第25話
未来の世界では、ゆりのお腹はちょっとづつ膨らんできていた。赤ん坊が生まれる最後の準備に入ったのである。
庭園の花々も鮮やかになり、過ごしやすい季節になっていた。
子供たちはゆりのお腹の赤ちゃんに歌を歌ってあげたり、本を読んであげたりして生まれるのを待ち遠しく思っている。
アナスターシャは古代叙事詩を聞かせたりもしていた。
男たちもゆりの部屋にやってきてはゆりのお腹をなでている。何度も経験したことだが、何度経験しても、こればかりは慣れることはない。
今回は、出産でゆりの気が低下するのか、それすらも、当日にならないとわからないのである。
赤い月以外でできた子供だが、明らかにラギの時とは違っているので、何か力があるのではないかというのが大半の意見だった。
それに、この赤ん坊とは、夢の世界で何度も元の世界に行っている。ゆりの記憶の世界なのか、本当に行っているのかはわからないが、
ゆりは赤ん坊と一緒に電車に乗ったり飛行機に乗ったりもした。
元の世界は一体どうなっているのだろうと、時々考えることもある。
元の世界は留まることがない世界である。技術は進歩し続け、人々は便利にはなるが、その代わりになくしていくものもあるだろう。
だからといってこの世界が最高にいいとも言い難い。どの世界も欠点があり、利点がある。
人に欲というものがある限り、どちらの世界でも争いだけはなくならない。
このまま穏やかな時が続くように、と幸せな時はつい願ってしまうゆりである。
ゆりの部屋でアナスターシャが気持ちよく古代叙事詩を歌っていると、ぱっとミシェイラが現れた。
「ねー、へびっちつれてきて」
ミシェイラは歌の途中でも構わずアナスターシャに言っていた。
「え？ へびっち？ イシュタールに頼んだら？」
「へびっちは今はジュノーのところよ」
ゆりが言った。
「へびっちー」
「ジュノー、今日は来ないから仕事かもね。ミシェイラはすっかりへびっちが好きなのね」
ゆりが微笑んで言うと、ミシェイラは「うんにゃ」と首を横に振っていた。
「ミーはクーだけスキなの」
「そう」
「じゃあ、ねーあそんで！」
ミシェイラはアナスターシャの服を握りしめていた。
「えー私この後稽古があるから、さぽったら怒られちゃう」
「あばれるよ？」
「え…」
ミシェイラはえらそうに腕を組んでいる。小さいのに自分の力にどうやら気づいているようである。
「こらこら、お姉さんを脅しちゃだめよ」
ゆりは苦笑していた。
「あ、そうだ。ハザーク様がミシェイラに会いたいって泣いてたよ。行こうよ」
「えー泣いてたの？」
「泣いてた。連れて行ってあげる」
「むー」
アナスターシャは強引にミシェイラを連れて出て行った。
「ミシェイラったら、すっかり勝気な性格になっちゃって……」
女性陣は今のところみな勝気な性格である。ゆりは（この子もそうなるのかな？）と自分のお腹をなでていた。
この時まだへびっちは過去に行ったままである。過去に行き５日も経っていたが、ジュノーが黙っていたので誰も知らなかった。
ジュノーはあれからここには来ていない。
ゆりが部屋でお茶を飲んでいると、ミカエルがやってきた。
「あ、ミカエル、昨晩森で火事があったんだって？」
ゆりは朝食の時に子供たちから聞いていたのだった。
「そうなんですよ。火事の後の調査をしてきたところなんですよ。イシュタールのおかげでたいして広がらなくてよかったですよ」
「そうなんだ。またしても活躍したのね。イシュタール」
イシュタールは火の妖精の力が半分あるため、火を操る強い力があるのである。消火することもできるので、火事があれば呼ばれているようだ。
「でかい火はイシュタールでも難しいようですよ。さすがのイシュタールも、消火した後はすっかり力をなくしてしまったくらいですよ」
「大丈夫なの？」
「寝てれば復活しますよ。実は昨晩、他にも変わったことがあったんですよ」
「へー何々？」
ミカエルは説明しだした。
昨夜遅く、、国の北西にある森で白い煙がもうもうとあがりだした。その時まだ森に煙が上がっている程度なので、そんなに多くの戦士は行かなかった。
北の砦の西にある森である。煙の正体はやはり火で、戦士たちが消火しようとしたが、そこに敵が潜んでいた。
敵は素早く下級戦士の一人に接近して、手に持っていたナイフで首を切ろうとしたのだが、その直前に、男の首は飛んでいた。
味方が倒してくれたのだろうとその下級戦士は思った。
敵は全部で５人いたようである。
５人の敵のうち、３人が首を切られて死に、他の２人は中級戦士と、ミルキダスが倒した。
敵を倒したら味方に思念を送るものなのだが、３人を倒した者からの思念はなかった。
その場では火が大きくなっていたので、誰が３人を倒したかなどと考える余裕もなかった。そのころイシュタールがやってきて、
なんとか消火し、他の戦士はその場の後始末をしたのだった。
朝方落ち着いてから、助かった下級戦士が助けてくれた相手にお礼を言おうとみんなに聞いて回ったのだが、誰も助けていないというのである。
そして、誰も３人の敵を倒していなかったのだ。
そこでその場にいた連中が、「そういえば、誰かわからない気を感じた」と言い出したのだった。
つまり、その場に一人謎の人物がいたというのである。その人物が３人を倒して去ったというのだ。
「砦ではその話でもちきりですよ」
「謎の人物？ 誰かしら？」
ゆりが首をかしげていた。
「さあ、私はその場にいなかったのでわからないです。ただ、男らしいですがね」
ミカエルが答えた。
「誰も知らないんじゃ、一族の人じゃないんじゃない？ 他の一族の人がたまたま助けてくれたとか、ほら、この前会った狼の人みたいな」
ゆりはひらめいて言ってみた。
敵を簡単に倒す他の一族の男といえば虎の一族などもいるが、さすがにガットがそこにいれば、すぐにばれるだろう。
「それが、同族の男だっていうんですよね。だから謎なんですよ」
「ミカエルにもわからないの？」
「わかりませんよ。私は上の連中に聞いてみましたが、みんな違いましたしね。嘘をつく理由もないでしょう」
「ミルキダスはその場にいたんでしょう？ 何か言ってた？」
「確かに謎の人物らしき気をもった者はいたが、よくわからないって言ってましたよ。まったく頼りにならないやつだ。
イシュタールが行った時にはもういなかったようだし」
「そうなんだ。まあ、誰も死ななかったんならいいじゃない。まさかザクート様だったりして、それはないか」
「ないですよ」
現れたのがザクートならば、今頃大騒ぎになっているだろう。謎の人物がだれかなのか、それだけの情報では推理することもできなかった。
アナスターシャ、シス、ロイの３人は闘技場にて、剣の稽古を受けていた。ロイは闇の事件があってから剣技の必要性を感じて、
自主的に習うようになっていた。今日はアナスターシャとシスはハインリヒに、ロイはヴィラに教えてもらっている。
稽古がひと段落ついてから、ヴィラが謎の人物の話をみなに聞かせていた。
「わかった。謎の人物はザクート様よきっと！」
アナスターシャはゆりと同じようなことを考え付いていた。さすが親子である。
「それはないでしょう」
とハインリヒ。
「実は僕。なんちゃってね。フフ」
ロイがニヤリとしていったが、誰も反応しなかった。
「誰かが黙ってるだけなんじゃないの？」
アナスターシャが言ったが、横ではシスがふっと笑っていた。
「何？ 何がおかしいの？」
「別に、なんでもない」
シスはにやにやしている。
「変なの」
「ねえヴィラ、僕もでかい剣がほしいよ。僕の買ってもらってよ」
ロイは一人短剣で稽古をしていた。といっても、アナスターシャとシスも、大人用の剣よりは小さいものを使っている。
「まだそれでいいですよ。それを使えるようになってから言ってくださいよ」
ヴィラがそっけなく返すと、ロイは「ぶーぶー」言っていた。
「ロイにはシスが過去からもってきたのがあるじゃない」
アナスターシャが言った。未来のロイが使っていた二対の剣は、過去でシスが持ってきたものだったのである。
今は大事にしまわれている。
「あれは今のロイ様には無理ですよ。様々な武器を使いこなせるようになってからじゃないと、自分の手を切りますよ」
ハインリヒは手が切れるジェスチャーをして脅していた。
「ふふんだ。いずれ、ハインリヒに勝つもんね」
ロイは宣言していた。
「そう願いたいですね」
ハインリヒはにやりと笑っている。
闘技場の反対側にジュノーの姿が見えて、シスがジュノーに手を振っていた。思念でも呼んだのでジュノーはすぐに飛んでいた。
「こんにちは、こちらだったんですか。今日は私は若手の実践訓練の教官なんですよ」
ジュノーがにこやかに答えた。
「そうなんだ。ところで、へびっちはまだジュノーのところにいるんでしょ？ ミシェイラが会いたがってたよ」
アナスターシャが言った。
「ミシェイラったら、いうこと聞かないとあばれるっていうのよ。ハザーク様が甘やかすからわがままになってるのかしら？」
「そんなことないよ。ミシェイラはかわいいからみんなちやほやしちゃうんだよ」
ハザークよりも、ミシェイラを甘やかしているのはハザークの侍女たちのような気がするが、シスもそこまではいわなかった。
「あれ？ へびっち、いる？」
ハインリヒがジュノーを見て聞いた。
「いないですよ」
ジュノーが答えた。へびっちがいれば気に変化があるので、上の方の人間ならばすぐわかるのである。
「やっぱり」
「実は、へびっちは今遊びに行っちゃってまして……」
ジュノーが申し訳なさげに答えると、「さすが自由蛇だね」とシスが反応した。
「どこにいるの？ 僕捕まえてミシェイラのところにもっていこうか？」
ロイが張り切っていた。
「それが、今はちょっと遠いところにいるんです」
「遠いところ？」
子供たちはきょとんとし、ヴィラとハインリヒも目をぱちくりさせていた。
「勝手にカエルを取りに行ったとか？」
シスが聞き、ジュノーは「いいえ」と答えていた。
「家出して帰ってこなくなったんじゃないよな？」
ヴィラが恐る恐る聞いた。
「え……いやーまあ、実はそう」
その言葉に一同仰天していた。
「はー？ 何言ってるんだ？ どうして探さないんだ？」
「そうだよ。みんなで探そうよ！ 僕が一番に見つけるよ！」
ロイはそういうことが大好きなようである。俄然やる気になっている。
「無理なんですよ。実はへびっち、夢で過去にいっちゃって……」
ジュノーはとうとう白状していた。
「えー？？？？？」
皆のけぞっていた。
「過去って、女王様がいる過去のこと？」
アナスターシャが驚きまくって聞いた。
「はい、レイアス殿についていっちゃいました」
「それっていつのことなの？」
シスが目を見開いたまま聞いた。
「５日くらい前ですかね？」
「なんで黙ってたんだ」
ヴィラはあきれ顔である。
「イシュタール殿が知ったら怒るだろうと思って、でもさすがに言わなきゃなーと思ってたんですよ。これですっきりしました」
「過去って、へびっちすごいね」
アナスターシャは感心していた。
「うーん、自由すぎるね」
とシス。
「過去に探しに行こうよ」
ロイはまだ探したそうだ。
「きっとそのうちに帰ってきますよ」
というジュノーに、「楽しくて帰ってこないかもよ」とアナスターシャは意地悪なことを言っていた。
本当にそうなりそうで怖いのか、ジュノーの顔はちょっと青ざめていた。
「イシュタール殿にすぐ言った方がいいぞ」
ヴィラが言った。
「じゃあ夕方にでも」
「すぐがいいって。仕事は変わるから今から行ってこい」
「今から？！」
ジュノーはかなりびびっているようである。
「大丈夫だよ。イシュタールは怒らないよ。むしろ話を聞いたら喜ぶよ」
シスはジュノーを安心させるように言っていた。
「喜び…ますかねえ？」
とジュノー。
「レイアスに会わせたがってたから喜ぶよ」
「帰ってこなくても喜ぶ？」
アナスターシャはまたもや余計なことを言っていた。
その時ハインリヒは空を仰ぎ、へびっちが女王陛下に拝謁している所を想像していたのだった。
城では、王の間にミルキダスがやってきていた。朝方まで働いていたミルキダスは、今日は休みである。
どうやら、ラクシュミに言いたいことがあってやってきたようである。ミルキダスは番兵を気にしていたので、二人はラクシュミの休憩室の方に
移動したのだった。
「昨晩はご苦労だったな」
ラクシュミがねぎらいの言葉をかけた。
「いえ、私はあまり役に立てませんで。あの、３人敵を倒した者の話、聞かれました？」
ミルキダスはおずおずと言い出した。
「ああ、朝一番にミカエルから聞いて、他の者からも聞いたぞ。かなり噂になってるようだな。謎の男が敵を倒してくれたんだろう？」
「はい、実は私、その男の顔を見たんです」
「見たのか？ だれなんだ？」
ラクシュミは輝く瞳をまっすぐにミルキダスに向けていた。
「それが、わかりません。同族の強い男でしたが、初めて見る顔で、遠かったし一瞬目を合わせただけなんですが、
どこかで会ったような、懐かしいものを感じました。私の知り合いのような気がするんですが、さっぱりわからないんです」
ミルキダスは首をかしげながら言っていた。
「その男は私に、『私のことは黙っていてほしい』と思念を送り、消えました。それでみんなには言ってないんですが、王にだけはお知らせしたくて」
「そうか……」
「その男、王は誰かご存知なんですか？」
「見当はついている。そのうちに自分から現れるだろう。それを待とう。今の話、ゆりにもみなにも内緒な」
ラクシュミは口の前に人差し指を立てていた。
「はい……やはり、私の知っている男なんですか？」
「まあ、知っているといえば知っているかな。そのうちに、すべて明らかになるだろう」
「そうですか」
ミカエルならばしつこく問い詰めただろうが、ミルキダスはそれで納得して、部屋を出た。
「謎の戦士か…どうにも戦いたくなって出てきたのかな？」
ラクシュミが思い当たる男がいるとすれば、大きくなったドルイドしかいない。シスもそう思ったに違いない。
「私もハインリヒの驚く顔がみたいな……」
ラクシュミはその場面を想像したのか、ちょっと笑っていた。
さて、ゆりはというと、謎の男どころではなかった。へびっちが過去に行ったとシスから聞き、びっくり仰天である。
「ジュノーったら、なんですぐに教えてくれないのよ！」
ゆりに怒られて、ジュノーは「すいません」と謝っていた。
「まあまあ、聞いても何もできないんだからいいじゃない」
シスはゆりをなだめている。その時アナスターシャはへびっちが過去に行ったということをみんなに言って回っていて、ここにはいなかった。
ロイは遊びに行っている。
「そうだけどさあ……へびっちが過去に行っちゃうなんて……女王様にも会ってるといいね。きっと喜んでくれるよね」
へびっちを見て喜ぶ女王と騎士達、ゆりはその場面を想像していた。レイアスはきっと泣いて喜んでいるに違いない。
過去では女王は喜ぶどころではないが、ゆりもそういう想像まではするわけがなかった。
「ドンドン」と激しめのノックの音が聞こえて、イシュタールが部屋に入ってきた。イシュタールは昨晩かなり力を使っていたので、気が薄かった。
ジュノーはイシュタールの顔を見て、「イシュタール殿、どうもすいません」と説明するより先に謝っていた。
「へびっちが過去に行ったって、本当なんですか？」
イシュタールはゆりとシスを見まわして聞いていた。
「夢でレイアスに引っ付いていっちゃったんだって」
シスが説明した。
「夢で……なんということだ…」
イシュタールはさすがにショックを受けたようである。うなだれてしまった。
「イシュタール、ジュノーもわざとじゃないし、へびっちの意思だから仕方ないわよ」
ゆりはジュノーのフォローに回っていた。
「そうだよ。へびっちが勝手にしたことだし」
シスもイシュタールをなだめようとしている。顔をあげたイシュタールの頬が涙でぬれていて、３人は同時にびびって後ろに一歩下がっていた。
「イ、イシュタール殿……本当にすいません」
「へびっちがレイアス殿に会うことができてよかった。ジュノーありがとう」
イシュタールはジュノーに近づいて、ジュノーの手をぎゅっと握りしめていた。どうやらうれし涙らしい。
「はあ。怒ってないんですか？」
「怒る？ どうしてだ？」
ゆりがイシュタールにハンカチを渡し、イシュタールはお礼を言ってハンカチを受け取り、顔を拭いていた。
「私はレイアス殿に生きているへびっちを会わせたいと思っていた。だからうれしい」
「ですが、過去に行っちゃったんですよ？ もう帰ってこない可能性もあるんですよ？」
ジュノーの方が納得いかない様子である。
「それはへびっちが決めることだ。帰ってこないならそれはそれでいいさ」
やはりイシュタールはあっさりしていた。
「はあ……」
「イシュタールはもう、へびっちの自主性に任せちゃってるのね。私はそのうち帰ってくると思うけど？
きっと過去を探検したかったのよ」
ゆりは本気でそう思っていた。
「レイアスがカエルを探してるかもね」
シスはその場面を想像して笑っていた。
「すまなかったな。ジュノーにはいろいろ世話をかけて」
イシュタールはジュノーに申し訳なさげに言っていた。
「いえ……そんなに喜ぶならすぐに言えばよかったですよ」
ジュノーは心底ほっとしていた。
「私が怒ると思ったのか？」
「思いました」
「どうしてだ？」
「いやあ、まさか喜ぶなんて……」
イシュタールの体がふらふらしだした。
「イシュタール！」
「イシュタール殿！ 呼び出してすいません。すぐ送りますから。それでは」
ジュノーはあわててイシュタールの体を支えて、ゆりとシスに頭を下げて移動したのだった。
「大丈夫かしら？」
「昨日ので疲れてるのかな。休めば大丈夫だよ。それにしても、へびっちがこんなに冒険しちゃうなんてね」
「ほんとよね。へびっちは今頃何してるのかしら。あー気になる！！」
いろいろ想像した二人だったが、へびっちがカエルをだれかにとらせていることくらいしか想像できなかったのだった。
