第39話

ほどんど眠っていたゆりだったが、目覚めている時間が長くなっていた。といっても、朝に一時間ほど、夕方に一時間ほどといった具合で

朝から晩まで起きていることはまだない。目覚めている時間が長いと、ついいろいろなことを考えてしまう。


王様心配してるだろうな……帰ったら大説教が待ってるかも……


皆自分が無事なことは知っているだろうが、ここにきてどれほどの時間が流れているのかよくわからない。今はまだ身体が自由には

動かせないし、もうしばらくここにいることになるのだろう。帰る頃にはどれほどの時が経っているやらである。


この泉は木に囲まれていた。泉のふちには綺麗な花も咲いている。妖精が遠巻きに自分を見ているのに気づくこともある。

昨日は突然横にラクアがいたのでびっくりしたゆりだった。

「元気になったんだ。よかったね」

その時ラクアはニコニコ笑顔でそう言ってくれた。

「ありがとうございます。ラクア様」

ゆりもにこりと笑ってそう返した。ラクアは相変わらず、清潔感のある涼しげな美男子である。そして声も優しげである。

アシュランほどではないが金色の光に包まれていて、その瞳も澄んだ泉のように美しい。

上は青いチュニック、下も青系のズボン姿で、首周りには青系の紐で結われたような飾りをつけていた。

額にも水色の帯をつけている。

ラクアは突然名前を言われたことにはあまり驚かなかったようだ。ラクアは人間には良く知られた神だし、青い水がめを持っているので

それで気づいてもおかしくはないと思ったのかもしれない。

「心配してくれたんですか？」

「君は今有名人だからね。みんな気にしてるよ」

「そうなんですか？　あの、実は気になってることがあるんですけど、いいですか？」

ゆりはガーベラではなかったので、この際日ごろの疑問をぶつけてみることにした。

「なに？」

「その水がめの水って、おいしいんですか？」

ラクアは自分が持っている水がめを見て、目をぱちくりさせ、やがて「ははは」と笑い出した。

「これ？　飲んでみたい」

「はい」

「いいよ。はい」

どうやって飲むのかと思っていたら、ラクアが手をかざすと水がめの中から出てきた水の塊がゆりの口の中に入ってきた。

ゆりは驚いたが、その塊をごくりと飲み干した。

「お、おいしい！　冷たくてさわやかでおいしいー！」

身体の中が綺麗になる感じとでもいうのだろうか。ゆりはあまりの清涼感にふわんとした顔をしていた。

「君は面白い人間だね。それじゃ」

「ありがとうございまーす」

ラクアはそのまま消えてしまい、ゆりはしばしまったりとした気分ですごしたのだった。

それが昨日のことである。


またあの水が飲みたいなあ。毎日飲んでたら、きっと肌がとても綺麗になれそうだわ……

肌どころか心まで綺麗になれちゃいそう


などと思っていたら、金色のふわふわしたものが飛んでくるのが見えた。背中に白い翼がついた子供、虹の女神サーラである。

一人かな？　と思っていたら、視界に派手な髪をした大きな翼を持った男が見えた。虹の神ラーズである。

「ガーベラ！」

サーラの声が聞こえてきて、ゆりは面倒そうだな、と目を閉じた。

「ガーベラ、ガーベラ！」

サーラはどんどん近づいてきて、ゆりの顔をちょんちょんつついていた。

「ガーベラ！」

「おいおい、あんまりしちゃだめだよ」

ラーズの声が聞こえる。

やがて鼻に何かが触れた。

鼻のすぐ近くで何かが動いている。


む、むずい……むず……


「はっくしょん！」

ゆりは我慢できなくなりくしゃみをしてしまった。

目を開くと、うれしそうな顔のサーラがいた。手には花を持っている。どうやらそれでくすぐられたようだ。

「悪い子」

「えへへ、ガーベラおきた」

横にラーズの顔が見えて、ゆりはすぐに寝た振りをしたが、またくすぐられてしまった。

「む、むずいってば！」

目を開けると、ラーズが花を持っているのが見えた。

「やっぱりおきてた。さっき顔を見て寝たから、あれ？　と思ったんだよ」

「…………」

どうやらばれていたようだ。

「ガーベラ」

サーラは相変わらずゆりをガーベラだと言っている。

「まさかこんなことになってるのが君だとは驚いたよ。大変だったね」

「はい……」

「ガーベラ」

（もういいってば）

しつこく言うサーラにそう思ったが、ゆりは黙っていた。今サーラはゆりの身体の上におしりをのっけていたので、ラーズがサーラの身体を

抱き上げていた。ゆりはラーズの顔を見上げていた。


目がちかちかするわーやっぱり派手だわー病み上がりにはきついわー、でも好きだけど


などとゆりは思っていた。ラーズの色彩は好きだが、今のゆりには鮮やか過ぎるようだ。

「ガーベラも気にしてたようだし」

「ガーベラ」

サーラはゆりを差していた。

（指を差すなー！）

ゆりは心の中で絶叫していたが、笑みを浮かべていた。

「サーラはどうしても君をガーベラだと言い張るんだよなあ」

ラーズはちょっと不思議顔だ。

「そんなに顔が似てるかしら」

ゆりは冗談交じりに言ってみた。

「似てない。でもガーベラ」

サーラは憎らしくもそんなことをいい、ゆりの顔は引きつっていた。


この子完璧に気づいてるわ。やっかいだわ……しかも前より語彙が増えてるし……


「心は、そっくりってことね」

とゆりは誤魔化したが、ラーズはちょっと微妙な感じでゆりを見ていた。ラーズは宙に浮いているので、背中の翼は動いている。

（一度この姿のまま、ラーズに抱っこされて空を飛んでみたいものだ）、とゆりは思った。

「もしかして、女性みんなにガーベラって言ってるとか？」

「いや、そんなことないよ」

やっぱり気づいて言ってるようだ。

「ガーベラ、なんでねてるの？」

サーラが聞いた。

「いろいろあるんだよ」

とラーズ。

「ぬれぬれになるよ」

「だねえ」

「それじゃそろそろ行こう」

ラーズが言ってゆりはほっとした。

「あの、クーリーフンをみかけたら、来て欲しいって伝えてくれますか？」

「クーリーフン？　いいよ。それじゃ」

ラーズはサーラを抱っこしたまま飛んで行った。


……クーリーフンが来るまで起きていられるかなあ？


ゆりは気配を感じて右の方が向いた。（なんだか嫌な予感……）、と思っていたら近づいてきたのはハロルドだった。

しかも険しい表情である。


げげげ……


ゆりの左目は蛇の目に変わってしまった。

（あ、ずるーい……）

蛇の目のゆりはハロルドをちらりと見て、

「ひょっとして、おお、なんてステキな美女が寝ているんだろう、とか思ってます？」

おちゃらけて聞いたみた。

「ぜーんぜん思ってない」

ハロルドは表情を変えずに言った。

「ラーズと仲良さげに話してたな。何話してたんだ？」

「あ、嫉妬ですか？　うふふ」

「違うわ！　お前変なこと言うんじゃないぞ。神とあんまり話すんじゃない！」

ハロルドはつい声を荒げていた。

「だって、いろいろな神様が来るんですもん。せっかくだからお話したいしー」

「そのうちボロが出てもしらんぞ」

（もうサーラにばれてます）などといおうものなら睨まれるどころじゃすまないので、ゆりはそれは言えなかった。

「ステキなハロルド様、私いつになったら帰れるんでしょうか」

ゆりはヨイショしながら聞いてみた。

「さあな。だが男はしばらくかかるだろうし、先に元気になったらお前だけ帰ることになるぞ」

「妖精になるって時間がかかるんですね」

「半妖精だからな。しかも火の妖精だし。完全な妖精になると人間としては暮らせないからな」

「そうですよね。私なら、お花の妖精になりたいかな？　なれますかね」

「ムリ」

ハロルドには一言で返されてしまった。

「つれない……」

「それでクーリーフンに何を頼む気なんだ」

どうやら先ほどの会話、聞いていたようだ。

「あ、もう眠いわ。起きていられないわ。おやすみなさい。ハロルド様」

ゆりは言いながら目を閉じてしまった。

「この女は……まったくふざけた女だ……」

ハロルドはぶつぶつ言いながら去って行ったのだった。



人間界では、ゆりとイシュタールが消えてから一月以上が経過していた。

もちろん城の皆はゆりとイシュタールの帰還を待ち遠しく思っている。暦は１２の月に入っていた。

蛇の国は梅雨に入り、皆いつも以上にうっとおしく思いながら日々をすごしている。


この日は朝から晴れていたが、どんよりとした気分で過ごしていたヴィラの元に、ラクシュミから「後で城に来るように」との

思念が来た。

支度をしたヴィラが城に向かうと、王の間の前にいる番兵達が、二人とも涙ぐんでいた。

それを見たヴィラの眉が寄っていた。

「何かあったのか？」

「え、いえ、どうぞ」

番兵は涙をふきながら門を開けた。ヴィラは王の間に入り、たじろいだ。

椅子に座っているラクシュミの横で、ジュノーとミカエル、シャナーンが泣いている。ハインリヒはなんだかしんみりした表情をしていた。

そして王の間の中にいた番兵達も、涙ぐんでいた。

王の間は湿っぽい雰囲気に包まれていた。


まさか王妃に何かあったのかな……


「おはようございます。王」

ヴィラは恐る恐るラクシュミに近づいた。ラクシュミは泣いてはいないし、不機嫌そうでもなかったのでヴィラはちょっとほっとした。

「何があったんですか？」

「ああ、ミカエル、よこせ」

ミカエルは持っていたものをヴィラに渡した。それは、手の平ほどの大きなピンクの巻貝だった。

ラクシュミが耳をさしたので、ヴィラはわけもわからずそれを耳にあてて、「あっ」と声を発していた。

貝殻から女性の声が聞こえる。それはとても懐かしく、夢にまで見るゆりの声であった。

『王様、みんな、元気にしてる？　心配かけてごめんね。私は元気よ。もう少ししたらイシュタールと帰るから、待っててね』

貝殻からはそんな声が聞こえてきた。

「王妃……」

ヴィラは貝殻を少し離して、耳にあてると、もう一度同じ言葉が聞こえてきた。どうやら声は何度聞いても同じのようだ。

ヴィラも同じようにしんみりしてきた。

「朝、この椅子の上においてあったんだ。なんだかゆりの声を聞いたらほっとした」

「本当ですね」

ミカエルがヴィラから貝殻を奪って耳に当てた。

「王妃……」

「私にも貸してくださいよ」

「そうですよ。独り占めはずるいですよ」

シャナーンとジュノーが抗議の声をあげている。

王の間にミルキダスとフリットがやってきて、二人もヴィラと同じように何事かとびびっていた。

「早く王妃の顔が見たいですね」

ヴィラが笑みを浮かべて言った。

「そうだな。帰ったら、まずは説教しなきゃな」

ラクシュミは真面目な顔で言っていた。やはりそれは避けては通れないようだ。

フリットとミルキダスも同じように貝殻を耳にあてて驚き、ミルキダスは号泣していた。

「王妃、元気そうでよかった」

「お子様達はもう聞いたんですか？」

フリットが涙ぐんで聞いた。

「ああ」

「貝殻もらってもいいです？」

ミカエルが聞いて、男達が声をそろえて「だめ」と言っていた。

「ハザークの所に持っていってくれ」

「私が持っていきましょう」

フリットが貝殻を受け取って移動した。

「だめですかあ？　王妃の声をずっと聞いていたいのに……」

ミカエルはしつこく言っていた。

「私だってほしいんですよ。一人だけもらうなんてずるいです」

とシャナーン。

「そうですよ。お子様達だって毎日王妃の声が聞きたいですよ」

とジュノーが言った。

「ううう、王妃……」

一人声を出して泣いているミルキダスに、ヴィラは「そこまで泣かなくても……」と苦笑していた。

「そうだ。ジュメやユリウスにも聞かせてあげましょう」

「そうだな。まあヴィクター達も聞けば喜ぶだろうし、適当にまわしてくれ、ヴィラ」

「はい」

ラクシュミはミカエルの顔を見てヴィラと言った。

「私が回しますよ」

とミカエルが言うと、

「お前は持っていきそうだからだめ」

とラクシュミは返した。

「ひどい」

「まあ、そのうち本物の声が聞けるさ。今年中だといいがなあ」

「そうですねえ」

城の中に笑顔が戻るのはいつの日か、男達はしんみりした表情のまま王の間を去ったのだった。



「持っていってきたよー」

泉にいるゆりの元にクーリーフンがやってきた。ゆりがクーリーフンに伝言貝のことを頼んだのだった。

「ありがとうークーリーフン」

「ハロルドに問い詰められたよ。ハロルドに頼めばいいのに」

クーリーフンはかわいらしく唇を尖らせている。今は青年になっていた。

「だって、天下の軍神にそんなこと頼むのは気が引けて……」

「まあハロルドに頼んでも、僕が持っていくことになるんだろうけど……」

「あれから見ないけどガーベラは元気？」

「元気だよ。あなたがあんなことになってからちょっと影響を受けて具合を崩してたんだよ。今はかなり戻ったよ」

「そうなの？　なんだか悪いことしちゃったなあ」

「いや、あれは自業自得だからしょうがない。それじゃまたくるよ」

「ありがとうねー」

クーリーフンは飛んで行った。



王様、みんな喜んでくれたかなあ……


ゆりがぼんやりしていると、空を近づいてくるグレンの姿が見えた。

グレンは下に下りてきたので、

「こんにちは、神様」

とゆりはいってみた。

「こんにちは」

グレンは返してくれた。

「神の国って雨降らないんですか？　雨が降ったら大変だなって思ってたんですけど」

ゆりは野ざらしも同然なので、雨が降ったらかなり大変そうだ。

「局地的には降りますよ」

「もしかして、雨よりも雷の方が多いですか？　そういう噂ですが」

ゆりがそう聞くと、グレンは面食らったような顔をして、やがて「そうですね」と言った。

ゆりの言わんとしたことを察したようだ。

「確かに多いですよ。我が主は神の国を発展させることに熱心ですので」

（物は言いようだ）、とゆりは思ったが、もちろん言わなかった。

「それって重要なことですもんね」

「そうですよ。重要なことです。ですが、ヒルデリア様には言わないほうがいいですよ」

「はい」

ゆりは深くうなずいた。

「それではこれで」

「さようなら」

グレンは飛んで行った。


日が翳ってきた。今日は結構長く起きていたようだ。


そろそろ夜だけでも移動してくれないかなあ……夜一人ってのは寂しい

いや、イシュタールもがんばってるんだから私もがんばろう


リーンリーンと虫の声を聞きながらゆりは目を閉じた。

泉の底からぼこぼこと光る泡が浮いてきてゆりの身体を取り囲んだ。

ゆりの身体は泉の中へと落ちて行き、光る泡に包まれたのだった。


つづく

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