第38話

ゆりはたまに目を覚ますようになっていた。目が覚めてもしばらくはぼんやりとしていたが、今はわりと頭の中がはっきりしているし、目の前の

景色もよく見える。

身体の感触で分かるのは、自分が水の中に浮かんでいるということである。

常に全身が水の中に浸かっているのだ。目を覚ましている時は、身体が水の上に半分ほど浮かんでいるようである。

こんなに水に浸かっていると全身ふやけそうだが、今の所手も足も、ふやけてふにゃふにゃになっていることもなさそうだ。

身体は少ししか動かせない。起き上がることも無理そうだった。

どうやらこれはただの水ではなく、治癒の力がある水のようだとゆりは考えていた。水の中に沈んでもおぼれないのだから、やはり

特殊な水なのだろう。そんなに広くはない。小さな泉程度の広さのようだ。ここには自分一人だ。イシュタールが横にいる気配もない。


私の身体、実は結構怪我とかしてるのかな？


身体は動かせないが痛みはない。大声を出す元気もまだない。

上に見えるのは青い空と白い雲、時々鳥の姿も見えた。


誰か来ないかな〜


そんなことを思っていたら誰かがやってきた。見知った顔だったのでゆりはちょっとうれしかった。

肩にかかる程度の金色の髪、少々神経質そうな顔立ちの伝令神グレンが宙に浮いてこちらを見下ろしていた。

目が合ったので思わずゆりは「グレン」と口に出していた。声ははっきりとした声ではなく、少々ぼやけていたのだが、

グレンはえっと驚いた顔をした。そして奇妙そうな顔でこちらを見ている。


……あれ？　なんか驚いてるかも……名前呼んじゃまずかったかな……ここは必殺寝たふりだ


ゆりは目を閉じた。



一方宙に浮いているグレンは、かなり腑に落ちない表情でいた。しばらく上でゆりを眺めていると「何をしてるの？」

と声をかけられた。空を近づいてくるのは青年版クーリーフンだった。

「クーリーフン様、彼女目を覚ましてましたよ」

グレンがゆりの上から離れて言った。

「え？　本当？　気づいたの？」

クーリーフンはうれしそうだ。

「彼女……私の名前を呼んだんです」

グレンが神妙な表情で言うと、クーリーフンは「そう」とあっさり受け流した。

「それじゃ」

「ちょっと待ってください」

グレンは去って行こうとしたクーリーフンの腕をつかんでいた。

「彼女、私の名前を知ってたんですよ？」

「だから？」

「私の顔を知る人間なんてそうはいないんですよ。なぜ彼女が知ってるんです」

「いや、僕に聞かれても……グレン、実は結構有名なんじゃない？」

クーリーフンは愛らしい笑みを浮かべていった。

「聖地の人間ならいざ知らず、彼女は……」

「聞き間違いなんじゃない？　彼女病み上がりだから、寝ぼけて何か違う言葉を言ったのかもよ」

「……寝ぼけて？」

「それじゃねー」

クーリーフンは飛んで行ってしまった。

「寝ぼけて……グ……グワ……グレ……？」

グレンは首をかしげながら飛んで行ったのだった。


目を閉じたゆりはそのまま眠ってしまっていたが、ちょんちょんとつつかれて再び目を開けた。

目の前にはクーリーフンの美しい顔があって、ゆりは「わっ」と驚いて水の中に沈んでしまった。

「あっ！　大丈夫？」

クーリーフンがあわてて水の中に手を入れてゆりの頭に手をあてて引き上げていた。

ゆりの心臓はばくばく音を立てていた。なぜかクーリーフンの顔を見るとどきどきする。うれしいというよりも怖いほうのどきどきだったので

ゆりは自分でもわけが分からなかった。

「かなり元気になったみたい。よかったわ」

優しい女性の声が聞こえてきた。

「ガーベラ？」

クーリーフンに顔を支えられて横を見ると、泉のふちにガーベラが座っていた。

金色の豪華な巻き毛の麗しい女神を見たゆりの瞳から、涙が流れ落ちた。

「ガーベラ……」

ゆりはなんだか安心して泣いていた。

「うんうん。よくがんばったわね」

ガーベラもなんだかしんみりしていた。

「本当によく帰ってきてくれたわ」

「私も、本当にうれしい。所でイシュタールは？　ここにいないの？」

「実は、彼はサラディンの所にいるの」

「サラディンの所？」

「身体を貸してあげるから行ってらっしゃい」

「いいの？」

「ええ。ただ、約束して。あなたはガーベラの時は神なんだから、あっちのことはもう考えちゃだめよ」

「あっち、はい、わかりました」

ゆりはあっちというのが闇の世界のことだとすぐ理解した。

「それからクーリーフンと行動してちょうだいね。あなたはまたここに帰ってこなきゃならないから」

「はい」

「じゃあいらっしゃい」

ゆりは目を閉じた。

そしてガーベラの中へと入ったのだった。

「私はガーベラ〜愛欲の女神ガ〜ベラ〜」

ゆりはくるりと回って微笑んだ。

「あー自由に身体が動くっていいなあ」

ゆりは動けるのがうれしくて、足を上げたり両手を動かしたりしている。泉のふちで自分の身体をのぞいてみた。

白い服を着て水の中に横たわっている自分、見た目傷などはないように見える。

「さて、それじゃサラディンの所に行きましょう」

ゆりはクーリーフンに言った。

「今行くとショックを受けるかもしれないけど、本当に行く？」

クーリーフンが真面目な顔で言い出した。

「え？　なあに、その意味深な言葉」

ゆりはたじろいだ。

「彼は結構大事になってるんだよね」

「え？」

「まあ見た方が早いか。行ってもいいよ」

「う、うん」

ゆりはクーリーフンの手を握ってサラディンの元に飛んだ。


一体イシュタールの身に何が起こってるんだろう？


火の神殿の外にやってきたゆりは、クーリーフンと一緒に神殿の中に入って行った。

そしていつもサラディンがいる広間の中に入ったゆりは、つぼから燃え上がる炎を見て、「わっ」とのけぞったまま口を開けて固まっていた。

「あ……あわわわわ……」

ゆりは口を開けたままつぼに近づいた。なんとつぼの上の炎の中に、人がひざをかかえてうずくまっていた。男だ。髪はなく、裸だった。

結構がっしりした体格の男性のようだ。

「あ、前よりだいぶましになってる。よかった」

クーリーフンがほっとしたように言った。

「あれ？　もしかして、これがイシュタール？」

ゆりがクーリーフンに聞くと、クーリーフンがうなずいて「そうだよ」と言った。

「え？　なんで彼だけここに入ってるの？」

「それがね」

クーリーフンが言いかけたとき、サラディンが広間にやってきた。サラディンを見た時、ゆりはまたどきりとしていた。

「ガーベラ、具合が悪いのは治ったのか？」

サラディンはゆりを見て言った。

「私ですか？　はい、もうすっかり？」

ゆりは（あれ？ガーベラ、具合悪かったのかな？）と思いつつ言った。

サラディンはつぼに近づいてきた。

「うーん。もうちょっと強くするか」

サラディンは手をかざしてつぼの炎を強めていた。イシュタールを包む炎がでかくなった。


ひーやめてーそれ以上焼かないでー！！！


ゆりは頬に手をあてて思わず心の中で絶叫していた。

「サラディン様、この人本当に人間として生活できるんでしょうね。僕、『無事戻ります』って蛇の国の王様に言っちゃいましたからね」

クーリーフンが言った。

「大丈夫だろう。たぶん」

とサラディン。

「たぶんじゃ困りますよ。神様が嘘をつくわけにはいかないんですから」

「…………」

サラディンはどこか物憂げな表情だった。

「ど、どうかしたの？　所でなんでこの人は炎の中にいるの？」

ゆりはどきどきして聞いた。

「男はもう手がほどこしようがないほどだったからな…………」

サラディンはため息をついていたのでゆりは不安になった。

「続きは？」

「…………」

「続き……」

サラディンの様子がどうも変だ。小難しい表情でため息をついたりうなだれたりしている。

「イシュタールは本当に大丈夫なの？　なんかやばそうじゃない」

ゆりは小声でクーリーフンに聞いた。

「いや、サラディンは別のことで悩んでるだけだよ。実は、あっちにいる二人を見つけたのはルティアナだったんだ。それで悩んでるんだよ」

「え？　そうなの？　見つけたのルティアナなの？」

ゆりの言葉にサラディンはぐさりと剣でも刺されたような顔をしていた。

「サラディンはまったく分からなかったの？」

「あの時、あっちの国で火があがっていたのが１００箇所以上もあったんだ。それでだなあ」

「分からなかったんだ」

「でもかすかに声は聞こえた。そして助ける気もあった」

「でもわからなかったんだ？」

ゆりは苛める気はなかったのだが、ついでかい声になっていた。

「ルティアナが二人を見つけたの？」

「なぜルティアナが先に見つけたのか……」


ちなみに同じことをサラディンがアシュランに言ってみると、アシュランはこともなげに、

『わかった。世代交代だ。ルティアナが大人になったらお前と入れ替わるんじゃないのか？』

と意地悪なことをいい、サラディンはへこんでいたのだった。


「そういえば、ルティアナは変なことを言ってたな。あの時ガーベラの声が聞こえたって。それも謎だ」

「え？　私の声？」

ゆりはまたどきりとした。

「ガーベラがあっちにいるわけないし、実際いなかったし……考えてもわからん。まあそれで二人の場所が分かったんだが」

「勘違いじゃない？　ほら、女の子の方が感受性が強いから。ねえ、クーリーフン」

「えっ。まあ、そうだね。別に気にすることもないよ。たまたまだよ。たまたま」

突然話を振られたクーリーフンはあわてて言っていた。

「うーん……」

サラディンはあごに手をあてて考え込んでいる。

「所でこの人はどうして火で燃やされてるの？」

ゆりはそっちが気になってしょうがなかった。

「女性のやけどはまだ軽かったが、この男はもう死にかけてたからな。元通りの人間にするのはかなり無理そうだったので、

ちょっと手荒だが妖精にすることにした。それで聖なる火で焼き続けているんだ」

「え？　妖精」

ゆりは目を真ん丸くしていた。

「僕が見た時、彼はひどい状態だったんだよ。結構綺麗に戻ったよ」

クーリーフンが言った。

「妖精になっても人間界に戻っていいの？」

「正確には半分妖精で半分人間ってことになるがな」

「そういう人っているの？」

ゆりはまん丸の目のままクーリーフンに聞いた。

「あまりいないよ。特別だよ。つまり、信仰の強い人間に対する特別な計らいってことだよ。誰もがなれないよ」

「へー……それで、普通に暮らせるの？　子供を産ませたりできるの？」

「わからん。最後の仕上げはアシュランがするだろう。ま、もうしばらくは焼き続けよう」

ゆりは火の中にいるイシュタールを見つめた。イシュタールの魂は眠っているのだろうか。身体はぴくりとも動かなかった。


がんばって……とにかく生きて帰ることができるなら、人間だろうが妖精だろうが、まあいいかな


ゆりは死ぬよりはましと、明るくそんなことを思った。

「それじゃ行こう」

クーリーフンに促されて、ゆりはサラディンと別れた。

「半分妖精……それってどうなるんだろうね」

ゆりがつぶやくように言った。

「まあつまり彼には二人も主ができちゃうってことだね。国王とサラディン。サラディンにもこき使われるかもね」

クーリーフンは冗談交じりに言った。

「へーははは、まあ、それはしょうがないかな。そうだ。ルティアナをほめてあげなきゃ、神殿にいるかな？」

そう言っていたら向こうからルティアナがやってきたので、ゆりは笑顔でルティアナに近づいた。

「ルティアナ〜いい子いい子。本当にいい子〜」

ゆりはルティアナを抱きしめてなでなでしていたので、ルティアナは不思議そうな顔をしていた。

「お母さんどうしたの？」

「ルティアナがかわいくて」

「？？？」

「とにかくいい子。ほんとかわいい」

ゆりは思いっきりルティアナを抱きしめていたのでルティアナは苦しそうにしていた。

「それじゃそろそろ行こう。ルティアナまたね」

クーリーフンは長居はまずいと思ったのか、ゆりを引っ張り、連れて行った。

「またね〜また一緒にお風呂で歌おうね〜」

「はーい！」

ゆりは大きく手を振り火の神殿を出た。

「ルティアナと結構一緒に歌ったおかげかも？　よかった。歌ってて」

ルティアナは子供達の中では仲良くした方なので、それで気づいてくれたのかもしれない、とゆりは思った。

「さて、そろそろ戻ろうか」

「うん、あ、ハロルドもかなり心配してくれたんでしょ？　顔を見せなくてもいいのかな」

「あ、そうだね。ちょっと会っておこうか」

「じゃあ飛ぶね」

ゆりはハロルドの元に飛んだ。


ハロルドは珍しく丘に寝そべっていた。昼寝でもしているのだろうか。

ゆりがそっと近づくと、「きゃんきゃん」と子犬の声が聞こえてきた。

足元に子犬が近づいてきて、ゆりは子犬を抱き上げた。

「かわいいー！」

犬は舌を出してしっぽを振り振りしている。

「ガーベラ」

ハロルドが気づいて身体を起こした。

「あれ？　この子犬はひょっとしてあの犬？」

と聞いたのはクーリーフンだった。

「ああ、そうだ」

とハロルド。

「あの犬って？」

ゆりが聞いた。

「でかい犬がいたのに小さく変わってる」

「え？　あの綺麗な犬？　なんで小さくなったの？」

ゆりは言ってから（あれ？　何かもやもやっとするわ……）と思っていた。闇の国での記憶がないので、犬といた記憶がなかった。

「さあな。まあ、いいだろう。どうでも」

ハロルドは立ち上がって適当に言っていた。

「元気になったのか。よかったな」

「ありがとう。心配かけてごめんね。それからジェイクを来させてくれたんでしょ？」

「ああ。あいつ、なんとかなったようだな」

「すっかりロイがなついてたわよ」

「まったく……お前達はそろって考えなしなんだからな。呆れるばかりだ。こんなことはもうないようにしてくれ」

「はーい」

「きゃんきゃん」

犬が暴れだしたのでゆりは犬を草の上に下ろした。犬は３人の周りを走り回っていた。


丘の上はいい風が吹いていた。

「じゃあそろそろ行こう」

クーリーフンが促した。

「うん。それじゃちょっと」

ゆりはハロルドに近づいて、思いっきり背伸びをした。

「なんだ？」

「ほっぺにちゅーしてあげようと思って」

「ほっぺ？　こっちの方がいい」

ハロルドが顔を寄せてきて、唇を覆われた。

それから濃厚な口付けに変わってしまい、かたわらにいたクーリーフンはやれやれと横を向いていた。

ようやく解放されたゆりはちょっとふらふらになっていた。

「そ、それじゃ、本当にありがとう」

「しばらくおとなしくしてろよ」

「はい」

ゆりはクーリーフンに抱っこされて、飛んで行ったのだった。


ハロルドは立ったまま二人を見送っていた。


反対方向から一頭のペガサスが飛翔してきた。キュリアとジェイクが乗っている。

二人が地上に降りると、子犬は尻尾を振りながらキュリアに近づいて行った。

「きゃんきゃん」

「ねえ、お父さん、この子、名前をつけようよ」

キュリアが子犬をなでながら言い出した。

「人間は動物に名前をつけて可愛がったりするんでしょ？　カサンドラ様が言ってたよ」

「じゃあキュリアがつけたらいい」

「いいの？　うーんと、じゃあなんにしようかなあ」

キュリアは腕を組んで考えだした。

「ポン、プン、ピン……」

なんだか変な名前になりそうだと、ハロルドとジェイクは思った。

「さっき癒しの泉にいる女性を見てきましたよ。だいぶ回復したようですね」

ジェイクが突然言い出した。

「そうか」

「よかったですね。お父さん」

ジェイクは微笑んでいる。

「なんで私に言う？」

「なんとなくです」

「私は何も関係ないだろ？」

「どうですかねえ……」

ジェイクは何か言いたげである。今回のことではジェイクもいろいろとしたし、すべてうやむやにするというのは無理そうだ。

「何の話？」

キュリアが聞いた。

「さあな、ほら行け」

ハロルドがせかし、キュリアは子犬を抱いて、ジェイクとともに再びペガサスに乗って飛翔した。


「やれやれだ……早くここを出て行ってもらわないと、面倒なことになりそうだ……」

ハロルドはぼそりとつぶやいて、別のペガサスを呼び、自分も飛び去ったのだった。



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