第２９話
「私はもうあなたの前には現れない」
グレンはゆりがガーベラに入った時に言われた言葉に戸惑っていた。
「私の前に現れない」、とは一体どういうわけなのか。
翌日にはガーベラは自分の神殿にいた。グレンもガーベラが外に出た折にちらりとその姿を見ている。どちらのガーベラかはわからなかったが。
ガーベラ様……あんなに私に優しくしてくださったのに……
グレンは女神をしょんぼりさせてしまったことに心を痛めていた。
１の月５日、とうとうアナスターシャの誕生日がやってきた。アナスターシャは早起きして厩舎に行き、天馬のプリモに、「私３０歳になったよと報告している。
プリモはおめでとうとでもいうかのように「ひひーん」と鳴いていた。
ゆりが起きて自分の部屋で服を着替えているとラクシュミがやってきた。ローブ姿である。起きてすぐに来てくれたようだ。
「王様おはよー」
ゆりはラクシュミに抱き着いた。
「おはよう、ゆり、アナスターシャを産んでくれてありがとう」
ラクシュミはゆりの背中をなでながら優しい口調で言っていた。
「あー」
ゆりのベッドで手足を動かしていたレーヌが声を発していた。
「もちろん他の子供たちのことも感謝している。アナスターシャが３０歳になるんだな、と思ったら、私は感慨深いものを感じた。私が３０歳のころはいろいろ大変だったからな。
今はこんなにも城の中が明るくて、同じ城とは思えないくらいだ。お前のおかげだ」
「王様が愛してくれたからよ」
朝からなかなかいい雰囲気である。レーヌはそんな二人をよそに、ベッドの上をずりずり動き、しまいにははいはいしていた。
「レーヌはもうすぐ歩けそうだな」
「そうなの。王様ー、今日ねーそのー」
「そうだな。宴会も早めに切り上げよう。お前のために」
「やった！」
ゆりは子供のようにうれしそうだった。
この日はアナスターシャは新調した薄いピンク色のドレスを着ていたが、外では寒いので、真っ白なウールのコートに身を包み、いろいろな街に行って姿を見せていた。
「なんてかわいらしいんだろう！」
「本当にかわいらしい！」
街の人たちは、きらきら輝く銀色の髪を見て興奮した様子だった。
アナスターシャは戦士達とともに城の東にある街に移動した。そして先ほどと同じように街の人たちに同じように挨拶をした。
その内容は、「皆さんのおかげで３０歳になれました。どうもありがとう」という、感動的なものである。
街の人たちが感動して拍手している時である。アナスターシャに、何かが投げつけられた。だがアナスターシャはさすがに結界を張っていたので、それは結界ではねられていた。
何かを投げた男はすぐに逃げている。
「姫様に何をするんだ！」
「そうだ！ 捕まえろ！」
街の者たちも怒って犯人を捕まえようとしていた。街の人たちの視線が一斉にその犯人へと注がれたとき、アナスターシャとちょっと離れたところにいたシスは違う所に視線を向けて、
その横にいたロイはすぐに瞬間移動して、戦士に体当たりしようとした男に至近距離から力を飛ばしていた。気弾のようなものである。
「ぐえ！」
離れた男の手にはナイフが握られていた。
「ロイ様、お見事です」
男はすぐに戦士により捕まえられている。
「へへっ」
ロイは得意げにシスに親指を立てていた。シスも同じように返している。先に男に気づいたのはシスだったのだ。
これはアナスターシャの顔見せをかねた、シスとロイの修行でもあったのだ。
このような調子でアナスターシャは街を回り、その後は城で、お祝いをいいに来る一族の者に顔を見せた。アナスターシャの部屋は、今日は花でいっぱいである。
しばらくするとシスとロイも帰って来た。ナナミは留守番だったのでゆりの部屋でブーブー言っていた。ミシェイラは街に行きたいとも言わなかった。
ゆりは部屋に報告に来てくれたシスに、「危ないことはなかった？」と聞いた。
「何もなかったよ」とシスは答えている。
「そう、よかった」
ゆりはほっとしていた。
「ひどいよー私をのけものにしてさー」
ナナミは口をとがらせている。
「まあまあ、人がいっぱいだからね。祭りには行けてるんだからいいじゃない」
ゆりはナナミをなだめていた。
シスもロイも、物騒なことはゆりの耳に入れないように、と言われていた。子供であれど、敵が現れれば倒さねばならない。そうせねば味方が傷つくことになってしまうのである。
『王族は、一族を守るために存在している』
父により繰り返し言われてきた言葉を、シスは肝に銘じている。
「まあ、何もなかったんならよかった。年明けそうそう敵もこないわよね」
ゆりの言葉に、「そうだよ」とシスはにこにこして答えていた。
その夜は、広間で宴会パーティーがあり、ゆりも子供たちも出席した。
城の上に花火のようなきらきらしたものがあがっていた。ハインリヒが魔法でしてくれたのである。みな城の外に出てそれを眺め、寒いのですぐ中に引っ込んでいた。
その夜はゆりは喜びの夜だったが、シスはラギと一緒に寝室にいた。
この日は興奮して二人はなかなか寝付けなかったので、ベッドで並んで話をしている。
「ロイってすごいなーって今日思ったよ。敵に対しても躊躇ないもんね」
シスは昼間のロイに感心した様子だった。
「それにさ、ロイ今日すごく優しいこと言ってたんだよ」
一族の子供たちにはそれぞれ通らなければ道というものがある。一種の儀式のようなものであるが、それは、敵を殺すという儀式である。
ロイはすでにイシュタールの事件で一人葬っていたが、それ以前でも、敵を見つければ平気で攻撃している。
シスはまだ誰かを殺したことはなかった。
きれいごとばかりでは世の中は動かない。誰も殺さずにすむ世の中ならどんなにいいだろうが、敵が危害を加えてくる以上、こちらも対処しなければならないのである。
ちなみに父であるラクシュミはそんな儀式はしなかった。ラクシュミはまったく城から出ることがないからである。だが、シスやロイは違う。大人になって戦があれば外に出て戦う定めである。
ラクシュミはシスにその儀式のことを告げたとき、「無理に子供のうちにやらなくていい。お前の決心がついた時でいいからな」と言っていた。
それから「ゆりには絶対に言わないように」とも。
シスはシャナーンやミカエル達にもその儀式を相談していたが、上級の戦士はみなその儀式を子供のころにやったようだった。
シスがシャナーンに「辛かった？」と聞くと、シャナーンは「いいえ」と答えている。
「自分の知り合いが死ぬほうがよっぽど辛いですよ」
「そうだよね……」
その時はいつにするのがいいのか迷ったものだったが、今日東の砦で、シスはロナウドに「どうしますか？」と聞かれて、その儀式をすることにしたのだった。
剣で、敵を殺したのだ。その敵とは、城の東の街で戦士に危害を加えようとした男である。
その敵は砦に移動させられていた。ロナウド将軍が見届け人となり、シスは敵を殺した。
実際にこの手で人を殺してしまうと、なんともいえない嫌な気持ちになったものだった。だが、涙は出てこなかった。
『ダレル・ラオル・イー・ミ・ラヴィデス』
強くならねば愛する者は守れない。心も体も強くならなければ──
一緒にいたロイはシスが敵を殺してもみじろぎもせず、「なんてことないでしょ？」と言っていた。ロナウドはロイに見せるつもりはなかったのだが、ロイが見届けたいと言ったのである。
「僕はイシュタールのために敵をやっつけた。やっつけられない方が怖かったよ」
「うん。そうだね」
「気分は悪くないですか？ 大丈夫ですか？ 無理はしないでくださいね」
ロナウドはシスを心配していたが、シスは「大丈夫だよ」と答えた。
今日このおめでたい日に、別の場所ではこんなことが行われていたと知ったら、ゆりは仰天してラクシュミに詰め寄ったに違いない。
夫婦の危機にもなったかもしれない。
その後ロイはロナウドにこんなことを言ったのだ。
「敵は殺さないとね、だれかが死んだらやだもんね。でも、ナナミにはやらせないでよ。ナナミとアーねーとラギにーの変わりに、僕が敵を殺すからさ」
ロイのセリフにシスは驚いた。普段悪さばかりしている弟とは思えないセリフである。しかもいつも喧嘩ばかりしているナナミに対する思いやりに、シスは感動した。
本来ならば、兄である自分が言わねばならないことを、１１歳も下の弟が言ったのである。
今まで気づかなかったが、イシュタールの事件はロイをかなり成長させたようである。
「ロイがそんなことを？ 泣かせるなあ」
ラギは感動して目を潤ませていた。ちなみにラギにはその儀式をやる予定はない。すでに戦い要員からは外れているせいである。
「ロナウド将軍も泣いてたよ」
「姉さんはまだなんだよね？」
「男のほうが早いんだってさ。姉様は案外あっさりやりそうだけどね。父様も僕のことすごく心配してたよ」
「そりゃそうだよ。そんな儀式があるなんて、僕だって話を聞いて驚いてるよ」
二人が寝転んで話していると、訪問者が現れた。
「あ、ドルイド」
なんとやってきたのは大人になったドルイドである。二人は飛び起きていた。
「えーやったあ、ようやくあえたあ」
ラギはうれしそうだった。
「こんばんは。今日は街は賑やかですね」
「姉さんの３０歳の誕生日でね。入って」
「はい」
ドルイドもベッドにあがり、二人の横に並んだ。
「僕、ラギです」
「ドルイドです」
二人は挨拶して握手している。
シスはラギの手をドルイドの身体に触らせた。
「あ、あったかい」
「魔法だよ。すごいよね」
「ハインリヒも得意だもんね」
「あ、そうだ。今日は母様は父様と一緒だからいないよ」
「はい、確かめてしまいました」
「もしかしてほっとした？」
「え……いえ……」
ドルイドは苦笑している。
「ゆり様は怒っていたでしょうね」
「ううん。ドルイドをあまり責めないようにしなきゃって言ってたよ」
「そうですか」
「ああ、明るい所でドルイドの顔がみたいなあ。ハンサムなんだろうねえ」
ラギは興奮した様子だった。
「ねえドルイド、母様には内緒なんだけどね、実は僕今日、敵を殺したんだよ。ドルイドはそういうことしたの、何歳だった？」
シスはドルイドに聞いてみたくなったのだった。
「私が敵を殺したのは、大人になってからでしたよ。子供のころは、あたりに敵の姿なんてほとんど見当たらなかったですからね」
「そうなんだ」
「大丈夫ですか？ ショックじゃなかったですか？」
ドルイドはシスの背中をなでていた。
「ショックといったらショックだったけど、弟のロイのほうが先にすませちゃっててさ、弟に励まされちゃったよ」
「弟君はお強いですね」
「根っから戦士向きだからね。ロイは」
ラギが言った。
「でも、ロイがいてくれてよかったって思ったよ。僕は兄としてはまだまだだよ」
「そんなことないよ」
「でも、僕はあんなセリフは思いつきもしなかったからね。やっぱりロイはすごい」
ドルイドもこの夜は、「古代語で」、などと言わずに二人の話を聞いていたのだった。
翌朝、ルンルン気分で自分の部屋に戻ったゆりは、朝の身支度をしていた。寝室からやってきた侍女が、不思議そうな顔で近づいてきた。
「王妃様、ベッドに青い髪が落ちておりますが、どなた様のでしょうか？」
「青い髪？ ……ハインリヒが勝手に来て寝たのかな？」
「長い髪ですよ？」
「長い？」
ゆりは寝室に行ってみた。ベッドの上には頭だけだしてルーがいたが、枕の上に、丸まって青い髪があった。
「ほんとだ」
一本の髪の毛である。水色ではなく、もっと濃い色である。しかもかなり長い。
「……あっ」
ゆりはあわててシスの部屋にいってみた。
シスの横にはラギがいて、二人はまだ寝ていた。
「ねえ、シス、もしかして昨晩、ドルイドがきたんじゃない？」
ゆりがシスを揺らして聞いた。シスは眠そうな顔で、「きたよー。母様のところにもちゃんといったって言ってたよ」と答えた。
「やっぱりドルイドだったんだ。ちゃんと会いに来てくれたんだ。うれしいな」
ゆりはうれしそうだった。
「どんな話をしたの？」
「お祝いのお話」
「それから？」
「眠い、あとでー」
シスは目を閉じてしまった。
「もー」
ゆりはシスの部屋から出て行った。
昨晩ちゃんと来た証明に、髪を置いて行ったんだね。ドルイド、いなくてごめんね。またきてね
ドルイドの体は元の子供に戻ったんだろうに、抜いた髪はなくならなかったようだ。
ゆりはその髪がどうしても捨てられなかったので袋に入れてとっておくことにした。
ミシェイラがぱっと部屋にやってきた。
「マー石ふえた？」
「増えてないよ」
「みせて」
「はい」
ゆりは木箱を開けてミシェイラにみせた。やっぱり増えていなかったので、ミシェイラは、「ふえなさい」と木箱に命令していた。
「ぷっ」
ゆりは笑いながら、木箱で神の国でのグレンとのやりとりを思い出してしまった。
冷静になって考えてみれば、もっとちゃんと謝っておいたほうがよかったかもしれない、などとゆりは思っていた。
他に好きな女がいるのに儀式に参加させてしまったのだから、ゆりとしては、グレンに対してちょっと悪いような気持ちになっていた。
あんなこと言っちゃったけど、もうあんまりグレンに会わない方がいいんだろうなあ
「レーちゃーん」
ミシェイラは寝室に移動してレーヌを探していた。
「まだいないわよ。もうすぐ連れてきてくれるんじゃない？」
「レーちゃんと遊ぶ」
「ありがとう。ミシェイラもお姉さんね」
ゆりがほめると、ミシェイラは「へへへ」と笑っていた。
ゆりはその夜から自分の寝室で寝るようにしたが、ドルイドはなかなか現れず、暦は2の月に変わった。
「王妃、あっちに行きましょう」
黒目のゆりはミカエルに誘われて別室に行ったり、蛇の目のゆりも恋人達と適当に過ごしている。
そんなある日、ヴィラからあるお願いをされた。
「実は、私の彼女が王妃のご利益にあやかりたいから、下着をもらってきてほしいというんですよ。私は嫌だって言ったんですけど」
「下着って？ なんの下着？」
「下の」
「ショーツ？」
「はい」
「別にあげてもいいけど、綺麗なやつなら」
さすがに今はいてるのを脱いであげるのはいやである。
「一つでいい？」
「３つもらえます？」
どうやら彼女全員に配る気らしい。ゆりは寝室にあるタンスからかわいいショーツを選んで紙袋に入れてヴィラに渡した。
「どうもすいません」
「いいえ。あれから彼女達とラブラブなんでしょ」
「そんなことないですよ」
「じゃあ私のこと愛してる？」
「愛してますよ」
「じゃあ……」
ゆりはヴィラの耳に指を突っ込んで何やら言った。
ヴィラは、少し驚いたような顔つきだった。
ゆりはヴィラの耳から手を離した。
「今の聞こえた？」
「いえ……」
「そう、よかった」
「……これどうも。今日はもう行きます」
ヴィラは席を立った。
「そう、じゃあね」
ヴィラは去って行こうとしたが、ゆりの方に顔を向けた。
「王妃、我々はみんな、泣きたくなるほど王妃のことが好きなんですよ。それを忘れないでくださいね」
「うん」
「それでは」
ヴィラは去って行った。
「やっぱり聞こえてたか……」
ゆりは口をへの字にしていた。
『赤い月では誰も抱かないで』
先ほど言ったのは言ってはならないセリフだった。
みんなに赤い月を過ごしてほしくない、と思っても、自分は赤い月のラクシュミを一番愛しているのである。
呆れるほど自分勝手だ。
「まあヴィラなら大丈夫か。シャナーンならシャレにならないことになりそうだけど……」
つい言っちゃったけど、もう言わないようにしなきゃ……
恋人達との仲が深まるほど、思いも複雑である。
にょろーんと蛇のルーがやってきた。
「ねえ、ルーは新しい恋人とかできたの？ 出来たら紹介してね」
ゆりは気分を変えてルーに話しかけていた。
その夜は、ラクシュミが「話があるからこっちに来い」と言ってゆりを自分の寝室に呼んでいた。
（ヴィラが昼間のことを王様に報告していたらどうしよう）とゆりはびびっている。
「実は、赤い月のことなんだが……今年は大丈夫だろうか」
ラクシュミの不安げな言葉に、ゆりはきょとんとしていた。
「何が？」
「今までのお前たちの言動からいって、赤い月の私はかなり違うだろ？ 嫉妬深いようだし」
「そうね」
「お前が恋人達と最後までしてしまったのを知って、嫉妬しないだろうか？」
ラクシュミはそれが心配らしい。
「確かに、前に私が恋人達と最後までしたら許さないって言われたけど」
実は『最後までしたら殺す』と言われたことも覚えていたが、ゆりは今は言わなかった。
「かといって赤い月の間お前を遠くにやるわけにもいかんし、どうしたもんかな」
「私別に、あの時の王様になら殺されてもいいよ」
ゆりが怖いことを言いだした。
「おい……」
「だってそうだもん」
「もう一人のゆり」
ゆりの左目が変わった。
「お前はなんかいい意見はないか？」
「私も、あの時の王様になら殺されても本望だけど」
なんと蛇の目のゆりも言っている。
「そういうことを言ってるんじゃないだろう。私は嫌だぞ。それくらいなら、私が１０日眠りたいくらいだ」
「王様ったら」
蛇の目のゆりはぷっと笑っていた。
「ま、大丈夫だよ。きっと」
「大丈夫じゃなかったらどうするんだ」
「じゃあ、今の間に精力を使い果たす？」
「うーん、そうか。そうすれば……変化しないかも」
ラクシュミは真面目に考え出した。
「私やだ、あの時の王様に会うんだから」
ゆりの左目は黒に戻っていた。
「それでいっぱい愛してもらうの。じゃなきゃ、もやもやが収まらない」
「お前に何かしたらどうするんだ？」
「１０日後ならいい」
「だから、そういうのやめろ！」
ラクシュミは本気で嫌がっていた。
「わかった。精力を使い果たす方向でいく」
「えー」
ラクシュミはさっそくゆりの上に乗っていた。
ラクシュミは３日続けてゆりを相手に頑張っていたが、月も薄くなってしまい、その気もなくなってしまった。
「うーん、今からじゃもたない。赤い月前５日からやりまくろう」
「えー」
「えーじゃない」
今年は赤い月は３の月８日からだった。
「３日から死ぬ気でがんばる」
「王様ってば……」
確かに赤い月が明けてゆりが死んでいたんじゃシャレにならないが、ゆりにすれば、（たとえ殺されてもいいからあの時の王様に会いたい）という気分だった。
頭の中をいったん空にして、あの時の王様でいっぱいにしたいのである。
あの時の王様が儀式のことを気にしてたら、やっぱりちゃんと話をしなくちゃ
という気分だった。
２の月１０日の午後、ゆりはハザークの部屋で竪琴を弾いたり侍女に新しい曲を教えてもらったりして自分の部屋に戻ってきた。すると訪問客がいた。ゆりが海に行く前に
ゆりの元にやってきた神官のトロントである。
「あ、あれ？ どうしたの？」
トロントはクーリーフンが化けた男だったので、ゆりは驚いていた。部屋に入り二人きりになったところで、「また海？」と聞いている。
「ううん、今日はいいものをもってきたんだよ。これをどうぞ」
クーリーフンはテーブルに１０センチほどの高さの透明な香水を入れるような瓶を置いた。中には液体が入っていたが、薄いピンクの色がついている。
「なあに？」
ゆりはそれを手にとってしげしげと眺めていた。
「昨年は知っての通り、女神ガーベラが最高の女神になった記念すべき年だったからね、今年の赤い月はそのお祝いに、あちこちの王妃様にこれを配ることにしたんだ。
赤い月の初日の夜にこれを飲み干して。今年は最高の赤い月になるよ」
「え？ ほんと？」
「本当だよ」
「他の王妃様のところにも行ったの？」
「これから巡るよ。最初は君にあげないとね。赤い月に飲むんだよ？ 今はだめだよ」
「わかった。ありがとう」
ゆりは小瓶を握りしめていた。
「それでは私はこれで失礼します。良い赤い月を」
クーリーフンは最後に神官のように頭を下げて言っていたので、ゆりも「ありがとうございます」と頭を下げていた。
「最高の赤い月？ 何それ、どきどきする！」
『最高の赤い月』、というフレーズだけで、ゆりの心臓は跳ね上がっている。
最高とはどう最高なのか。確かめてみなければ気がすまない。なにせ、これをもらえるのは今年限りの可能性が高いのだ。
こうなったら、なんとしても、赤い月に王様に変化してもらわねば！
「赤い月まで王様にあんまり抱かれないようにしよう！」
─おー！！！
どちらのゆりも盛り上がってきた。
こうして、どちらのゆりもラクシュミの寝室にはいかないようにした。同時に、「あの時の話なんだけどさ、赤い月で王様が私を殺したりなんて、するはずないよ。大丈夫だから、
そんなに気にしなくていいよ」とラクシュミを安心させる作戦も決行している。
「大丈夫じゃなかったらどうするんだ！」
「だって、未来のロイが来た時に、未来に私まだいるみたいだったじゃない。だから大丈夫」
「ん？ うーん、そういえばそうだが……」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫かなあ……」
とラクシュミも思いだしていた。
２の月も終わりに近づいてきた。
ヴィラはあの時のゆりの言葉が引っ掛かっていたが、だからといって赤い月を飛ばそうとは考えていなかった。
ヴィラにとっては、愛と子作りはまた別の話である。
「なんか今年は女たちが盛り上がってるなあ……」
向かいに座っていたジュノーが言った。二人は夜、酒飲の間で酒を飲んでいる。ここは儀式で蛇の目のゆりとジュノーがひっついた場所だったが、ジュノーにその記憶はない。
「そうだな」
「今日王妃に会ったら、王妃もウキウキしてた」
「そうか……」
「王妃にとっては最愛の男に会える時なんだもんなあ。なあ、夜、王妃とのあの幻の儀式を想像して興奮したりってするか？」
「ああ」
「だよな……みんな同じなんだろうな。覚えていたかったような、覚えていなくてよかったような、複雑な心境だよな」
「そうだな……」
「なんだ？ なんかぼんやりしてるな」
「もし王妃を抱いた記憶がしっかりあったら、赤い月で他の女を抱けなくなっていたかもしれないな、と思ってな」
ヴィラはテーブルに視線を落として言った。
「……そうかもな。やっぱり覚えてなくてよかったんだろうな」
愛する女との一夜はどのようなものであったのか。
我々は、あの一夜を心の中にとどめて、他の女性と過ごすんですよ
王妃以上に我々だって、複雑な心境なんですがねえ……
ヴィラはため息をつき、酒を飲んだのだった。
つづく
戻る
目次