第30話

その夜は、妙に寝苦しさを感じて、ゆりは寝返りを打って目を覚ました。暗い部屋の中、何か黒い物が宙を舞っているのが見える。

「？」

「こしゃくなまねを」

女の声が聞こえてゆりははっとした。

「だれ？」

目を凝らしてみると、寝室に誰かがいるのが見えた。ベビーベッドのそばに立っているのは女である。闇に浮かぶ白い肌に、ゆりはとてつもなく

嫌な感触を抱いた。

「あなただれ？」

部屋の中を舞っていたのは黒い羽のようだった。その羽は、ひらひらと床に落ちていた。

「お久しぶり、と懐かしくいろいろ語りたいところだけど、私も長い時間ここにはいられないの。あまり騒がない方がいいわよ。

他の人がここにくると、とてもまずいことになるでしょ？」

女はゆりを見て言った。優し気な口調だったが、凄みを感じる。まるで女王のような存在感である。

女はゆりの様子に小首をかしげた。

「ああ、あなた私を覚えていないのね？　記憶を消されちゃったの？　あっちの世界で会ったでしょ？　あなたが覚えてなくても私はしっかり覚えてる。

あなたが何もなかったかのように幸せになるのは我慢ならないのよ」

ゆりはあわてて横のベッドにいるレーヌを手繰り寄せて腕に抱き、ベッドの後ろに降りた。

女の登場で、ゆりの封印された記憶が再びよみがえろうとしていた。


闇の世界で確かに、この女に会った気がする

ガーベラに似ているが、性質はまるで反対の、恐ろしい女に

名は……ファリーヌ？


その名と共に、闇の世界での記憶が怒涛のようによみがえってきた。だがそれは、ゆりにとっては恐怖でしかなかった。

どうして違う世界の女神がここにいるのだろうか。なぜ自分の寝室にいるのか、ゆりはまださっぱりわからなかった。

「あなたをただ殺してもつまらないし、それで考えたの。あの時あなたのお腹にいた赤ん坊をもらうことにしたのよ」

ファリーヌは何食わぬ顔で言い出して、ゆりの体がびくりと震えた。

「一体何を言ってるの？　この子は絶対渡さないわよ」

ゆりはレーヌを抱きしめながら、どうやってこの場から逃げようかと考えていた。

誰かに助けを求めることはできない。

ここに誰かがくれば、その誰かが大変なことになる。もしラクシュミがここに来たらと考えただけでゆりはぞっとした。

「その子、金色の瞳じゃないんでしょ？　よかったわ。金色の瞳を持つ人間には手を出せない決まりなの。

おとなしくその子を渡せばあなたに危害は加えないでおいてあげる。さ、わたしなさい」

ファリーヌは手を出していた。

「渡すわけないでしょ。死んでもごめんよ」

「あなたが死んだらつまらないでしょ？　死ぬまで心配させるのが目的なんだから。さあ」

ゆりの左目は蛇の目に変わっていた。

瞬間移動で逃げようと思っていたが、どこまで逃げれば逃げ切れるのか。

ファリーヌがゆりに近づいた。


どうしよう！　怖い！　この子だけは守らなくちゃ！　


とりあえず城の外へと思ったが、体が動かなかった。恐怖のためというわけではない。どうやら力を止められているようである。

「逃がさない。！？」

ファリーヌがふいに後ろを向いて、手で何かを受け止めていた。

寝室の出入り口に誰かが立っている。メイドの服を着た女性のようだった。

「この辺でおひきとりください」

メイドの手には短剣が３本握られていた。

ゆりはレーヌをぎゅっと抱きしめたまま、そのメイドに視線を移した。城で見たことがあるメイドである。ロイが勝負をしたことがあるメイド

だというのも知っていた。名前がマリカだというのもゆりは思いだした。

「いやよ。皆眠らせたはずなのに、あなたはなぜ起きているのかしら？　ああ、あちこちに小細工をしたのはあなたね？」

マリカはファリーヌと間合いを取りながら、ゆりのそばにやってきた。

「神官というやつかしら。だけど、あなたじゃなんの助けにもならないわね。残念ねえ」

ファリーヌが右手を向けた。そこから黒い塊が飛んできた。マリカはゆりの体を抱きしめて、瞬間移動した。

「うっ……」

ゆりはその瞬間マリカのうめき声を聞いた気がした。


移動した先は外だった。開けた場所で、周りを建物で囲まれている。闘技場である。

マリカの体がゆりから離れてふらついていた。

「攻撃を受けたの？」

「すいません。あんな大物がやってくるなんて……」

「あうう……あーん」

嫌な気配を感じたのか、レーヌが泣き出してしまった。

「大丈夫よ。泣かないで。あなたは一体何者なの？」

「真ん中へ移動してください」

「え？　わかった」

マリカは闘技場の真ん中を指している。ゆりは苦痛に身をかがめているマリカと一緒に、闘技場の真ん中へと移動した。

「あーん。あーん」

「大丈夫よ。絶対に守ってあげるからね」

ゆりは自分に言い聞かせるように言ってレーヌをあやしていた。

「私ではあの人には勝てません。私がやられても時間をかせいでください。必ず助けがきますから」

マリカは早口でゆりに言った。

「え？　あ、そうだ」

（イシュタールならサラディンが呼べるかも！　イシュタール！　イシュタール起きて！　大変なの！）

ゆりがあわてて思念を送っていると、体がぞわぞわするような感触がした。闘技場にファリーヌが現れていた。

「イシュタールってあの時の男でしょ？　半分妖精になったんですってね。もしかしてサラディンを呼ばせようと考えたのかしら？

だめよ」

ファリーヌの言葉にゆりは愕然とした。ファリーヌはゆりの思考を読んでいる。

「まさか、思念も使えないなんて……」

イシュタールから思念の返答はない。やはり、阻まれている。

「邪魔が入りそうだからさっさと片付けなくちゃね。ここに長いこといるとまずいのよ」

ファリーヌは二人に近づいた。すると、二人の周りに光の筋が上がり、ファリーヌは足を止めた。

「これ、あなたがしたの？」

ゆりは、自分をかばうように立っているマリカに聞いた。

「はい。ですが……」

ファリーヌが手で払うようにすると、光の筋は消えてしまった。

「私相手じゃ無駄よ。しょうがないわねえ。赤ん坊だけもらうわよ」

ファリーヌがすっと近づいてきて、マリカは短剣を二本同時に投げた。

ファリーヌは瞬間移動でそれを避けて、マリカのすぐ傍までやってきた。

マリカはポケットから素早く短剣を取り出して、ファリーヌの体に突き刺そうとした。

ファリーヌは目にもとまらぬ速さでその手首を握りしめていた。それもかなりの力である。

「それ、聖剣でしょ？　いくら私でもそれで刺されたら痛いのよ。あなた私と一緒に来ない？　ここで死ぬなんてつまらないわよ？」

「お断りします」

「なら死になさい」

ファリーヌはマリカの短剣を奪い、素早くマリカの腹に突き刺していた。

「やめてー！」

ゆりが絶叫した。

「やめて。やめて。どうしてこんなことをするの！」

「どうしてって、あなたに受けた屈辱はちゃんと晴らさないとね。逆らわなけりゃだれも傷つかないですんだのに」

ファリーヌはマリカの体を横に荷物のようにほおり、手から黒い塊のようなものを出した。それはお腹に刺さった短剣に吸い込まれた。

マリカの体がびくりとのけぞって動かなくなった。

「マリカ！」

「じゃあ赤ん坊をちょうだい」

ファリーヌがゆりに向き合った。

「いやよ。絶対いや！」

ゆりは後ずさった。

「強引にもらうわ」

ファリーヌが右手をかざした瞬間、ゆりの全身がしびれた。

「きゃあああ」

ファリーヌはゆりの腕から強引にレーヌを奪った。

「やめて！　やめてー！」

ゆりは動こうとしたが動けない。

「あなた前回は男の後を追って来たんですってね。なら今回も来る？　のろいをかけてあげる。次にこの子と出会った時が、

あなたの最後よ。それでも来る？」

ファリーヌは残酷な微笑を浮かべていた。

「レーヌ、レーヌ……」

「ほほほほ。待ってるわ」

ファリーヌの手から黒い塊が出てきて、ゆりの体に吸い込まれた。

ゆりの頬を涙が流れていた。自分の子供が奪われても何もできない。親として、こんなにつらいことはなかった。

「レーヌ……」

「あーん……あーん……！」

レーヌが泣いている。ゆりはどうすることもできずに、よろよろと横たわってしまった。気絶したくないと思っても、身体が言うことをきかない。

目の前に横たわっているマリカを見たまま、ゆりは気を失ってしまった。



目的を達して移動しようとしたファリーヌだったが、そこであることに気づいた。

「この子……なんてこと」

ファリーヌが忌々しげにつぶやいた時、目の前に黒い塊が飛来してきた。

「！」

「貴様……」

夜の闇のような姿だったが、その瞳には星のきらめきがあった。夜の神オルガである。

「一体この世界で何をしている？　その子を返せ」

オルガは地面に横たわっている二人をちらりと見て、ファリーヌに向き合った。表情には怒りがあった。

「この子に忌々しい印をつけたのはあなた？　これじゃあっちに連れていけないわ。計画が台無しだわ。どうしてくれるのよ」

ファリーヌは勝手に怒り出した。

「さっさと返せ」

オルガが右手を出す。

「あーんあーん」

「うるさいわねえ」

ファリーヌの右手がレーヌの首にかかっていた。

「その子を殺したら、後悔することになるぞ？　私はお前の世界にも行くことができる。闇のさらに闇に落ちたいか？」

オルガが怒りの表情で言うと、ファリーヌはあきらめたようにレーヌの首から手を放したが、レーヌの体がファリーヌの腕の中から

ふっといなくなった。

「！？　どこにやった！」

「私は殺さないわ。私はね。この世界のどこかにやっちゃった。早く探さなきゃ、獣に食われてしまうわよ？　それにこの二人も、

そろそろやばいんじゃないかしら？」

ファリーヌはあっけらかんと言い出した。

「貴様！」

「私に怒ってる場合じゃないわよ。赤ちゃんが殺されたらかわいそうじゃない。早く見つけてあげなさいよ」

レーヌが先か、それとも倒れている二人を救うべきなのか。オルガは心底困りはてた。

その時、光の筋が空から降ってきて、ファリーヌの右肩をつらぬいた。

「ぐっ！」

ファリーヌは肩を押さえた。

宙に浮いていたのはハロルドだった。ファリーヌはハロルドの姿を見るなり姿を消した。

「ハロルド！　赤ん坊がどこかに行ってしまった。私が探すからこの二人を──！」

オルガがあわてて飛んでいこうとしたとき、ハロルドは「待て待て」と引き留めてオルガに近づいた。

「この子か？」

「あ！　レーヌ！」

なんとハロルドの左手に赤ん坊が収まっているではないか。レーヌは目を閉じていた。

「空を飛んでいたのを捕まえたら赤ん坊だった」

「よかった。心底ほっとした。じゃあこの二人を神の国に連れていこう」

オルガはほっとして二人の元に急いだ。オルガはマリカの腹にささっている短剣を抜いた。

「マリカ、しっかりしろ。まったくあの性悪女め！」

オルガは心底激怒しながらマリカを抱き上げて、ハロルドがゆりを抱き上げた。

「何かのろいをかけられているな」

ハロルドはゆりを抱き上げるなりそれに気づいた。

「性悪にもほどがある」

オルガが忌々し気に言った。


二人の神は消え、闘技場に静寂が戻った。

城の中も、ゆりにレーヌ、そしてメイドが一人いなくなったことにまだ誰も気づくことはなく──



「二度もここに来る人間はお前が初めてだぞ」

神の国にて、ゆりは気絶したまま、再び癒しの泉へと沈められたのだった。



つづく

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