったわ。だから帰るのよ！」
「お前はそう思っていても男はそうではないだろう」
「え？」
「男はもうすでにかなり染まっているぞ。感じるだろう？闇の王の力を。そして何も言わずとも闇の王の力に惹かれているはずだ」
ゆりはイシュタールの顔を見上げた。イシュタールの顔は強ばっている。どうやら相手の指摘の通りらしい。
「イシュタール……帰るのよ。私と一緒に」
ゆりはイシュタールの腕を握りしめた。
「王妃……わかってます。大丈夫です。今はまだ……」
「たとえ向こうの世界に戻っても、一度ここに来た人間を、向こうの人間は受け入れないだろう。
人間とはそういうものよ。そういうふうにアシュラン自身が仕向けたのだ。この世界は忌むものと、あの男が刷り込んだのだ。無駄だ。あきらめろ」
「あきらめないわ。絶対に！」
「強情な……」
サラディンに似た男は呆れたように両手を広げていた。
「ブレンネン様！」
そのとき、漆黒の翼を持った人間が空からやってきた。
「君たちこんな所まで来てたのか。まだ帰る気でいるのかい？ブレンネン様、殺さないでくださいよ」
やってきたのはゲイルのようだった。いまもブレンネンと呼ばれた男の側には一つ炎があがっている。
その明かりで見ると、ゲイルの顔はクーリーフンと似た美しい顔になっていた。
「だがこやつら、是が非でも帰る気でいるぞ。まったく無知で愚かな人間よ」
ブレンネンは失笑していた。
「何度も言っただろう。どうせ朝までもたないんだから、町に帰った方がいい」
ゲイルが説得するように言った。
「いやよ」
「帰る方法はないんだ」
「あるわ。絶対に！」
そのときブレンネンがふっと鼻で笑っていた。
「一つ、いいことを教えてやろう。機会は確かにあったかもな。先ほど、星が出ていた」
「え？」
「向こうの神でオルガだけがこの世界にも来ることができるのだ。星が瞬いている間だけはな」
「星？星なんて見えなかったわ」
「さっき出ていた。一瞬だったがな」
「あっ！ もしかして……」
ゆりはそのときようやく、先ほど犬が自分に何か訴えていた理由を理解したのだった。
犬は、星が出ていたことをゆりに知らせようとしたのだ。
なんてこと……さっきオルガを呼んでいたら、オルガが助けてくれたかもしれなかったのに！
ゆりの身体はショックのあまりゆらめいて、イシュタールはゆりの身体を抱き留めていた。
「王妃」
「さっき気づいていれば……でも、星ならきっと何度でも出るはずよ！」
ゆりはすぐに気を取り直した。
「そうかもな、おいゲイル、この女はあきらめろ。こんなやっかいな女はいらん」
ブレンネンは横にいるゲイルに言った。
「ですが、女性は貴重です。それに彼女は妊婦ですよ」
「この女は危険だ。なぜかそんな気がする。おい、そこの男、お前が素直に来るのなら、女だけは元の世界に戻してやろうじゃないか」
「え？」
ブレンネンの思いがけない申し出に、イシュタールはかなり動揺していた。
「ブレンネン様！」
ゲイルが咎めるように言った。
「いいじゃないか。こういう面倒な女は返してやればいい。帰らなければよかったと、必ず後悔するだろうよ。
先ほども言ったが、この世界に来た人間を、向こうの人間は決して受け入れない」
前に進もうとしたイシュタールの腕を、ゆりはぎゅっと掴んで止めていた。
「イシュタール、だめよ。騙されないで！」
「ですが、王妃、王妃だけでも、帰ることができるなら」
「一人でなんて帰らないわよ！帰る時は二人一緒よ！」
「王妃、どうか……」
「だめよ！」
ゆりは涙目でイシュタールの腕を握っていた。
帰る時は二人で、そうでなければ何のために来たのかわからない。
ゆりは地面に横たわる犬の死骸に目を向けた。自分達を助けてくれたあの犬のためにも、二人で帰るのだと、ゆりは決意していた。
「帰るのよ。二人で。それにあの男が私を簡単に帰すわけがないわ。あのわんちゃんをあんなに簡単に殺したんだから、あなたを騙して私を殺す気よ」
ゆりはブレンネンの前だったがはっきりと言っていた。
「我が嘘をつくと？」
ブレンネンの目元がさらに鋭くなった。
「君、君って人はなんでそう死に急ぐようなことを言うんだ」
ゲイルは心底困ったような表情だった。
「だってそうでしょ。きっと私を燃やす気よ！」
「今燃やしてもかまわんが？」
二人の周りを炎がとりまいた。
「王妃！」
イシュタールは炎からかばうようにゆりを抱きしめた。
「いいのよイシュタール、これで。火の神サラディン！どうか、私たちに気づいて！私たちを元の世界に戻して！」
ゆりはイシュタールに抱きしめられたまま叫んでいた。
「なっ！」
「狙いはそれか」
驚くゲイルの横で、ブレンネンはむしろ笑っていた。
「確 かに、サラディンは火を渡ることができる神。たとえこの世界の炎でも、その気になれば渡ることができるかもな。
だが、この世界では私の方が力が上だ。それ に、あやつも危険を冒してまで、たかだか二人の人間のためにここまで来るとは思えんがな。
そんな優しげな性格ではなかろう」
ブレンネンは淡々と告げていた。
「ブレンネン様おやめを。殺してしまっては……」
「男よ、お前だけでも助かりたいと願ったらどうだ？ その女と一緒に死ぬなどつまらぬことだぞ」
二人を取り巻いた炎は緩むことはない。
二人の息は次第に苦しくなっていた。しかも、あまりの熱さにゆりを抱きしめていたイシュタールの身体は焼けていた。
激しい痛みよりも、ゆりを巻き込んでしまったことに、イシュタールは涙していた。
「王妃……すいません」
「あきらめないで……ゴホッサラディン、お願いサラディン気づいて！」
ゆりは必死にサラディンに祈っていた。
「サラディン様……どうか王妃だけでも……」
「どうやら他人の意見を聞く気はないらしい。もう殺そう」
炎に包まれた二人を見ながらブレンネンはたんたんと告げた。
「ですからー死んでは何もならないんですってば！」
ゲイルは力一杯言っていた。
「こうなってはしょうがないだろう。もう男も死にそうだし」
「あーもう！君、早く！今のうちに闇の王にすがるんだ！早く！死ぬよ！」
ゲイルは炎の外で叫んでいた。
イシュタールの髪は焼け焦げて、肌も焼けてきていた。それでもイシュタールはしっかりとゆりを抱きしめていた。熱さのあまり、ゆりも気を失いかけていた。
だめなの？ サラディンにも声が届かないの？
イシュタール……ごめんね。助けてあげられなくて……
ゆりは涙を流していた。
王様……ごめん……
『ばかっ！何あきらめてるの！しっかりしなさい！』
そのときどこからか声が聞こえてきた。それは教会にいたゆりの声だった。
教会の同じ部屋にいたハインリヒは、突然ゆりが叫びだしたのでびっくりしていた。
こちらのゆりの脳裏に炎が浮かんでいた。とてつもなく危うい状況だと、黒目のゆりも理解していた。もう一人の気持ちが崩れそうになっているのも。
「絶対に二人で帰るんでしょ！？ あきらめないで！ そうだ。ルティアナならきっと！」
その声を聞いた蛇の目のゆりは、最後の力を振り絞り、ルティアナの名前を呼んでいた。
「ルティアナ！……気づいて！ルティアナー！」
私たちに気づいて！！！
イシュタールの身体がゆりの上に乗っかってきた。すでに意識がなくなっているのだ。
ルティアナ気づいて！！
「サラディン、ルティアナ、お願い二人に気づいて！二人を助けて！」
黒目のゆりも祈っていた。
「やはり来ぬか。信者を見捨てるとは薄情な奴よ。こうまでされて抗うとは、たいした女ではあったが」
「あーあ。もったいないことを……」
ゲイルは残念そうだった。
「まあしょうがない」
ブレンネンが炎を消そうとしたとき、目の前の炎がばっと燃え上がり、一人の男の姿になった。
その炎は、この世界の炎とは違っていた。
「サラディン！」
ブレンネンは忌々しげに男の名前を呼んだ。
「久しぶりだなブレンネン。この二人はもらっていくぞ」
「できるか？」
「できる。今は一人ではない」
サラディンの横に女の子の姿を見たブレンネンの瞳が大きく見開いた。
「貴様、娘ができたのか！」
聖なる炎はブレンネンの炎を凌駕し、その炎とともに二人の姿は消えた。
教会にいた黒目のゆりの身体はぱたりと前に倒れて、ハインリヒがあわてて近寄った。だが、ゆりに触れることができない。
「王妃！王妃！」
ゆりの身体は薄くなり、やがて消えてしまった。
「王妃ー！」
一人残されたハインリヒの声だけが、無情に響いていたのだった。
つづく
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