第51話

早朝、城の厨房では、二人の料理人が朝食の下ごしらえをしていた。かまどに火を入れて、パンの生地をセットし、かまどのふたを

閉めようとした時のことである。突然かまどの火が大きく燃え上がり、料理人は後ろに飛んで床にしりもちをついていた。

「うわわわわわ！　まただ」

『また』と言ったとことから、昨日イシュタールの帰還に遭遇した料理人のようである。

「ぎゃー！　神様！」

鉄のボウルを派手に落としつつ、もう一人の料理人も叫んでいた。

炎の塊は二つあった。しかも、よく見ると、妖精らしき姿形をしている。二人の妖精は床の上に大きな塊をどすんと置いたので、

しりもちをついた料理人は「ひー」と悲鳴をあげていた。

妖精は料理人に何かを言った。

『お届けものでーす。でいいかな？』

『私達の言葉は分からないでしょう』

『そうか。えーと、イ、イシュタール、イシュタール』

妖精は大きな塊を指して料理人に言った。

「イ、イシュタール……？」

どうやらそこはわかったらしい。

『イシュタール、じゃあ確かに渡したぞ』

二人の妖精はぱっと消えて、火の塊はなくなった。残された二人の料理人はぽかんとして目を合わせていた。

「イシュタールって、え？　この中にイシュタール様が？」

混乱していた料理人は、人が一人は入れそうなほどでかい塊を見て言った。

「いや、それは違うだろう。いくらなんでも……イシュタール様にってことじゃないのか？」

「ああ、そうか。びっくりした。ああ！　またパンが黒こげだ！」

かまどの中のパンの生地は、無残にも黒こげになっていたのだった。



「はっはっは、笑える。二日続いてかまどから人が出てくるなんて……今日は人じゃないけど」

その後厨房にやってきたハインリヒは大笑いしていた。

「笑い事じゃないですよ。何でここから出てくるんですかー」

一人は怒っていたが、もう一人の方は妖精をはっきり見たのがうれしかったらしく、にやにやしていた。

「これ、なんでしょうか」

妖精が持ってきたものは、人の腰くらいまでの高さはある丸みを帯びたもので。黒い布でくるまれていた。

「なんだろう」

ハインリヒがちょんと触ってみると、固い感触だった。

「とりあえずイシュタールに言ってみよう……迎えに来てほしいようだ。ちょっと行ってくる」

ハインリヒは消えて、５分ほどしてイシュタールと一緒に戻ってきた。赤い髪のイシュタールは緑の戦士服を着ていた。

「また驚かせてすまない。一体なんだろう？」

イシュタールはでかい物体から布を剥ぎ取った。中から出てきたのは木の樽だった。

「酒だ！」

「うおっ！　酒だ！」

布を剥ぎ取った瞬間、いい匂いが漂ってきたので料理人が歓喜の声を上げていた。

「お酒？　どうしてお酒を？」

「土産を忘れてきたとか？」

ハインリヒの言葉にイシュタールははっと思い出した。

「そういえば、ジンラ様のお酒をもらった時に持って帰りたいと言ったんだった。すっかり忘れて帰ってきてしまったので王に申し訳ないと

思っていたんだ。わざわざ届けてくださったんだ……しかもこんなにいっぱい……」

イシュタールがじーんとしていると、料理人二人は目を輝かせて樽に引っ付いていた。そして鼻をくんくんさせている。

匂いだけでわかる。これは最高のお酒に違いない。

「お願いします。なめるだけでいいですから！」

二人は拝まんばかりである。

「とりあえず王に見せないと。二人の分はもらってくるから」

酒の樽を見てしまったのだから素通りはいくらなんでもかわいそうだろうと、イシュタールが言うと、二人は涙目で喜んでいた。

「どこに運ぼうかな。王はまだ王の間にいらっしゃらないだろうし……」

「とりあえず食堂でいいんじゃないですか？」

「そうだな。すまんが、運んでくれるかな？」

イシュタールはハインリヒに頼んでいた。

「もしかして、瞬間移動ができなくなったんですか？」

イシュタールに迎えに来てほしいと頼まれた時に、ハインリヒはそう感じたのだった。

「できないことはないんだが……火に寄せられてしまって目的地がずれてしまうんだ」

イシュタールは頭をかいた。昨晩屋敷で試しに飛んでみた時もそうだった。目的地に行く自信が今はないのである。

「へえ、そうなんですか。それは難儀ですねえ」

「いろいろ練習が必要なようだ。仕事にならないでほんと困ったな」

「まあ、なんとかなりますよ。じゃあ食堂に運びますね」

ハインリヒは二つの樽に触れて移動した。

「いろいろすまない」

イシュタールは料理人に謝っていた。

「いえ、もう、あの、お酒、本当にお願いします」

「わかった」

イシュタールは歩いて厨房を去って行った。


本当に、神の国の皆さんはいい方ばかりだったな……


イシュタールは歩きながら目頭が熱くなっていた。

自分のためにここまでしてくださるとは、と感謝しきりである。

蛇の国に戻ってうれしいと思う反面、やはり以前とはだいぶ違うのだな、と悟ったイシュタールだった。

だが、ここで悲観するのは皆に対して失礼というものだろう。

新しい生を楽しむくらいのゆとりをもたねばなあ、と自分に言い聞かせている。

「とりあえず瞬間移動をどうにかしたいなあ……」


食堂の中はにぎやかだった。アナスターシャやシス、ラギ達がお酒の樽に大喜びしている所だった。ラクシュミも当然喜んでやってきた。

ジンラのお酒をこんなに大量にもらえるなんてもう二度とないだろう。

ラクシュミが喜んでいたのでイシュタールもうれしくなった。

お酒はせっかくなのでちょっとずつ皆に振舞われることになり、イシュタールは二人の料理人にも持って行ったのだった。

二人が泣いて喜んだのは言うまでもない。

もう一度食堂に行くとゆりもいた。お酒の樽はすでにどこかに移動している。

上の子供達はまったりした表情をしていた。

「すごいよねーなんでこんな味が出せるんだろうね。100年置いてたお酒のように芳醇で……このすばらしさは言葉で表現できないほどだ！」

「感動するね……」

ラギとシスはしみじみと感動中のようだ。

「ロイ、お酒の味なんてわからないでしょ？　ちょうだい」

「やだ！」

「ナナミちょうだい」

「やです」

アナスターシャーは二人ににかわいく頼んでいたが、拒否されていた。

「あうー私も神の国に行きたい〜」

アナスターシャはなくなったグラスを名残惜しげに口元で逆さにしていた。

「王妃は飲まれましたか？」

イシュタールは苦笑しつつゆりに聞いた。

「私はいいよ。イシュタールは飲めたの？」

「いえ、私はいいんです」

「神の国でジンラのお酒飲み放題だったの？」

アナスターシャが聞いた。

「え？　いいえ」

「本当に？」

「はい、水は飲み放題でしたが」

「えー」

「クーは？　クーみた？」

聞いたのはミシェイラである。ミシェイラはお酒にまだ興味がないのでジンラのお酒は飲んでいない。

「はい、みました」

「いいなあ。でもこの前みたもんね」

ミシェイラは自慢げだった。

「ハロルドの稽古は一区切りついたの？」

ゆりがイシュタールにそう聞いたのは、イシュタールを鍛えてるのがハロルドだと思っていたからだった。

「はあ、その、一人前の戦士になるまでいるとなると帰れなくなりそうなので、ほどほどで帰ってきました」

イシュタールは恥ずかしそうだった。

「そうなんだ」

「ハロルド様の稽古ってすごいね。後で教えてね」

シスはうらやましそうだ。

「はい、本当にハロルド様の妖精達にもよくしていただきました。それでは私はまた後できますので」

皆はこれから食事なので、イシュタールは食堂を出て行った。

そして、無意識の内に瞬間移動をしてしまい、ついた先は街の大きな食堂のかまどだった。

「ひー！！！！！」

突然かまどから人が現れて、かまどの前にいた女性は悲鳴をあげていた。

「す、すまない！」

イシュタールもかなりあせっていた。

（王の間の前に飛ぼうとしたら、こんなにもずれてしまうなんて……）

「本当にすまない」

イシュタールは謝りながら食堂を出て行ったのだが、服は焼けこげていた。

「参ったな……」

イシュタールはやけどはしないが、服はそういうわけにもいかない。気をつけないと人前で素っ裸になってしまいそうである。

（困った……相当訓練しないと……）

イシュタールはあわてて服屋にかけこんでいた。

人間界に帰ってからも、イシュタールの大変な日々は続きそうである。



さて、時間は戻り、イシュタールが去った後の神の国では、火の神殿ではルティアナがぶーぶー愚痴っていた。

「つまんない〜〜〜」

「まあまあ、しょうがないだろう」

サラディンは娘をなだめ続けていた。

「イシュタール、面白かったのになあ。また来てくれるかな？」

「まあ、そういうこともあるかもな」

「遊びにいっちゃおうかな」

「それはだめだ」

「ちぇーさよならくらいいいたかったなあ」

ルティアナはすねていた。どうやら自分がいない間にいなくなったようだ。


そして違う神殿ではハロルドが喜んでいた。

「これで少しは安心だ……」

ハロルドの前にいたのはクーリーフンである。

ハロルドはゆりが次に火の神殿に現れるのではないかとそれが怖くなり、自分でイシュタールに「帰れ」といおうとしたのだった。

だが自分が全然イシュタールの相手をしていないのに、突然現れて「帰れ」というのも、ちょっと変である。

サラディンに怪しまれないようにするにはどうすればいいか、とクーリーフンをひっつかまえて聞いていると、

クーリーフンが「それじゃそろそろ奥の手を使おう」と言ったのだった。


その後火の神殿に現れたのはジンラだった。イシュタールはジンラの顔を見るなり、すっかりラクシュミが恋しくなり、

涙ながらに「すぐに帰ります」と言い出したのだった。

イシュタールは世話になった妖精達には伝言を頼み、もちろんサラディンにも深くお礼の言葉を述べて帰ることにした。

ちょうどルティアナはいなかったので、帰ったら面倒になると思い、サラディンは今の内にとイシュタールをさっさと返したのだった。

イシュタールはサラディンと数人の火の妖精、ジンラに見送られて人間界へと戻ったのだった。

火の神殿の面々にとっては残念なことだが、こればかりは仕方のないことである。

「ジンラの顔を見て郷愁にかられるとは……それで、ジンラはここに何をしにきたんだ？」

サラディンに聞かれたジンラは、「えーと、噂の男の顔が見たくて……」と適当なことを言った。クーリーフンから「僕のことは黙っておいてね」

と頼まれていたからだった。

「あ、そういえば、私の酒を土産に持って帰りたいと言っていたが……何も持たせずに返してしまったな」

ジンラはそのことを思い出した。

「そうか。そうだ、急だったから土産が何もなかったな。人間界に送ってやったらいいんじゃないか？」

「じゃあ、酒の瓶を何本にしようかな？」

「みみっちいこと言うな。樽をよこせ」

「樽？　だが……」

「酒の樽を二つな。その土産があれば、イシュタールの顔も立つだろう」

「樽二つ……いいのかな？」

ジンラは頬をかいていた。人間界でジンラのお酒が飲めるのは、西の聖域にあるジンラの神殿だけなのである。

樽二つは結構な大盤振る舞いだ。

「黙ってりゃばれないさ。ここに持ってきてくれ」

「うーん……まあいいか」

こうして妖精達により、酒の樽が人間界に運ばれたというわけだった。



「それにしても、ジンラの顔を見るだけで帰るのなら、もっと早くに行かせりゃよかったのに」

ハロルドはクーリーフンにそんなことを愚痴っていた。

「頃合いってのがあるからさ。まあいいじゃない」

「そうか。まあこれで、あの女もあのまま来ないな。よかった」

ハロルドはゆりが雲の上の神殿にいたのが相当驚いたのか、そこにほっとしていた。

「もう二度と会いたくないの？」

クーリーフンが聞くと、ハロルドはちょっと眉をしかめて、「いや、そういうわけではないが、ここであの姿では会いたくない」と言った。

「あれ？　どうやってアシュランが連絡したんだ？　あの女は来る気満々でめかしこんできたんだから、何かの連絡があったに違いないが……」

ハロルドはそこに疑問を抱いた。

「さあ」

それは自分がゆりに与えた手段だったが、ここでばらすほどクーリーフンもばかではなかった。

「じゃあ僕そろそろ行くね」

「ああ。グレンが人間界に降りたのか？」

クーリーフンは不思議そうなハロルドを横目に神殿を出て行ったのだった。

「めかしこんできたんだ……どんな姿できたんだろう？」

ちょっと見てみたかったな、と思いつつ、その場に出くわしたハロルドを想像すると、笑いがこみ上げてきたクーリーフンだった。

「まあ、確かに怖いかも。僕だって知らずに遭遇したらびっくりしただろうなあ……ほんと、勇気があるよね」

次にゆりがこの世界に来るのはガーベラ姿の時なのだろうか。

「まあ、これで一連の出来事は終わったね」

クーリーフンもそのことにほっとして、空を飛んで行ったのだった。


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