第42話

ゆりはグレンに連れられて雲の上の神殿にやってきた。まさかこの姿のままここに来る日が来ようとは。

神殿の中に入っても眩しいほどで、ゆりは目を細めていた。

グレンから離れて歩こうとしたが、どうにも足元が危なっかしく、グレンが支えてくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ」

入り口を入って行き、開けた場所に、ガーベラとラーズが立っていた。

ゆりはガーベラの微笑みを見て、泣きそうになっていた。

「とうとう帰る日がきたわね。よくがんばったわ。おめでとう」

「ありがとうございます」


これもあなたのおかげだわ。ありがとう


ゆりは心の中でお礼を言った。

「これ、贈り物だ。あなたに幸運が訪れるように」

ラーズがゆりの右手首に綺麗なひもを結んでくれた。

「ありがとうございます。綺麗ですね」

七色の紐を綺麗に組み合わせた２センチほどの幅の紐だった。

「ラーズがしてる飾りは全部自分が作ったものなのよ」

「そうなんですか」

「帰ってからもがんばって」

「はい」

「それでは行きましょう」

ゆりは手を振る二人に目を留めながらグレンと歩いて行った。ちなみに今ゆりの手首には、今までしていたブレスレットはない。

闇の世界に行った物なので全部廃棄されてしまったのかもしれない、とゆりは思っていた。

アシュランの間に入ると、中にはアシュランとヒルデリア、ハロルド、オルガ、そして赤い髪のイシュタールがいた。

「王妃！」

イシュタールが本物のゆりを見てうれしそうな声をあげた。

「イシュタール！」

ゆりはグレンから離れてよろめいたが、今度は近寄ってきたイシュタールが支えた。

「王妃……ご無事でよかった」

「イシュタールも、結構変わったけど無事でよかった」

今日のイシュタールは赤いズボンに赤いシャツを着ていた。

「まあ、続きは帰ってから養生すればいいさ」

アシュランの言葉に二人は顔を向けた。

「本当にありがとうございます」

「母の身でよくがんばりましたね。無事に産まれるように」

ヒルデリアは近づいてきて、ゆりのお腹を優しくなでた。

「ありがとうございます」

この場にラクシュミがいれば泣くほど感動したに違いない。

「あの、私がしていたブレスレットは、やはりもうないんでしょうか？」

ゆりは一応と思って聞いてみた。

「ブレスレット？」

「ああ、お前達が着ていた服やなんかは燃やしたぞ。飾りも燃やした」

サラディンが言った。

「そうですか」

残念だが仕方がない。ゆりは心の中で長い間共にいたブレスレットにさよならを言った。

「その代わりといってはなんだが、お前には私の加護がついたぞ」

サラディンの言葉にゆりはびっくりして目を見開いていた。

「本当ですか？」

「ああ」


ついに私に神様の加護が！！


ゆりは興奮して、「もしかして怪力になりました？」と聞いた。

「え？　いや、そういうんじゃない。もう二度と、やけどはしないぞ」

「やけど？」

ゆりはぽかんとした。

「ああ、万が一家が火事になっても、焼け死ぬことはないだろう」

「そうなんですか？　ありがとうございます」

そういう状況は二度とごめんだが、世の中何があるかわからない。ここは喜ぶべきだろう。

「うれしいです」

「火を操る能力とかはないのか？」

ハロルドが聞いた。

「火を操る力は神官にしか与えないことにしているんでな」

「イシュタールは半分火の妖精だから、火はへっちゃらね」

ゆりがイシュタールに言った。まさか火の妖精はやけどしないだろう。

「はい」

「それじゃ二人で帰れるんですね」

ゆりは神様達を見回して聞いた。

「あの、そのことなんですが、お願いがあります」

イシュタールが言い出した。

「私を鍛えていただけないでしょうか。短い間でいいんです。お願いします」

イシュタールはゆりを支えたまま、まっすぐハロルドを見て言っていた。

「え？」

とハロルドは意表をつかれた表情をした。

「そうか。ならイシュタールだけもうちょっと残ればいい。よかった。まだ教えたいことがあったのだ」

気楽に言い出したのはサラディンだった。

「おい、私はいいとは言ってないぞ」

とハロルド。

「いいじゃないか。ちょっとくらい」

「ちょっとくらいって……」

「私からもお願いします。ステキなハロルド様」

ゆりもにっこり笑ってお願いした。

「…………」

ハロルドはこちらを睨んでいる。

「じゃあとりあえずひとりで帰るか」

アシュランの言葉にゆりは「はい」とうなずいた。

「了承してないぞ」

ハロルドは面白くなさそうな顔をしている。

「まあいいじゃないか。この男は火の妖精として学ぶこともいろいろあるだろうし、そのくらいの願いはかなえてやってもよいだろう。

それじゃ、最後にこの女性と二人きりで話しがある。皆出てくれ」

「いちゃだめなのか？」

アシュランの言葉に、ハロルドはすばやく反応していた。

「だめだ。出てろ」

「何を話すんだ」

「内緒だ。さあ、みんな出ていてくれ」

「行きましょう」

ヒルデリアが促した。ゆりの身体はふわりと浮いて、部屋の中に出現した椅子に座らされた。

「それでは、王妃」

「さよなら。イシュタールもがんばって」

イシュタールも名残惜しそうに部屋を出て行き、広い部屋には二人きりになった。アシュランと向き合って座っているとかなり緊張してきた。

「お前に話すことはもう一人のお前に聞こえてるのか？」

アシュランは自分の椅子に座ったまま聞いた。

「たぶん聞いてると思います」

「そうか。人間達には闇の者のことをあえて考えないように、というような暗示がかけられている。つまり、あっちのことは拒絶するように

なっているわけだ。お前が人間界に帰って、元通りお前を受け入れる人間もいるだろうが、暗示が強い人間は拒否反応を

示すかもしれない。ここまでわかるか？」

「はい、つまり、私を汚らわしいと思う人間がいるかもしれないということですか？」

「そうだ。子供よりも長生きしている老人の方がそういう傾向が強いかもしれない。そうなるのも気の毒なので、お前だけに暗示を説く

呪文を教えよう」

「え？　呪文？」

「そうだ。この呪文を言えば、相手はお前を以前と同じように受け入れるだろう。心して覚えるように」

アシュランは人差し指を立てて言った。

「は、はい」

ゆりはごくりとつばを飲み込んだ。

「ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレカイジャリスイギョノ……」

「え？　あれ？」

「……チョウキュウメイノチョウスケだ」

ゆりはぽかんと口を開けた。

「覚えたか？」

「今のなんですか？」

ゆりは目を見開いたまま聞いた。

「だから呪文だ。言っただろう」

「今のジュゲムが？　アシュラン様なんでこの言葉知ってるんですか？　さっきの私の世界の言葉なんですけど？」

「え？　そうなのか？　これは驚いた。　最近ふっと浮かんだ言葉だ。面白いから覚えていたのだ。お前の世界の言葉だったとは……

これは何の言葉なのだ？」

「人の名前ですよ」

「人の名前なのか。こんな名前の人間がいるとは。自分の世界の言葉なら、楽に覚えられるな」

「え、いえいえ、覚えられませんよ。長すぎますよ」

ゆりは思いっきり手を横に振っている。

「だめだ。覚えろ。もう一度言うぞ。ジュゲムジュゲム、チョイチョイノスケ」

「さっきと違いますが」

「……じゃあ別の呪文を教えよう」

アシュランはあっさり言った。

ゆりはちょっと怪しみながら「お願いします」と言った。


その頃広間の外では、ハロルドがやきもきした表情でいた。すでにイシュタールはサラディンに連れて行かれている。

この神殿には人間の屋敷のような扉はないのだが、アシュランの間は広く、柱と柱の間には声がもれないように分厚い布が壁のように

かけられている。外からでは何を話しているやらさっぱり聞こえなかった。

その場にガーベラがやってきた。

「彼女は帰った？」

「まだだ。アシュランが何か話してる」

「何を？」

「さあ」

ガーベラは入り口の布をちょっぴり横に引いてのぞいてみた。

「……彼女踊ってるわよ」

「踊ってる？」

ハロルドがガーベラの上から中をのぞいた。中にいたゆりは、くるくる回っている。

「本当だ。なにやらせてるんだか。あんな元気はないはずだが」

「アシュランってば何を考えているのかしら」

「あのーお二人とも何をやってるんですか」

とがめたのは横にやってきたグレンだった。

「ちょっと大目にみてくれ」

とハロルド。

「のぞきはいけませんよ」

グレンがぴったりカーテンを閉めて、二人はしぶしぶカーテンから身体を離した。


中ではゆりがはあはあ肩で息を吐いていた。アシュランの力で一時だけ元気にさせられていたのだった。

そしていろいろ指図されていたのだった。

「よし、完璧に覚えたな」

「あのー今の本当に呪文なんですか？」

ゆりは不服げだった。

「当たり前だろう。他にお前にあんなことをさせる理由なんてない」

「本当ですかあ？　他の人間相手でも同じことやらせるんですか？　イシュタールも？」

ゆりは疑いの眼差しを向けている。

「あいつはもう半分妖精だから関係ない」

「もし私がすごい美人でも同じでした？」

ゆりはどうやら疑っているようだ。

「ああ。嫌なら呪文を使わなきゃいいだろう」

アシュランはあっさり返した。

「うう……そうですね。ありがとうございます」

「もっとうれしそうに言わないか」

「ありがとうございまっす」

ゆりは無理やり笑みを浮かべて明るく言った。

「それじゃ返すぞ。しばらくおとなしくしてろよ」

「え。あ」

ゆりの姿はぱっと消えてしまった。

消えた後、アシュランは笑い出した。

「く、くくく……ははは……あー面白かった。私を騙したお返しだ。ああ、これくらいで許してやるなんて、私はなんて心が広いんだろう……」

アシュランはひとりでつぶやき、また「くくく」と笑っていたのだった。


ゆりが現れたのは王の間だった。しかもラクシュミのひざの上である。ラクシュミは当然びっくり仰天だった。

「ゆり！」

「王様……王様ー！！」

ゆりは涙を流してラクシュミに抱きついた。

「王様、王様！」

「ゆり、元気か！　ゆり！」

「元気よ王様！」

「心配したぞ！　あれ？　イシュタールは一緒じゃないのか？」

「イシュタールは」

涙ながらにそこまで話し、ゆりははっと我に帰った。

再会の喜びを感じている場合ではないのだ。

「王様、話は後で、ペン、紙とペンをちょうだい！」

ゆりは門の側にいる番兵に向かって叫んでいた。

「イシュタールはどうしたんだ？」

「後にして。呪文を書かなきゃ忘れちゃう！」

「呪文？」

番兵がペンと紙を持ってきて、ゆりはラクシュミのひざから下りてよろけながら移動した。

「ゆり、大丈夫か？」

「うん、ちょっと待っててね」

ゆりは棚の上の花瓶を番兵によけさせて、紙を置いてペンで何かを書き出した。

その時王の間の扉がバンと開いて、子供達がやってきた。

「お母さん！」

「母様！」

「母様ー！！」

子供達は涙ながらに王の間に入ってきたが、ゆりは子供達の顔を見る余裕もなかった。必死にペンを滑らせている。

拍子抜けした子供達はラクシュミに近づいた。

「あれ？　イシュタールは？」

アナスターシャが聞いた。

「ちょっと待ってほしいそうだ」

ラギがゆりの手元をのぞこうとすると、ゆりは「みちゃだめ」と手でラギを追い払っていた。

「ここでくるくる回る？」

「読まないの」

ゆりは真っ赤な顔で続きを書いている。

「みんな、ちょっと待ってて。今重要な所だから」

子供達はきょとんとした表情で、終わるのを待っていた。そこに「王妃ー！」と絶叫に近い声が聞こえてきた。

ミカエル達である。番兵はゆりの姿を見てすぐ、皆に思念を送っていたのだった。

「王妃！　王妃！　どこです王妃！」

叫びながらやってきたミカエルに、アナスターシャとシスが「しー」と口元に指をあてた。

「王妃、何をなさってるんですか？」

「ちょっと待ってほしいんだって」

「？」

ミカエルの後ろからフリットやヴィラ、ジュノー、ミルキダスにシャナーンもやってきたが、一様に不思議そうな顔で王の間にいた。

男達は「イシュタールがいないな」と小声で会話しあっている。

「できた！　よかったー！」

ゆりは書き終わってようやく皆のほうを向いた。

「みんな心配かけてごめんね。ようやく帰ったよ」

「母様よかった」

シスが言い、「よかったよかった」と皆が続いた。

間を置かれてしまったため、皆の感動もちょっと薄れていた。

「あの、イシュタールは一緒じゃないんですか？」

フリットが聞いた。

「イシュタールは」

立ち上がったゆりはよろけていたので、シスがあわてて支えていた。

「イシュタールはせっかくだから、ハロルドに稽古をつけてほしいからちょっと残るって」

「そうなんですか？」

「イシュタール殿らしいですね」

「本当に」

ヴィラとジュノーは笑っていた。状況はもっと複雑だが、ゆりはかなり疲れていた。今はもうベッドに身を置きたい気分だ。

「ごめんね。私はまだ本調子じゃなくて、後でちゃんと説明するからね。休ませて〜」

ゆりはふらふらである。

「シス、ゆりを部屋に」

「はい」

シスはゆりを瞬間移動で連れて行った。

「ようやく王妃が帰られたんですね」

シャナーンがしみじみと告げた。

「ようやく……」

男達はしみじみと喜びつつ去って行った。


ゆりの部屋では侍女達が涙ながらに待ち構えていた。

「王妃様〜」

「みんな心配かけてごめんね〜疲れてて、ちょっと休ませて。これ机においといて」

ゆりはシスに必死になって書いた紙を渡した。

「うん」

「用意はできておりますよ」

「おやすみなさい」

ゆりはベッドにあがるなり、すぐ眠ってしまった。

「大変だったんだろうな」

シスがそんなゆりを見てつぶやいた。

「よかったです。本当に」

侍女達は眠っているゆりを見て、涙が流しつつ、寝室を後にした。


王の間ではラクシュミがハザークにゆりが帰ったと思念を送ったものの、ハザークからの返答はなかった。


寝てるのかな？


「ああ、これで私も安心して眠れる……」

その日はゆりは目を覚ますことはなく、ラクシュミも早めに眠りについたのだった。


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