第28話

白い空間に、ぽつんと一人たたずむ女神がいた。黄金の巻き毛、豊かな胸、美しいその姿は、愛欲の女神ガーベラである。

「ガーベラ」

と呼んだものの、ガーベラはその声に気づかない。にこりともせずにたたずんでいる。

離れた地面に黒い穴が開いているのが見えた。

その穴が、ガーベラに近づいている。

やがて黒い穴はガーベラの体の真下にまで──

「ガーベラ！」

自分の叫び声にはっと気づいたハロルドだった。


「二度目か……」

目覚めたハロルドはぼそりとつぶやいていた。今だ太陽は昇らず、あたりは薄暗い。

同じような夢を見たのは二度目だった。一度だけならばただの夢ともいえるば、二度目となるとさすがに気になる。

そして更に気になることに、夢のガーベラはどちらのガーベラなのか、ハロルドには判断できなかった。

いつもならば、一目見ればわかるのだが、わからなかったのである。

つい気になって人間界のゆりの様子を見に行ったのは、一度目の夢を見て後のことだった。

さらにアシュランの体調が悪くなるということが重なっていたのである。ハロルド自身、そう夢を見るほうではないが、長い神の生で、暗示のような夢を見た

事は何度もある。そういう夢は、たいてい悪いことの前触れであった。


（まさかガーベラに何か起こるというのだろうか？　しかし一体何が起こる？　神の国にいるガーベラにそうそう何か起こるわけもないだろうし……

どうにもわからん）


そのガーベラには、しばらく「夜は誰かと一緒にいろ」と言ってあった。昨晩は違う恋人のところにいるはずである。


どちらのガーベラか……なぜわからん？


ハロルドはそこが気になって仕方がないようである。


４の月も終わりに近づいてきた。

ゆりのお腹はかなり大きくなっている。もういつ生まれてもいいくらいである。

お腹が大きすぎて階段を降りるのも一苦労だった。何度も出産しているのでゆりはわりと落ち着いていたが、周りはそわそわしていた。

ラギも本を読む気分ではなく、一時間おきにゆりの様子を見に行っている。

アナスターシャが生まれるときには戦が起こっていたが、最近は龍の国は北にある麒麟の国にちょっかいを出していた。そちらと戦になりそうな

雰囲気らしく、蛇を構ってる場合ではないようである。大きな戦はしばらく起こらないのかもしれないが、戦士たちは油断するわけにもいかない。

いつ戦が起こっても大丈夫なように、時々戦のシュミレーションをしたり、魔力を短時間で使いまくる修行なども行っている。

シスとアナスターシャはときどきそれに参加したりもしていた。子供時代は長いとはいっても、剣に魔法に古代語に、覚えることは山ほどある。

過去に行く日が近づているアナスターシャは、愚痴を言いながらもどれもさぼらずにがんばっている。

今日はアナスターシャとシスは戦が行われた北の大地で、他の戦士たちに合わせて魔法を唱える練習をしていた。

休憩時間になり、休んでいる二人にエルバートが近づいてきた。

「もう少しでレーヌ様がお生まれになるようですね」

「そうなんだよ。母様が産気づいたらラギがすぐ知らせてくれることになってるんだ」

シスがうれしそうに言った。

「今回は誰か気をあげるの？」

アナスターシャがシスに聞いた。

「一応みんなも待機するみたいだよ」

「私も楽しみです」

「セリアとセルジュは元気にしてる？」

アナスターシャが聞いた。セルジュはセリアが産んだ赤ん坊のことである。

「どちらもお元気ですよ。セリアさんは最近軽い仕事に復帰してます。家にいても暇でしょうがないようで」

「そうなんだ」

「それでは」

エルバートは二人から離れた。


この日はゆりは産気づくことはなかった。昼間はジュメやユリウスも様子を見に来ていた。一族みなが自分の出産を気にしているかと思うと、

毎度のことながらプレーシャーを感じる。

「今回は楽だといいなあ」

ゆりが気にするのはそればかりだった。お腹が大きくて危ないので、お風呂も侍女に手伝ってもらい、自分の部屋で寝ることにした。

これだけお腹が大きいと上を向いて眠るのは無理である。右を向いたり左を向いたりと楽な体制を探しながらごろごろしていると、

「こんばんは、王妃」と声がした。

ベッドの横に誰か立っていた。

「ハインリヒ？」

「今夜は一緒にいますよ」

「蹴とばすかもよ？」

「いいですよ」

ゆりはちょっと横に移動して、ハインリヒがベッドに入ってきた。さすがにこれだけお腹が大きいとお互いにいちゃつく気分でもないのは承知である。

「昨日はミカエルがきたんだけど、さんざん蹴とばしちゃったみたい。その前はシスやラギもきてたけど、蹴られるから来なくなったわ」

「ははは。一人じゃ心配ですよ。王も心配してるでしょう。王の寝室は行かないんですか？」

「王様をけとばすのはやだもん」

「変わりにけとばしてください」

ハインリヒは笑っていた。

「だっこして」

ゆりが言うと、ハインリヒはおなかを気にしながらゆりに軽く腕を回していた。

そして軽くキスした。

ゆりはうなったりごろごろしていたが、やがて眠りについた。ハインリヒは横でゆりの手を握っている。

もうすぐ新たな命が生まれるのである。こうして横に寝ていると、自分の子供のような気がしてくる。


過去から未来へと時を超えて、随分時が流れた。

過去の時代は懐かしいが、ハインリヒは帰りたいとは思わなかった。この時代の方が、やはり自分には合っているのかもしれない。

仲間意識が強いこの時代の男たちには、多少物足りないものも感じるが、皆必死で生きている。それは強く感じられる。

ゆりは眠りながらも時々うなっていた。

ハインリヒはしばらく、ゆりが過去に来なければ自分はどういう生をおくっていただろうか、などと想像していた。


しばらくして、寝転んだままのハインリヒは城の中に誰かが入ってくる気配を感じた。同族なので警戒することはないのだが、その気配が妙に気になった。

誰の気かわからなかったからである。大きな気ではなかった。


……同じ階にいるな。シス様の部屋？


ハインリヒはついその人物の気配を探っていた。誰だろうと気になったが、誰なのかわからなかった。

「あ？」

その人物の気が急に薄くなった。気の力をかなり抑えたようである。


気づかれないようにした？　だがなぜだろう？


シスの部屋にいるのだからまさか逢引の相手ではない。夜部屋に来るとはいったいどういうわけなのか。


男だったが……


シスの部屋に行けばはっきりしたかもしれないが、今はここを離れたくなかった。


まあいいか。まさかシス様に限って変なことが行われているわけでもないだろうし……


とハインリヒは気にしなかった。


一方、シスの部屋にはやはりドルイドがやってきていた。その時シスは起きていたので、すぐドルイドに気づいた。

ドルイドは今回もちゃんと服を着ている。

「……ハインリヒ、同じ階にいません？」

ドルイドもハインリヒに気づいたようだった。

「今日は母様のところにいるよ。もうちょっとで子供が生まれるから、誰か一緒の方がいいから」

「そうですか。こっちに気づいたかな？」

「え？　　ほんと？」

シスは驚いていた。そのわりにはドルイドは落ち着いている。

以前ならばもっと慌てたはずだ。

「一応気づかれないようにはしてるんですが……」

ドルイドの気は、過去を思いだすほどに、強くなっていた。このままだとハインリヒにすぐばれるので、今は極力気の力を抑えて、

気の質をちょっと変えている。これも過去にしかない技である。

「ドルイド、この前敵を倒してくれたんでしょ？」

シスが言った。まず聞きたかったことである。

「ご存知でしたか。すいません。つい、外に行ってみたくなって」

ドルイドは恥ずかし気だった。

「いいんだよ。せっかく生まれ変わったんだから、好きに生きればいいんだよ。今の人生はドルイドのものだよ」

「シス様……ありがとうございます。でもシス様にこうして出会えるのも私の楽しみですから」

「それならいいけど、でも、そのうちハインリヒにばれるかもよ？」

「ばれたらばれたでいいかと思ってるんですよ。今は」

「本当に？　会ったらなんていうの？」

シスがおかしくなって聞いた。

「そうですね。パパとでも呼びますか」

ドルイドは冗談交じりに言っていた。

「ですが、まだしばらくばれたくない気はしますが……」

この夜はお勉強よりも、シスは話したいことでいっぱいだったので、その話をした。主な話は赤ん坊のことである。

ドルイドは２時間ほどシスと話して去って行った。


そのころハインリヒはゆりの横でうつらうつらとしていた。

するとゆりが目を覚ました。

「うーん、腰が痛い」

「さすりましょうか？」

「うん……」

ハインリヒはゆりの腰をさすっていた。

「うーん、うーん」

ゆりは辛そうである。

「もうすぐ生まれそうですかね？」

ハインリヒが聞いた。

「まだだとは思うけど……うーん、でもわからない」

まだ重い痛みではなかったのでゆりにもわからなかった。

ゆりは体を起こして、ハインリヒはしばらくゆりの腰をさすっていた。

「一応準備してもらいましょうか」

「そうねえ。そうした方がいいかな」

ハインリヒはあちこちに思念を飛ばしだした。やがて、侍女たちが城の中をばたばた移動しだし、子供たちも起きだしていた。

「ようやくキター！」

ラギはあわてて着替えている。

ゆりの腰はずーんと痛くなり、やがて陣痛らしきものが来た。

「王妃様、がんばってください！」

「母様がんばって！」

「がんばってー！」


夜明け前、ミカエル達も城にやってきて、ラクシュミももちろん起きていた。

医者のフレイも集まり、ゆりは寝室から別の部屋へと移動した。

そして朝日が昇るころ、この世に赤ん坊が誕生したのだった。

元気な女の子だった。

子供たちはミシェイラ以外部屋の外に集まり、赤ん坊が生まれると皆喜んでいた。

「やったー！」

「どんな外見なんだろう？」

「レーヌ、ようこそー！」


恋人たちも集合していたが、ゆりはミシェイラの時ほど気の力を消耗していなかった。ぐったりはしていたが。

一応男たちはゆりに引っ付いて気を与えている。

「ど、ど、どんな子？」

ゆりは一番そこが気になっていた。

ラクシュミが、布にくるまれている赤ん坊をゆりに見せた。

「黒髪、耳はお前と同じだ」

「え？　本当？」

「本当だ。耳が丸いですね」

「初めてですね」

男たちも赤ん坊を眺めていた。

外では「早く見せて」コールがあがっていたので、ラクシュミは子供たちに赤ん坊を見せに行った。

「王妃、よくがんばりましたね。今回もえらかったですよ」

ミカエルがゆりの頭をなでなでしていた。

「なんか普通の子っぽい？」

ゆりの左目は変わっていた。

「そうですねえ。まだわからないですけど」

ミカエルはゆりをなでながら言った。これだけ子供ができると、子供の力がどうであれ、周りもそう気にしていないようだ。

「黒髪だ！」

「耳が小さい！」

外では子供たちもわいわい言っていた。赤ん坊は戻ってきてゆりの横に置かれていた。

「かわいいですね。本当に」

シャナーンは感動して泣いていた。

「それじゃ、王妃はゆっくり休んでくださいね」

フリットはみなを促して部屋を出た。

「何度体験しても感動するなあ」

ジュノーはしみじみと言っていた。

「そうだなあ。王妃が元気そうでよかった」

男たちは部屋の外で、興奮している子供たちとハイタッチしていた。

「母様、大丈夫？」

「元気ですよ」

「これから宴会でもしたいところだが……朝かあ、仕事したくないなあ」

言ったのはジュノーである。

「宴会は夜までお預けだな」

ヴィラが笑っていた。

「今日はお祝いだから、勉強も修行も休みでいいよね？　ね？」

アナスターシャは目をきらきらさせている。

「僕らは宴会だ！」

ロイが言った。

「まあスキにしてください」

「宴会、宴会、にー宴会の準備！」

「わかったよ」

「お祝い〜」

ロイはラギをせっついて、二人は移動し、アナスターシャも移動した。

「そーだ、パパに教えてあげようっと！」

ナナミはハザークの元に移動した。

男たちは散っていき、シスとハインリヒだけになった。

「じゃあ僕も行くね」

シスが行こうとすると、「昨晩、誰か来ました？」とハインリヒが聞いたのだった。シスはどきりとしたが、あまりうろたえずに「きたよ」と答えた。

「誰が来たんですか？」

「秘密」

「どうしてです？」

ハインリヒはうかがうように聞いている。

「何かいかがわしいことされてないですよね？」

「え？　いかがわしいって？」

シスはきょとんとしていた。

「何もされてないならいいんですが……どうして相手を教えてくれないんですか？」

「そのうちに教えるよ。父様は知ってるんだ。だから心配しなくていいよ」

「そうですか？　それならいいんですが……」

ハインリヒはじろりとシスを見ていたが、シスは顔をそらせてさーと去って行った。



ハインリヒはシスを信じてはいたが、深夜に王族の部屋を訪ねてくる理由とはなんだろうと、気になりだした。

念のために、手の空いた時にラクシュミに聞いてみたのだった。するとラクシュミは本当にそのことを知っていた。

「どうして夜中に尋ねてくるんですか？」

「わけがあって夜中しか来られないんだ。大丈夫だ。あやしい相手じゃない」

ラクシュミはすんなりと答えていた。

「そうですか。その男は、当然私も知ってる男ですよね？」

「もちろんだ」

ラクシュミはちょっと笑っていたが、ハインリヒはそこには何とも思わなかったようだ。

「まあ、そのことはほっといていい」

「わかりました」

（次があれば、じっくり気を探ってみよう）

ハインリヒはそう思いつつラクシュミから離れたのだった。


城の広間では宴会の準備がされて、子供たちは何度も乾杯していた。

朝起きて赤ん坊を見たミシェイラは、侍女に「王妃から生まれたんですよ」と説明されて、「どうやって出たの？」と不思議そうだった。

こうして、この世に７人目の子供が誕生した。

赤ん坊もゆりも元気そうだったので、周りも一安心だった。


一旦屋敷に戻って再びやってきたイシュタールは、城の周りを風の妖精が飛んでいるのを見た。

風の妖精は城の中をうかがいたいような様子である。あちこちの窓から中を見ている。

「どうしたんですか？」

イシュタールは妖精に近づいて聞いてみた。その妖精は、以前自分を誘ってきた妖精だった。

「ここで赤ちゃんが生まれたって聞いたんだけど、本当？」

「本当ですよ」

「名前はなんていうの？」

「レーヌ様です」

「そうなの。どうもありがとう〜」

女の妖精は去って行った。

「？」

イシュタールは首をかしげたがそれ以上気にしなかった。


その妖精は神の国に戻るとカサンドラの神殿にやってきた。

「カサンドラ様〜レーヌっていう赤ちゃん、生まれたようですよ」

「本当か。とうとう生まれたか」

カサンドラは聞くなり喜んでいた。自分が名付けただけに、気になっていたようである。

妖精に、城で赤ちゃんが生まれたら知らせてほしいと頼んでいたのである。

「これは乾杯せねば」

カサンドラは一人うれしそうに杯をかかげたのだった。


つづく

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