第36話

熱い……私どうしちゃったのかしら……

そうよ。私は彼女達が帰ってくるのをずっと待っていたのに……

彼女と一人に戻ったんだわ

それにしてもなんて熱いんだろう

死ぬのかな？

イシュタールは……どこ……

王様……ごめん……


手には何の感触も感じられない。

身体が焼けるような熱さに包まれて気を失いかけていたゆりは、次に身体がひんやりとした水の中に落ちていくのを感じた。

熱さから解放されて、ゆりは安堵した。だが、目を開けることも身体を動かすこともできない。

ゆっくりと、身体は水の中に沈んで行き、そしてもう何も考えられなくなった。



長い長い夜が明けた。夜が明けて朝日が昇ったというのに、この重苦しさはどうしたことなのか。

蛇の国の城の一室は、まるで葬式でもあるかのような陰鬱な雰囲気に包まれている。

一睡もできなかったラクシュミは、城に戻ってきたハインリヒの報告を聞いた後、その場にて目を閉じた。

待ちわびた報告ではなかった。予想した中で、最悪の結末である。

王の顔からは、深い慟哭も、まだ見えない。それを感じるとすれば、ゆりとイシュタールが帰らない、と決定的に悟った時だろう。

今はまだ、何が起こったのやらラクシュミ自身、よくわかっていなかったに違いない。

どうやらよくない方向に事態は進んでしまったようである。

ハインリヒの言葉を推測すると、蛇の目のゆりの方がイシュタールを助けに行き、黒目のゆりは留まったのだ。だが、闇の世界にて何かが起きた。

それはどうやらとてもよくないことらしい。そして黒目のゆりまでも消えてしまった。

ラクシュミと向かい合い、いまだハインリヒも座っていたが、どういっていいやらさっぱり言葉が口から出てこなかった。

イシュタールをつれて、二人で元気に戻ってくるに違いない。そうラクシュミも思っていただろうに。ハインリヒでさえ、かなりのショックを受けていた。

これから周りの者達がこれを知ればどうなるか、それを考えると気が重い。

やがてラクシュミが口を開いた。

「皆にどういって説明すればいいだろうか……」

話を振られたハインリヒは、声にならず、口をぱくぱくと動かしていたが、やがて、「そうですね……」と返した。

ごまかせて半日だろう。それ以上は無理である。

「王妃が闇の世界に行ってしまった」と国中の皆に告げるわけにもいかない。

「あちらの世界で生きているのだろうかなあ……」

それさえも、二人にはわからない。

「ばかなやつだ。一国の王妃が家臣のためにその身を犠牲にしようとするなど……」

ラクシュミはため息交じりにつぶやいた。

「ですが、ああいう王妃だからこそ、我らは王妃が好きなんですよ」

ハインリヒが悲しげに告げた。

「そうだな……私は今日は王の間に座りたくない。適当に理由を作ってくれないか。ゆりのことも」

「はあ、わかりました」

「頼む」

ラクシュミはけだるげに背もたれにもたれて上を向いていたので、ハインリヒは頭を下げて部屋を出た。

かなりの難題である。すぐにいい考えも浮かばなかった。


とりあえず、こういう時はご老人に相談かな？　フリットには言っておこう


ハインリヒはフリットに思念を送り、すぐにフリットの屋敷に飛んだのだった。



ラクシュミはしばらくぼんやりといすにもたれて上を向いていた。

心に浮かぶのはゆりに出会ってからこれまでの日々である。


ゆりの幸運はこれまでか？

いや、案外元気に戻ってくるのではないか？


そんな淡い期待を抱きつつ、ゆりとの日々を思い出していると、次第に涙腺がゆるんできた。


いや、今はまだ泣くまい

まだ……


ラクシュミは目元をなでた。


「まったく、私にこんな思いをさせおって」

ラクシュミはぶつくさ言いながら横を向き、しばらくじっとしていたのだった。


その日は午後になってもラクシュミは休憩室に陣取ったまま、外に出てこようとはしなかった。結界は張っていたものの、王の間の番兵達は、不思議に思いながらも

とりあえず扉の外と内に立って王がやってくるのを待っている。

そして扉の前では、蒼白の顔のフリットが、客に王がいないことを告げていた。

そう告げれば当然理由を聞かれる。フリットは、「王の体調が優れないため」と返すが、そう返せば当然相手は心配し、詳しく事情を知ろうとしたがるのである。

将軍達が来た時にはフリットは「事情があるので今日はとりあえず王をそっとしておいてください」と説明にもならない言葉を言っていた。

『イシュタールがいなくなった』という情報は、将軍達の間ではすでに回っていた。そのせいだろうと皆思っていただろう。まさかゆりまでいなくなったとはまだ知らない。

扉の前がフリットと番兵達だけになった時、番兵の一人がフリットに告げた。

「あの、ひどく顔色が悪いですよ。大丈夫ですか？」

フリットは倒れそうなくらい青い顔をしていた。

「さっきの要領で皆を返してくれるか？」

「はい、やります」

「じゃあ頼む」

フリットはその場を離れてゆりの部屋に向かった。部屋の中にはハインリヒにアナスターシャ、シス、ラギ、ロイ、ナナミにミラを含めたゆりの侍女が３人いた。

皆暗い雰囲気である。ロイでさえ初めて見るような暗い表情だった。

「お父さんは王の間に来た？」

ラギが聞き、フリットは「いいえ」と答えた。

「ミカエルは倒れたって本当？」

今度はアナスターシャが聞いた。

「ええ、本当です」

「人ってショックを受けると本当に倒れるんだ……」

アナスターシャはつぶやいていた。

ハインリヒは部屋にいる面々には「王妃がイシュタールを迎えに行ってしまった」と説明していた。そのせいでラクシュミがふせいでいると皆思っている。

ラギなどは「どうやって行ったの？」と聞いていたが、ハインリヒも知らないことだった。

「ああ、お兄さんを帰すんじゃなかったなあ」

ロイは机に伏してぼやいていた。

皆やる気がでないままぼんやりしていると、ゆりの部屋をシャナーンがやってきた。

「皆さん何してるんですか？　王妃は？」

どうやらまだ何も知らないらしい。

（面倒なやつがやってきたなあ……）

フリットとハインリヒは同じことを思っていたのだった。


午後になってもラクシュミはやる気が出ず、ついには酒をちびちびと飲みだしていた。

今日だけは酒で酔いたいものだ、と思いながら。

部屋の外では王の侍女が行ったりきたりしているが、ラクシュミは何を食べる気もまだないようである。

ザメハとフレイがそろってやってきて、ラクシュミはようやく部屋に他人を入れた。

「王、今日はもう寝室で休まれたらどうですか」

フレイが案じるように言った。

「そうですぞ。そうしてくだされ」

とザメハも続いた。

「とても寝る気になれない。二人も飲め」

「はあ」

二人ともゆりのことは口に出さず、一人で飲ませるよりは、と３人で酒を飲みだした。

３人とも沈黙し、フレイもザメハもたとえ高級な酒を飲んでいても酒の味もわからないような状況であった。

「そういえばミカエルは静かだな。ミカエルも知ったのかな」

ラクシュミが言い出した。

「ミカエルは……事情を聞いて臥せってますよ」

フレイが答えた。

「そうなのか？シャナーンあたりも悲鳴をあげそうだな」

「はあ……」

そのシャナーンは部屋でゆりがイシュタールを追ったと聞いてそのまま意識を失い、アナスターシャには「人が急に倒れる所を初めてみた」などと言われていたが、

３人は知らないことである。


フレイとザメハはラクシュミの後ろの空間が突然きらきら輝くのを目に留めて、目をこすっていた。

「どうしたんだ？」

「いえ、なんだか王の後ろに輝くものがあるんですが……」

「やはりそうですか？気のせいではないですな？」

フレイの言葉にザメハはほっとしたように言った。

ラクシュミが後ろを向いた。ソファの後ろに確かにきらきら輝く塊がある。

「ん？」

それは突然赤ん坊の姿に変わり、ラクシュミはわっと腰を浮かせていた。

「わっ！翼がある！」

「本当に見えますぞ！」

「なんだ？」

「こんにちは」

赤ん坊がしゃべったので３人はさらに驚いた。赤ん坊は宙に浮いている。裸ではなくちゃんと薄い黄色のズボンにチェニックを着ていた。

金色のくるくるとした髪のなんとも愛くるしい姿である。

「あ、クーリーフンか？」

ラクシュミがはっと言い出した。

「そうです。伝令にきましたよ。僕の役目じゃないんですがね。おめでとうございます。二人は神の国についたよ」

「「「え？」」」

３人とも立ったまま目を丸くしていた。

「だけど、身体が治るのにちょっと時間がかかるので、しばらく神の国で預かります。だから、待っててね。それじゃ」

クーリーフンはさっさと飛んでいこうとしたので、ラクシュミはあわてて目の前に立って止めていた。

「ま、待った。どのくらいで帰ってくるんだ？」

「さあ、わかりません」

「絶対に帰ってくるんだな？」

「そうですよ。神は嘘をつかない。もういい？」

「あ、ああ」

クーリーフンは横を飛んで行き、壁をすりぬけてしまった。

「……今の夢じゃないな？」

ラクシュミは確認するように二人に聞いた。目は輝いている。二人は同時にうなずいた。

「そうか。よかった」

「よかったですな」

「本当に……」

二人ともついにむせび泣き、ラクシュミはようやく晴れ晴れした気分で休憩室を後にしたのだった。


こうして城の面々は悲しんだり喜んだりと、この日は精神的に落差の激しい日になったのだった。



つづく


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