第３７話
（ああ、ガーベラ様……）
長い長い間憧れていた女神が、自分の隣に寝転んでいる。しかも、自分がかどわかしたわけではなく、女神の意思でここまで来てくれたのである。
美しい黄金の巻き毛も、瑞々しいピンク色の花のような唇も、多くの男神がじかに見たいと熱望する豊かな胸も、今はすぐ手の届くところにあるのである。
しかも触っても女神の方は、嫌がらない。これはグレンにとってはかなり大きなことだった。
女神の体からは悩ましい匂いが漂っている。肌の近くでその匂いを嗅ぐことができるとは、なんという幸せなことだろうか。
グレンはガーベラ本人を抱くこともできたのだが、あの幸せと今の幸せは、グレンにとっては別のことだった。
あちらのガーベラは、グレンの相手をしてくれたといっても、グレンにかなりの好意を抱いているわけではない。なにせガーベラは性に長けた女神なのである。
内心はどう思っているのだろうか。他の男に比べてつまらないと思っているのではないだろうか、とグレンも気になってしまう。
両者の間には常に一定の緊張感というものが漂っていて、それは今までの長い付き合いからいえば、どうしようもないことなのだ。
だが、こちらのガーベラの方は、緊張感というものがまるでない。グレンの方が一歩引いていたとしても、その線をぴょんと飛び越えてきてしまうのである。
海の伝令神は「無邪気の塊」と言っていたが、まさに天真爛漫である。今までのグレンとの長い歴史がない分、わだかまりもなく、緊張感もない。
身体を重ねるときも、きっと自然にそうなれるのではないか、という予感すらグレンにはあった。別に抱けなくても構いはしなかった。こうして自分の横にいてくれる。
それだけで、グレンの心は満たされていた。
どちらの方が好きか、と聞かれたらグレンも返答することはできない。長い付き合いのガーベラの方だって、自分が何かをしてしまった分だけ、申し訳ないとも、愛しいとも感じているのである。
寝ていた女神は寝返りを打って、グレンの方に抱き着いてきた。
「ガーベラ様……」
ささやくように呼んでも、女神は起きなかった。
「ある夜、あなたは外で寝転んでいて、私はつい、あなたに近づいて口づけてしまった。ばれやしないかとひやひやしながら飛んで行ったものでした。
あの時は、どちらのガーベラ様だったんだろう……」
グレンは女神の体に軽く腕を回して、しばらく至近距離で女神の顔を見つめていた。
眠ってしまうのがもったいない夜だった。グレンはかなり長い時間、目を覚ましていたが、いずれ目を閉じてしまった。
そしてはっと目を覚ますと、身体はまったく訳が分からない場所にいたのである。グレンにとってはまさに悪夢だっただろう。
シスの寝室にはラギ、ゆり、寝ているレーヌ、シス、それに大混乱しているグレンがいた。グレンはベッドから降りて頭に手をあてている。
─ど、どーする？ メイドがきちゃうよ！
今は朝なのだ。ここにずっといると、いずれメイドが来て騒ぎになってしまうことにラギははっと気づいた。
─そ、そーだ。僕、部屋に入らないように言ってくるよ！
「ちょっと失礼します！」
シスは正座したまま頭を下げて消えた。
一方ゆりはごまかす作戦に出ていたが、どうやってごまかしていいやら困り果てていた。なにせ寝起きで頭はまったく働いていないのである。
「ここは、ここは一体どこですか？」
グレンが聞いた。グレンはせわしなくあちこち見回している。
その時ゆりの左目が変わった。グレンはそれに気づいて「ん？」という顔つきである。
「ここは蛇の国の、王の城ですよ。すいません、私がグレン様を呼んでしまったのかもしれません。私には神様を呼んでしまうという特殊能力があるのです。
かなり前も、ダーナ様を呼んでしまったことがあるんです」
蛇の目のゆりは、正座したままちょっと申し訳なさそうにグレンに言った。
「特殊能力？」
グレンは首をかしげている。ちなみにグレンの言葉をラギは理解していた。グレンは、人間の言葉をすっかり話すことができるようである。
「いきなり神を移動させられる能力なんて聞いたことはないですが……」
「ハロルド様を呼んでしまったこともあります。あの時はハロルド様もびっくりしてました。ね、ラギ」
蛇の目のゆりはラギを見た。
「うん、そうです。ハロルド様もびっくり仰天してました。お母さんのせいでどうもすいません」
その時のハロルドをラギは見ていなかったのだが、話を合わせている。うろたえまくっている神様が気の毒に見えたのか、ラギは頭を下げて謝っていた。
グレンは自分の足を見て、はっとしていた。
「私はサンダルがないと神の国に帰れない。どうしよう……」
グレンの顔はかなり青くなっている。
「あ、大丈夫です。私は、呼んだ神様を帰す特殊能力もありますから、一緒に寝れば大丈夫です」
蛇の目のゆりは安心させるように言っている。
「ええ？ ……？」
そこでグレンはゆりの顔をじっくり見て、出会ったことがある女性だということにようやく気付いていた。
「あなたは、あの時神の国で出会った女性じゃないですか？」
「そうですよ。ようやく思いだしてくれました？」
「どうして私がここにいるんですか？」
「私の特殊能力のせいです」
「なぜ私なんです？」
「えーとそれは……そうだわ。昨晩子供たちと神様のお話をしていたんです。それで、ああ、神の国で出会ったグレン様にまた会いたいなあと、そう、思って寝たんです。
きっとそのせいです」
ゆりはうなずきながら言っている。
「はあ？」
（ああ、グレン様が気の毒でしょうがないよ……）
横にいたラギはグレンに申し訳なくてしょうがなかった。
「ラギ、神様に出会ったら聞きたいことがあるって言ってたじゃない。聞いてみたら？」
蛇の目のゆりは、突然ラギに話を振っていた。
「ええ？」
ラギはびくっとしている。
「すいません。お昼くらいになったらちょっとは眠くなると思うんですけど、もう少ししたら絶対に返しますから、ちょっと我慢してくださいね」
蛇の目のゆりは、両手を合わせて謝っていた。さすがに今寝ろってのは無理である。
「はあ……」
実際問題として、グレンは神器がなければ神の国に帰ることもできないし、飛ぶこともできない。ハロルドやダーナならばわけもないことが、グレンにはできないのである。
蛇の目のゆりは椅子をもってきて、「どうか座ってください」とグレンを座らせていた。
─ラギ、早く何か聞きなさいよ！
ゆりは目で合図を送っている。
─急に言われても……
ラギはもしジンラに出会った時にする質問ならばノート一杯にかけるほどに考えていたが、突然グレンに何かを聞けと言われても、とっさに出てこなかった。
「あの、私、この格好では失礼なので、着替えてきますね」
蛇の目のゆりはレーヌを抱いてさっさと移動してしまい、ラギはグレンと残されてしまった。
「ア、アシュラン様の神殿って、どのくらいの大きさなんでしょうか？」
ラギはとっさに知恵をしぼり、グレンに向かってこんな質問をしていたのだった。
神の国早朝、女神ガーベラは目を覚ましていた。場所は、グレンの寝室である。
あくびをしながら横を見たが、誰もいなかった。
「うーん、グレン、どっかいったのかしら？」
ガーベラはベッドから降りて寝室の扉を開けてみたが、向こうの部屋にも誰もいなかった。もう一度寝室に顔を向けたとき、ガーベラはベッドの下にそろえておいてあるサンダルに目を止めた。
「ん？」
翼がついたサンダルがそろえておいてある。グレンはどこに行く時も、このサンダルを手放すはずはないのだ。
「……あれ？ もしかして、人間界に行っちゃったとか？ まさかね」
ガーベラはその考えに笑っていたが、ここにサンダルはあるが、グレンはいないのである。まさかサンダルなしでどこかに行くわけもない。
前にダーナを連れて行っちゃったって聞いたような……本当にグレンもいっちゃった？ だとしたらやばいわ！
ガーベラはあわてて寝室を出てライサの部屋の扉をたたいていた。ライサはすでに着替えていた。
「おかあさん、おはようございまーす」
ライサは朝からにこにこである。
「ライサ、急いでクーリーフンを呼んできて！ とにかく急いで！」
「は、はい！」
ライサはあわてて出て行ったのだった。
さて、蛇の国の城での一部では大騒ぎの状態である。蛇の目のゆりはあわてて着替えて顔を洗いながら、侍女のミラに状況を説明していた。
「え？ 神様？ 今度はどなたが？ オルガ様？ ジンラ様？ またハロルド様ですかあ？」
ミラは慣れっこなのかうれしそうだった。
「違うの。伝令神よ。グレン」
「え？ グレン様？ どうしてですか？」
「そういう話はあと、とにかく、絶対に、子供達を中に入れないで。それから侍女も。王様には秘密に」
「ええ、それは無茶ですわよー」
「とにかく、なるべく秘密に！ シスの部屋の前にいて」
「はい」
蛇の目のゆりはあわてて身支度を整えて、シスの部屋に行った。
「シス、中に入ってラギを助けてあげて」
「わかった！」
シスは部屋の外でメイドを制していたのである。ミラが部屋の外に立ち、蛇の目のゆりは扉の外で笑顔を作り、シスと一緒に部屋に入った。
ラギとグレンは寝室から広い部屋の方へと移動していた。椅子に座って話をしていたようだ。
「僕も、神様の話をいろいろ教えてください！」
シスも笑顔で話に加わり、子供達はご飯も食べずにグレンにいろいろな質問をしていた。
グレンはグレンで観念したのか、子供達の質問に答えている。椅子に座ったところでゆりの左目は黒目に戻っていた。
アナスターシャとナナミは昨日のリサイタルのせいで寝坊して、今メイドに起こされていた。
食堂ではミシェイラしかいなかったので、ロイは「ニーたちは？」とメイドに聞いている。
「ちょっと取り込んでいるので、先に食べていてほしいとのことですよ」
メイドは答えた。
「何に取り込んでるの？」
「それがわからないのです」
実際メイド達にもさっぱりわかってはいないのである。その時アナスターシャとナナミがやってきた。
「ミシェイラ、昨日の夜ね、ベツベツマーがきたのよ」
ナナミが言うと、
「え？ そうなのミーもベツベツマーに会いたい！」
ミシェイラは移動してしまった。
「あ、姫様方はシス様のお部屋に入らないようにとのことだったんですが……」
メイドが困ったように言っていた。
ミシェイラはゆりを探してあちこち行き、シスの部屋にやってきてしまった。
シスとラギはグレンに人間界と神の国の距離はどれくらいあるのか、とかグレンの神の国の一日を知りたい、だの、伝令神の仕事で大変なのはなにか、
だの、とにかくいろんな話を次から次へと聞きまくっていたところである。
ぱっとやってきたミシェイラは、ゆりをみて、「ベツベツマー？」と聞いた。
「ごめん。今は普通のマーなの。それよりミシェイラ、グレン様にご挨拶をして」
ゆりはミシェイラを促した。
「おはよーおっちゃん」
ミシェイラはかわいらしい笑顔を向けて挨拶したが、皆の顔は引きつっていた。
「おっちゃんはだめって言ってるでしょ」
ゆりは小声で怒っている。
「ばいばい」
ミシェイラはさっさと言ってしまった。
「すいません。いつも注意してるんですけど……」
ゆりは申し訳なさげである。
「気にしないでください。ミシェイラは、ハロルド様にもおっちゃんっていうくらいですから」
ラギがついそのことをぽろっと言っていた。グレンは苦笑いを浮かべている。
「ハロルド様もこちらにいらしたんですよね？」
グレンが聞いた。
「はい、そうですよ」
「お母さんの特殊能力のせいで連れてきちゃったんです」
ラギが説明した。黒目のゆりは先ほどのやり取りを知らないからである。
「あの──」
グレンが何か言いかけたとき、部屋にぱっとロイが入って来た。
「何やってるの？ あ、神様だ。だれだろう？」
ロイはグレンをじろじろ眺めている。一目で神様とわかったようである。
「グレン様よ」
ゆりがあわてて言った。
「グレン様って？」
─ロイ、出てって
─失礼なこと言うんじゃないよ！
兄二人に怒られたロイは、「神様さようなら」と言って部屋を出て行った。
ゆりは（これ以上誰も来ないで！）と内心祈っている。
さて、その後王の間では、子供達とラクシュミとの対話の時間だったが、アナスターシャ、ナナミ、ロイ、ミシェイラしかやってこなかった。レーヌはともかく、シスとラギはどうしたんだ、と
ラクシュミは当然聞いている。
「すいません。王様、シス様とラギ様は、今日はお勉強も稽古の方も休ませてほしいそうです」
シスのメイドが言いに来た。
「そろってどうしたんだ？」
「寝てるんじゃない？ 昨日遅くまでベツベツマーの歌聞いてたから」
ナナミがあくびをしながら言った。
「ベツベツマー？」
ラクシュミが聞いた。
「ベツベツマーもういなかったよ」
とミシェイラ。
「昨晩３人目の母様がきてたよ。それで歌を聞いたの」
アナスターシャが言うと、ラクシュミの顔色が変わった。
「どうして私を起こしてくれないんだ」
「だって、夜中よ？ 父様を起こすと悪いと思って」
というと、ラクシュミは「そういう時は起こしてくれ」と頼んでいた。
「私だって３人目のゆりの歌を聞きたい」
「そうなの？」
「シスニーの部屋に神様がいたよ」
ロイが言った言葉にみんなが注目した。ラクシュミの顔色が変わっている。
「神様？ だれだ？」
「グレンっていう神様。グレンってだれ？」
「グレン？ グレン……伝令神じゃないのか？」
ラクシュミが思いだしながら言った。
「そうなの？ 何しにきたのかな？」
ラクシュミは、グレンはアシュランの使いなので、ゆりが神の国で何かして注意でもしにきたのかと、そう思った。
「どういう雰囲気だった？ ゆりは怒られてる様子だったか？」
「いや、別に。僕はニーに出てけってすぐ言われちゃったし」
「私神様みたい！」
「私も！」
アナスターシャとナナミが言っている。
「お二人は絶対に入らないでください。とシス様がおっしゃってますから」
とメイド。
「そうだ。お前たちは行くんじゃない」
ラクシュミも止めたので、二人は頬を膨らませていたのだった。
シスの部屋では、ラギとシスによる神様への質問も続いている。律儀に答えるグレンを見て、（いい神様だなあ）とゆりは思いながら眺めていた。
アシュランの使いなのだから子供に冷たくもできないのかもしれないが、二人の質問に丁寧に答え、相手が子供だからと馬鹿にする様子もない。
今はもうあまりうろたえたりせずに、平静のグレンに戻っていた。
１１時ごろになり、グレンにとってはようやく助けがやってきた。大きいクーリーフンがやってきたのである。
「あ、よかった。探したよグレン」
クーリーフンは手にグレンのサンダルを持っている。
「クーリーフン様！」
グレンはクーリーフンの登場にも驚いた様子だったが、すごくうれしそうだ。
「あーよかったあ」
ゆりはほっと胸をなでおろし、シスとラギは突然現れたクーリーフンについぼーとしてしまった。
グレンはサンダルを受け取ると足にはいた。
「では私はこれで帰ります」
「本当にごめんなさい」
ゆりは深々と頭を下げた。グレンはクーリーフンと共に消えた。
「いやーやっぱりクーリーフンってすごいね」
「そうだねえ。輝きが違うね」
シスとラギは、二人の神を見比べてそう思ったようだ。
「グレン様って、顔も普通っぽいよね？」
「そうだね。わりとどこにでもいそうだよね？」
「そこがいんじゃない」
とゆりがついポロリと言うと、二人がそろってゆりを見た。
「それで、どうしてグレン様を連れてきたの？」
「どうして？」
ラギとシスは、そこすら知らなかった。
「さー、なんででしょうかねえ……とにかく、何か食べない？」
「お父さんへの説明が先でしょ？」
ラギにぐさっと言われてしまい、ゆりはしぶしぶ王の間に行くことにした。
神の国にようやく戻って来たグレンだったが、こちらの時刻は、すでにとっくに昼を過ぎた時間だった。
「どうしてクーリーフン様は、私があそこにいると知ったんですか？」
グレンにとっては不思議なことだったろう。
「その説明は後でしてあげるよ。とりあえず、雲の上に行ったら？ 君は今日はサンダルを動物たちがもっていっちゃって、それを探してたってことになってるから」
「はあ？」
「夜に君の神殿に行くよ」
「絶対ですよ？」
「絶対に行くからさ」
「では、失礼します」
グレンは飛んで行った。
人間界王の間では、ラクシュミの横にはミカエルもいて、二人でゆりを心配していた。
「ゆり、何か怒られたんだろう？ 大丈夫だったか？」
「大丈夫。怒られてはないわよ。神の国でグレンと手をつないでたら、連れてきちゃったの。ものすごく驚いてて、かわいそうだったわ」
ゆりが言いずらそういうと、ラクシュミもミカエルも呆気に取られていた。
「ばれたんじゃないのか？」
「さあ、クーリーフンが説明するかもね」
「大丈夫か？ アシュラン様にばれたらどうするんだ？」
「まあ、それは大丈夫よ。アシュラン様は心が広いから、そんなことで怒らないわよ」
ゆりはアシュランにばれてる、ということはラクシュミには言ってはいなかった。
「全くもう……」
「本当に手をつないでただけなんですか？ 何かしたんじゃないんですか？」
ミカエルが鋭く突っ込んでいた。
「え？ いやー別に」
「とにかく気をつけてくださいよ」
「心配かけてごめんね」
ゆりはキラキラではなかったので、そこはあまり疑われなかったようだ。
神の国では夜になっている。グレンは自分の神殿で疲れたように座っている。
今日のグレンの一日は散々だった。朝起きたらなぜか人間界へと移動していて、こっちに帰ればアシュランに、「サンダルはどこにあったんだ？
動物に持って行かれるなんて間が抜けてるな」などと言われてしまった。説明しようにもできない話であるし、グレンも「すいません」と答えることしかできなかった。
他の神の笑い話にされても仕方がないことである。
グレンは冷静になって今日のことを考えていた。
（あの女性は、ハロルド様が気に入ってる女性だ。あの能力のせいでハロルド様と知り合って仲良くなったのかもしれない……）
グレンはそこまでは推理していた。グレンは神気は薄くても知性はなかなか高い方である。
娘のライサはガーベラとクーリーフンから何か聞いたのか、グレンに何も問いはしなかった。
クーリーフンが神殿にやってきた。
「ライサは今夜はあっちにいるからさ」
とクーリーフン。
「全部話してください。クーリーフン様はどうやって私があそこにいることを知ったんですか？」
それを聞かねばグレンは落ち着かなかった。
クーリーフンは背もたれのない椅子に座った。
「何か飲みますか？」
「ううんいいや。僕、前に言ったよね。あっちのお母さんは、最近来て、いついなくなるかはわからないって。君が今日会った黒髪の女性、あれがあっちのお母さんの正体だよ。
グレンが今まで出会っていたあっちのお母さんは、あの人なんだ」
クーリーフンはずばりと事の真相を話していた。グレンは呆気にとられた様子である。
「一体何をおっしゃっているんですか？」
「いつもは夢とかでこっちにきてるんだけどね、帰る時に、手に持っている物とか、人とか、連れて帰っちゃうみたい。それでグレンはあそこに行ったんだよ」
「…………」
「だから僕はあそこに君を迎えに行ったわけだよ」
グレンの頭はめまぐるしく回転していただろうが、うれしい表情も、悲しい表情もしていなかった。ただ、クーリーフンを見つめている。
「なぜそんなことになったんですか？」
「彼女、お母さんと似てるだろ？ それで、魂が同調してそうなったの」
「信じられません。そんな……」
「でもそうなんだよ」
「……ガーベラ様は、今まで様々な神をだましていたということにはならないですか？ 時々人間がやってきていたなんて。許されないことですよ。アシュラン様が知ったらどうなると
思うんですか？」
「アシュラン様は気づいてないよ」
クーリーフンはこのとき、アシュランが知っているということは知らなかった。
「私には、神々に異常があればアシュラン様に報告する義務があるんですよ？ そんな事実は知りたくなかった。まさかそんなことだなんて……」
グレンは悲し気な表情になり、目を潤ませていた。
「言えば彼女は罰せられてしまいますよ。私はどうしたらいいんですか」
「グレン、別に異常じゃないよ。異常って、精神的におかしくなってるとか、そういうことだろ？ お母さんはあっちが来てからむしろ元気はつらつだし」
「人間が入ってるなんてまずいですよ。アシュラン様が知ったら、恐ろしいことになります」
「大丈夫だよ。人間の彼女の方も、アシュラン様は気に入ってるくらいだし」
「そうかもしれないですが……このことはお笑いにはならないと思いますよ。せめて、彼女にはアシュラン様には二度と会わないようにおっしゃってください」
「でも、彼女の方が連れてってくれっていうくらいだからねえ」
クーリーフンは頬をかいている。
「どうしてですか」
「さあ、まあアシュラン様のことは気にしなくても大丈夫だよ。だって、しょっちゅう変わってるわけじゃないからね。いざとなればハロルドが擁護してくれるだろうし。大丈夫だからそういう
心配はしなくていいよ」
クーリーフンは安心させるように言って去って行った。
グレンはまったく安心などできなかった。アシュランの恐ろしさは、グレンはよく知っていた。アシュランが何度か人間を罰したことも、当然知っている。
クーリーフン様はご存知ではないのだろうか。アシュラン様には、人の記憶を操作するという力がある。もし、人間がガーベラになっているなんてことを知ってアシュラン様が
お怒りになったら、神々の記憶から、あちらのガーベラ様の記憶も消してしまうかもしれない。
優しいガーベラ様……あのガーベラ様を私は忘れたくない
アシュラン様に言わなければ本当にばれることはないのだろうか？ 言わなければ……クーリーフン様は異常ではないと言った。異常でないのならば、アシュラン様に
報告する義務はないはずだ。しかしもし私が黙っていたことばばれてしまったら、アシュラン様は私をお怒りになるだろう。 だが、そうなったところでどうだというのだろう……
グレンの脳裏を様々な思考が行き来していた。
もう、人間の何倍もの時を生きてきたのだ。ここらで新たな伝令神と変わったとしても、それはそれでいいのではないか？
今はそんな気さえする。
グレンは人間界で会った黒髪の女性の記憶を思い起こしていた。
（彼女が癒しの泉で私の名前を呼んだのは、知っていたからだったのだ）
グレンは今それに気づいたのだった。
アシュランとゆりとのやりとりの記憶がよみがえっていた。
アシュランがゆりに「神と寝るならだれと寝たい？」と聞いた時のことである。
ゆりは「相手をお願いするなら……グレン様ですね」と答えたのだ。
あれは、私に好意があってそういってくださったのかもしれない……
そう思うと、グレンの頬を涙が流れていた。
その後もグレンは雲の上の神殿に行き普通に仕事をする日々だったが、いろいろな思考に頭が囚われていたのか、へまをすることがあり、周りの神々には「一体どうしたんだろう？」
と思われていた。連れてくる神を間違えたり、アシュランの命令を聞き返したりしていたのである。
アシュランがアリアス、ジュライと酒を飲みながら歓談中の時のことである。話題がグレンのことになった。
「グレンのやつ、儀式からずーと変だぞ。アシュラン、やっぱり嫌がらせしてるんだろ？」
アリアスが聞いていた。
「何度も言うが、してない」
アシュランは結構みんなに聞かれているが、アシュラン自身、全くそういう気はないのである。
「アシュランはしてないつもりでも、やつはされてると思ってるんじゃないか？ 儀式のことを根ほり葉ほり聞いたからだろう」
ジュライが酒を飲んで言った。
「それは聞いたがな。だって気になるじゃないか。でも、それっきりだぞ？ 別に今でもネチネチ言ってるわけじゃない」
「もしかして、ガーベラに振られたせいじゃないか？」
アリアスが言い出した。
「ガーベラ？」
「グレンが儀式に参加したといっても、ガーベラはグレンを恋人にはしないだろう。グレンにすれば、極上の酒を一度切り味わって終わったんだ。がっかりするのも無理はない」
「がっかり？」
「いやぼんやりか？」
「ぼんやりだな。昨日なんて妖精の手を離して落としかけてたからなあ」
とジュライ。
「そんなにぼんやりしてるのか……」
アシュランは神々の恋愛に関しては自分の身内ではない限り、あまり何かを言ったりはしないのだが、さすがにグレンのことについては原因がヒルデリアのために、ちょっと
気になっていた。
「ま、だからといってガーベラを責めるのもおかしいし、やっぱりアシュランが悪いな」
「そうだな。もっとまめに抱いてやらないからだよな」
と二人の意見は一致していたので、アシュランは苦い表情だった。
アシュランが見た所、グレンとガーベラがどうにかなっているようには見えなかった。ガーベラにグレンのことをどう思っているのか聞いてみたいところではあるが、「なぜ答えなきゃならないの？」
とでも言われるのがおちである。
珍しくグレンのために悩んだアシュランは、「そうだ」と思いついて、クーリーフンを呼んだ。
そしてクーリーフンに、「あっちのガーベラが来たら、ちょっとここによこしてくれ」と頼んだ。
「あっち、ですか？」
クーリーフンはちょっと驚いている。
「ああ、あっち、な」
「わかりました」
クーリーフンは去って行った。
（グレンが言ったのかな？）
と思ったが、アシュランは別に怒ってるようでもない。そのグレンも、あれからガーベラに何か言ってくる様子もなかった。今は頭が混乱しているだろうと、クーリーフンも
あれから話してはいない。
ゆりが神の国にやってきたのは人間界では５の月に入ってからだった。グレンのことがとても気になっていたゆりは、クーリーフンにすぐに会いたかったので、ガーベラの神殿の外で
うろうろしていた。しばらくするとクーリーフンがやってきたので、手を振っている。
「よかった。会いたかったの。グレンのこと、どうなった？」
「その前にさ、アシュラン様があなたに会いたいんだって、先にそっちに行ってくれないかな？」
「アシュラン？ わかった」
ゆりはあっさり言って、クーリーフンにだっこしてもらった。
「……大丈夫かな？ アシュラン様、あなたのこと知ってるみたいなんだけど、いつばれたか知ってる？」
「私の事件の時にばれてたよ」
ゆりが言うと、クーリーフンは驚いていた。
「え？ そうなの？」
「うん」
「なんだ……」
雲の上の神殿に行くと、ゆりは一人で入って行った。
（それにしても何の用なんだろう？）
用事が気になったクーリーフンは、神殿の中で待っていた。するとグレンが外からやってくるのが見えたので、手招きしている。
「どうしたんですか？」
グレンが近づいてきた。
「今から裏に行く？」
「はい」
「そう、じゃあいいや」
「？」
グレンはそのまま廊下を歩いて行った。
「アシュランこんにちは〜」
ゆりはガーベラ気分で陽気にアシュランに会いに行った。
中にはアシュランの他には誰もいなかったので、ゆりはアシュランの近くまで進んでいる。
「私に用って何かしら？」
「ああ、ちょっと聞きたいことがあるんだが、ガーベラとグレンってどうにかなってるか？」
「ガーベラと、私とグレン？」
ゆりは首をかしげている。
「ああ、グレンはガーベラの儀式の相手をしただろう？ その後だ」
「グレンのこと？ グレンは主のために儀式に参加しにきたんだけど、そのせいで身体が収まらない状態になってるんじゃないかしらねえ。あの儀式って強烈だったし。
私も、グレンが女神に夜這いでもしやしないかと心配してるの。神殿ってどこも入口入り放題だしね。私としては、責任を取ってグレンをどうにかしてあげたいんだけど、
彼は周りの目を気にしてるし、アシュランに睨まれたらかわいそうだし……だからここはアシュランが、『グレン、ガーベラと仲良くやれ』とでも言ってくれないと、彼もそういう気には
ならないんじゃないかしら？」
二人の間には結界のようなものがはなかったので、ゆりはガーベラ口調で言っていた。
アシュランはちょっとのけぞってゆりを見ている。
「ところで、グレンの相手はどっちのガーベラだったんだ？」
「私でしたよ」
「じゃあお前は仲良くやってるのか？」
「だからね、彼は遠慮深いタチだから、『アシュラン様の許可が出るまでは、ガーベラ様に触れることなんてできません』てな具合よ？」
とゆり。
「ほんとかー？」
ゆりは儀式の後、グレンとまだ抱き合っていなかったので、まるっきり嘘ではないと強気で攻めていた。
「じゃあ彼は今恋にウキウキって感じかしら？」
「いや、ぼんやりって感じだ」
「そうでしょ？ それで、アシュランはどういう気持ちなの？ 『ガーベラと仲良くやれ』っていう気あるの？」
「え？ うーんまあ、あの儀式はしょうがないとは思ってるが、そこまで言う気は……」
「彼がむらむらして女神に夜這いしちゃってもいいの？」
「あいつにだって適当な相手くらいいるだろう」
「彼は今では私を愛してる」
ゆりは言い切った。
「そう言われたのか？」
「目が言ってる」
ゆりは目元で手をぱちぱちしていた。
「目が言ってるのか」
アシュランはちょっと口元を引きつらせている。
「それなのに適当な相手ではらすなんて……主のために儀式に参加して私を愛してしまったのにかわいそう。主のために参加したのに。主のために……」
「そんなに何度も言わなくてもいいだろう」
「じゃあ言ってあげてくださる？」
「うーん……」
ゆりはじーとアシュランを見つめている。アシュランははあとため息をついて裏を見た。
「おい、グレンはいるか？ グレン」
その時裏にやってきたグレンは、名前を呼ばれてあわてて裏から出てきた。
「はい、なんでしょうか」
グレンはアシュランの前に女神がいるのを見て驚いている。
「グレン、お前はガーベラが好きか？」
アシュランは顔だけ向けてグレンに聞いた。
「え？」
グレンはゆりとアシュランのやり取りを聞いてはいなかった。突然聞かれて戸惑っている。
「なぜいきなりそのようなことを？」
「どうなんだ。ガーベラを愛してるのか愛してないのか、はっきりしろ」
アシュランはグレンを見ていたので、ゆりは手で（言って言って）と仕草をしている。
グレンは視線をきょろきょろ動かしていた。
「あの、アシュラン、グレンは、私を愛してると言ったらこの世から抹殺されるとでも思ってるんじゃないかしら？ もうちょっと優しく言ってあげてくださらない？」
ゆりはやんわりと言っていた。
「お前がガーベラを愛してるというのなら、好きにしろ。私はそれについては文句は言わない。ただし、この雲の上ではいちゃつくな。絶対」
「あ、アシュラン様？」
グレンは呆気に取られている。
「よかった。最高神が喜んでくれるんだから、もう安心ね」
ゆりは両手を合わせて喜んでいる。
「別に喜んではいない。グレン、好きにしていいから仕事中にぼんやりするんじゃない。最近のお前はたるんでるぞ」
「すいません……」
グレンはさっぱり話の展開についていけず、謝っていた。
「じゃあそういうわけで、そろそろ失礼するわね。グレンに下におろしてもらいましょう。さ、グレン、きて」
「え……はあ……し、失礼します」
ゆりが強引に呼んで、グレンもアシュランを気にしながらもゆりの後に続いている。
「ガーベラ、夕方の演奏会に参加しろ」
アシュランが言うと、
「わっかりましたー♪」
と入口付近でゆりは答えていた。
「本当に参加するんだろうな」
アシュランは椅子に座ったまま愚痴っていた。
「ガーベラ様、さっきのは一体どういうことです？」
グレンはアシュランの間を出てから聞いていた。
「だから、私と好きにしていいアシュランの許可をもらったのよ。あなたもその方がやりやすいでしょ？」
「はあ……？」
ゆりは離れた所にいるクーリーフンを呼んだ。
「大丈夫だった？」
「うん、グレンと付き合ってもいい許可をアシュランからもらったからね」
「え？」
クーリーフンもきょとんとしている。
「私グレンに下におろしてもらうから。グレンきて」
「はあ」
ゆりはすたすた歩いて行き、グレンも戸惑った顔でついて行った。
「……付き合う許可？」
クーリーフンは首をかしげて頭をかいている。
「あ、そうだ。私夕方の演奏会に呼ばれたからねー。クーリーフンが覚えておいて」
ゆりはクーリーフンに顔を向けてそう言っていた。
ゆりは雲の上でグレンにだっこしてもらい、飛んで行った。
「ねえ、クーリーフンに私のこと聞いた？」
ゆりが聞くと、グレンは「はい」と答えた。さすがにとっくに違うと気づいたようである。
「ごめんね。なんだかだましてしまって」
「いえ、今は悲しいですよ。あなたが人の時と共にいなくなるかと思うと……」
グレンは瞳を潤ませている。
「私は、あなたが幸せになるきっかけになったらうれしい」
「ガーベラ様……」
グレンは泣いてしまっていたので、ゆりももらい泣きしていた。
「まあ、まだまだいなくならないから」
「アシュラン様のことが心配なんですが、あなたのことがばれたらと思うと……」
「とっくに知ってるわよ？」
「え？ そうなんですか？」
「そうよ。だから大丈夫よ」
ゆりはガーベラの神殿の前でおろしてもらった。
「よかった。安心しました」
「またね」
「はい」
ゆりはグレンが飛んで行くのを見送っていた。泣いてしまったので両手で目元をふいている。
「ラーズにも会いたいけど、ハロルドにも会いたくなっちゃった。いるかな？」
ゆりはどちらか迷ったが、ハロルドの元に飛んで行った。
ハロルドは自分の神殿で自分の鎧を眺めていた。突然ゆりに後ろから抱き着かれて驚いている。
「会いたくなってきちゃった」
「じゃあするか？」
ハロルドはすぐに聞いていた。
「いや、顔を見たくなってきただけなの。すぐそっちに話をもってかなくてもいいじゃない」
「つまらん、あ、そうだ。お前に見せたいものがあった」
「何？」
ハロルドは「ちょっとこい」と寝室の方にゆりを引っ張って行った。
ハロルドは寝室の棚から白い物をもってゆりに見せている。それは真っ白いでかい貝が二枚、紐で引っ付いたものだった。
「げっ！」
ゆりは顔を引きつらせていた。
「これに見覚えがあるだろ？」
ハロルドは紐をもって貝をぶらぶら揺らしている。
「が、ガーベラ怒ってた？」
ゆりはまず、ガーベラの反応を気にしていた。
「いや、別に」
「よかったあ」
ゆりはほっとしている。
「全然よくないだろう！ こんなの来て踊るなんて、お前何考えてるんだ？ マリナールはあれで厳しい神なんだぞ？」
「でも妖精も同じ格好で踊ってたし、マリナールも喜んでたわよ？」
「踊ってる最中に外れたらどうするんだ」
「大丈夫。案外外れないから」
「じゃあつけろ」
「いや」
「つけろよ」
ハロルドはゆりの目の前に貝殻を近づけている。
「いやよ。今日は顔を見に来ただけだもーん」
「お前な」
「たまには恋人らしく、語らいながら川辺でも散歩しましょうよ」
「やなこった」
などと言い合いながら、結局この日も何もないままゆりは帰って行ったのだった。
夕方の雲の上の神殿での演奏会には、もちろんガーベラ本人が出席していた。アシュランはちょっと面白くなさそうな顔つきである。
その後自分の神殿で、クーリーフンから話を聞いたガーベラは驚いていた。
「アシュランが、グレンと私が付き合っていい許可を出したって？ 本当に？」
「うん。そうみたいだよ」
「すごい。そんな許可をもらいに行くなんて、そこまで好きなんだ……」
ガーベラはちょっと感動していた。
「いや、呼ばれて行ったらいつの間にかそんな話になってて、よくわからないけど」
「そうなの。せっかく許可をもらったんなら、お祝いに仲良くしたくなってきたわ。じゃあ行ってくる」
「優しくね」
「わかってるわよー」
ガーベラは飛んで行ってしまった。
「いやーしかしまあ、すごいよね」
クーリーフンは感心しながら、笑っていたのだった。
つづく
グレンがチューしたのは、あ、あの時だ、と気づいたあなたは相当すごいよ♪
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