第６話
ぽかぽか天気で散歩するにはちょうどいい昼間である。ゆりは東屋に座り、赤い堅いものを手にとっていた。盾にもなりそうなほどのでかさだが、それはカニの甲羅である。
以前ハロルドからもらったカニの甲羅をロイがとっておいたものである。ゆりはその甲羅を手に持って眺めていたのだった。
「でかい甲羅だわ。これに脚をつけるとかなりの大きさだわ。おいしかったんだろうなあ。覚えてないなんて、悔しいわあ……」
ゆりはぶつぶつつぶやきながらいろいろ想像していた。
「どうやって食べたんだろうなあ。カニシャブ？ かにコロッケ？ カニはゆでてただ食べるのが一番うまいわよねー……カニー」
カニ料理を想像していたらよだれがでそうだ。
「おなかがすいて来ちゃった」
「まだ甲羅を眺めてるんですか？」
側にミカエルがやってきた。さっきミカエルがここに来て用事をすませるまで、ゆりはここで甲羅を眺めていたのである。
「カニがおいしかったんだろうなって。味を覚えてないなんて悔しいじゃない。イカはかなりのでかさだったっていうし、おいしかったのかなあ？」
「王妃は喜んで食べてましたよ」
ミカエルは椅子に座っていた。
「ちょっと聞くけど、私が神様を殴ったこと、知ってる？」
ゆりは小声で聞いてみた。
「神様を殴った？ 神様の股間を蹴飛ばしたのは知ってますけど」
「股間を蹴飛ばした？」
ゆりにとっては殴る以上の衝撃である。
「今のは冗談でしょ？」
「本当ですよ。そのせいで、しばらくエルバートと身体を取り替えられてましたよ」
「……そんなことあった？ あ、なんかエルに迷惑をかけたことがあるような気がしないでもないけど……」
「ガーベラの儀式のことは覚えているんですか？」
ミカエルが聞いた。
「ガーベラの儀式？」
「すごい儀式があって、ガーベラが王妃になって我々と愛し合ったでしょ。王妃はごまかしてましたけど、きっと王妃自身も我々と仲良くなったあれですよ。あの後王妃はガーベラから
すごい花をもらって、その花のお茶を我々の彼女やカーラさんが飲んだんです。カーラさんはそのおかげで妊娠中なのに元気いっぱいなんですよ」
ゆりは他人事のような表情をしていたが、やがて、「そういえば、何かあったような……」と言い出した。
「霧がかかったようにはっきりとは思い出せないけど、私は何かいいことをして花をもらったのかしら？」
「ガーベラの儀式を手伝ったんですよ」
「へー」
「なんで全部忘れちゃったんでしょうかねえ。ハロルド様のいたずらにしてはおかしいし」
ミカエルは首をひねっていた。
それにしても、私って女は神様を殴るは、股間を蹴飛ばすは、一体何してんだ！？
今更ながらに自分を恐ろしく思っているゆりだった。
その日の夕方、聖地の神官が城にやってきて王と二人きりで会いたいというので、ラクシュミは客間で会うことにした。その神官が城に来るのは３度目である。
若くて人が良さそうな顔をした神官だった。
「遠路はるばるようこそ、今日は私に用だとか？」
ラクシュミは丁重に神官を出迎えている。
「先ほど王妃様に会ってきたんですが……まどろっこしいので暴露すると、僕はクーリーフンです」
「え？」
「今は人間に化けているんですよ」
ラクシュミは目を見開いて男の背中を見た。もちろん翼はない。
「本当にクーリーフンなのか？」
ラクシュミは信じられないといった面持ちである。男の外見は全くの別人だった。
「そうなんです。さっき王妃様に会っても、全く僕のことがわからないようで……ハロルドに行ってこいと言われてきたんですが、あの人は一体どうしちゃったのか、僕にもさっぱりわからないんですよ」
神官、クーリーフンはちょっと困った顔つきだった。
「やっぱりアシュラン様が何かしたとかじゃないのか？」
ラクシュミが聞いた。
「アシュラン様ならば、中途半端なことはしないでしょう。神と関わった痕跡さえも消して行かれるはずです。あなた方はガーベラや僕のことを覚えているようだし、神からの贈り物も
部屋においたままというのはどうもおかしいです」
「神の国で、何か変な物でも食べてきたんじゃないのか？ それで記憶が飛んだとか」
「はあ……そういうものはそこらにないですし……」
クーリーフンはちょっと考えて言った。
「ガーベラはこのことを知ってるのか？」
「知りませんよ。知らせると面倒なことになりますから」
「そうか」
勝手に部屋の扉があいた。入ってきたのはミシェイラである。
「神官さん」
「こんにちは、王女様」
ミシェイラは変身したクーリーフンの横に勝手に座っている。
「ミシェイラ、今大事な話をしてるんだぞ」
ラクシュミがたしなめた。
「いいですよ。もう話はほとんど終わりましたから。王女様、門のところまで送ってください」
「うん！」
ミシェイラは、クーリーフンの手を引いて行った。
「それではこれで」、とクーリーフンが頭を下げて、「ご苦労でした」とラクシュミは返した。
「……女の勘か？ すごいな」
二人がいなくなったところで、ラクシュミはミシェイラの勘に感心し、（アシュランの仕業ではないのか。じゃあなんだろう？）とゆりの記憶喪失を不思議がった。
（ハロルドとのやりとりを全部忘れられたんじゃ、そりゃハロルドはがっかりしてるんだろうなあ……）
ラクシュミはハロルドの気持ちを考えていたのだった。
神の国に帰ったクーリーフンは、（何が原因でああなったのか、さっぱりわからない）と首をかしげていた。ハロルドは自分の神殿にいなかった。
「うーん、まあ後でいいか」
ハロルドを探すのも面倒になったのか、クーリーフンは飛んでいこうとして、ちょうど空から下りてきていたグレンと出くわした。グレンはキュリアを連れてきたようだ。
「お兄様」
「やあキュリア、ハロルドがどこにいるか知ってる？」
「空の神殿にいますよ」
「ありがとう。グレンちょっと」
「はい？」
クーリーフンはグレンを連れて、神殿がある雲の上に降り立った。神殿の入り口にはだれもいなかったので、クーリーフンは、「あのさ、あっちのお母さんに最近あった？」とグレンに聞いた。
「え？ あ……私があちらのガーベラ様に出会ったのは、あの鳥が生れたときですよ。あれからは出会ってないです」
「そうかあ」
クーリーフンは頬をかいている。
「どうかしたんですか？」
「それが……」
その時ちょうど神殿からハロルドが出てきた。
「あ」
「さっきあっちの様子を見てきたけど……僕にもさっぱり理由はわからなかったよ」
クーリーフンは近づいてきたハロルドに伝えた。
「うーん……」
「実はあっちのお母さん、神様の記憶をなくしちゃって、僕らとのやりとりだけ綺麗さっぱり忘れちゃったんだ」
「ええ！」
グレンは驚いている。
「アシュラン様が何かされたんでしょうか？」
グレンは恐る恐る言った。
「でも、神からの贈り物は彼女の部屋に置きっぱなしなんだよ。アシュラン様の仕業にしてはおかしいんだよねえ」
クーリーフンは腕を組んでいる。
「アシュランの様子もいつもと変わりない。一言何かあってもよさそうなものだし……あの女が前回ここに来たのはいつなんだ？ それと関係あるのか？」
ハロルドが聞いた。
「僕が調べた所によると、彼女が前回まわったのは、カサンドラの神殿と、火の神殿、最後はオルガの所にいたようだよ。でも、別に特別なことはなかったようなんだよねえ。
でも記憶をなくしたのはその後のようなんだ」
「こうなったらアシュランに聞いてみるか」
ハロルドがずばりいい、グレンはちょっとびびった様子だった。
「大丈夫でしょうか。何かよからぬことになりそうで怖いんですが……」
「アシュランの仕業じゃないのなら、理由くらい探ってくれるだろう」
「そうですかねえ……」
「あいつが関係してるのなら、教えてくれるはず。聞いてくる」
ハロルドはくるりと身体を回転させた。
「本当に大丈夫なんでしょうか？」
「理由がわからないからなあ……なんともいえないけど……」
二人はちょっと不安顔である。
アシュランの間からは笑い声が聞こえてきた。アシュランは女の妖精達と会話中だったようである。
「悪い、ちょっと用があるんだが」
ハロルドは広間に入って会話に割って入り、「それでは失礼しますね」と女の妖精達は去って行った。
「なんだ？ また戻ってきたのか？」
とアシュランが聞いた。
先ほども、ハロルドはここでアシュランと当たり障りのない会話をしてアシュランの様子を探っていたのだった。
「二人っきりで重要な話がある。ちょっと結界を張ってくれ」
「？ わかった」
アシュランは素早く結界を張った。
「実は、あっちのガーベラが、こっちでガーベラになっていた時の記憶をすっかりなくしているんだ。私とのやりとりも忘れてる」
「あっちのガーベラが？」
アシュランはぽかんとして聞いた。
「人間としての記憶は覚えている。神々とのやりとりだけ忘れているんだ。アシュランが何かした覚えはあるか？」
「私が？ いや？」
「なら、なぜ記憶をなくしたんだ？」
「さあ。私にもさっぱりわからんが……何かショックなことでもあったとか？」
「ショックなこと？」
「でなきゃさっぱりわからん。私は何もしてないぞ」
「そうか」
ハロルドはアシュランからさっぱり情報は得られなかったのでがっかりした。
「前回ここに来たときは、だれと出会ったんだ？」
「あっちのガーベラが行ったのは、カサンドラの神殿、火の神殿、最後にオルガのところにいたそうだ」
「そうか。気になるな。ちょっと探ってみるか」
「頼む」
ハロルドは去って行った。
疑問に思ったアシュランは、その夜、ゆりに会いに行った。ゆりは自分のベッドでぐっすり眠っている。まさか最高神が自分の元にやってきたなどと思いもしないだろう。
アシュランはゆりの頭に手をあててみた。
そして頭の中を探ってみた。
ゆりの記憶を遡り、あるところで止まった。
（ん？）
そこから記憶を遡れない。だが、別の、人間としての記憶だけは遡れた。
（なんだ？ 何かがある。扉のような……なぜこんなものがあるのだ？ 神々と接した記憶にだけに扉が……だれがこんなことをした？ ヒルデリアか？」
人間の記憶操作など上の方の神でなければできないし、アシュランは、まずヒルデリアしか思いつかなかった。
（ヒルデリアがこの王妃の秘密に気づいて？ にしては変だが……）
その前に自分に何か言いそうなものである。
（この扉の直前の記憶が気になるな……）
ゆりがだれとどんなやりとりをしたのか、それが気になったアシュランは記憶の扉を開けようとしたのだが、扉は頑丈で、無理に開けることはためらわれた。
（うーん……）
アシュランはこれ以上記憶を探ることはやめて去って行った。
（人間の記憶操作か……だれがやったのか……ヒルデリアでなければカサンドラか？ ガーベラの時中身が人間だと気づかれて？ 私に言うと人間が罰せられると思って黙ってやったとか？
いきなり記憶操作をするなんて強引すぎるし、よっぽど怒らなければそんなことはしないだろう。他に記憶操作ができる神といったらだれだ？）
神の国に戻ってもアシュランはそのことが気になっていた。
（あの頑丈すぎる扉が気になる。他の神がしたことならば開けることはたやすいと思うが……）
「うーん、なんだか嫌な予感がする……」
自分の広間をうろうろ歩いていたアシュランは、何かの予感を感じて広間の奥にある小部屋に入った。台座に乗っているのものに被さっている布を剥ぎ取ると、大きな水晶玉が輝いていた。
「何か用か？ いや、何も聞きたくない。何か良からぬことを言うつもりじゃないだろうな」
アシュランは嫌そうな表情で水晶玉に話しかけていた。
『元気そうだな』
大人の男の声が聞こえてきた。その声の主の姿を、アシュランは長い間見てはいない。だが、声はごくたまに聞いている。
闇の世界の王と呼ばれる存在、闇の神である。
「いや、あまり元気じゃない」
『神が大勢増えたそうじゃないか。よかったな』
「ありがとう。それじゃ」
アシュランはさっさと白い布を水晶玉にかぶせようとしていた。
『話はこれからだ』
「ぐ……嫌な話じゃないだろうな」
『まあ嫌な話だな』
「なら聞きたくない」
『子供のようなことを言うな。単刀直入に言う。神を一人こちらによこせ』
「なんだと？」
アシュランは白い布を握りしめたまま、目を見開いていた。
『星の神が一人欲しい』
「な……」
『オルガに話をつけろ』
「そんなことできるわけないだろう。無理だ」
アシュランは叫ぶように言った。
『無理ではない。真、星の神ならば、こちらにきてもいいと思うはず』
「オルガを説得するのは無理だ」
『子供を説得しろ。オルガは諦めたんだ。オルガの子供がどうしても欲しい』
声の主は全く諦めそうになかった。
「一人っきりの子供をそっちにやるわけない」
『子供は双子だともう知ってる』
「……もしや見に来たんじゃないだろうな」
アシュランは恐る恐る聞いた。
『まさか。遠見に長けた神がこちらにいるのだ』
「本当か？ もしかして、ガーベラの記憶を操作したのはお前じゃないだろうな。何かを悟られたんで記憶を消したんじゃないのか？」
アシュランはそこまで推理していた。
『ガーベラに闇の痕跡でもあるのか？』
「ない。だからお前自身がここに来たわけではないだろう。だが、ガーベラの記憶を操作した神が誰かわからん」
『それは知らん。では、星の神のことは頼んだぞ』
水晶玉の輝きは消えた。
「やっぱりあいつが？ しかしどうやってきたんだ？」
アシュランは水晶玉に布をかぶせた。
アシュランの力は今衰えてはいない。今ならば闇の力が神の国に入ればすぐに察知することができるだろう。
（何も感じることはなかったが……そういえば、あっちのガーベラが最後に出会ったのはオルガだと言ってたな。オルガはあいつから生まれた神。
あいつはオルガの中に入って直接星の子を見たのかもしれない。それを偶然あっちのガーベラが出会ってしまったんで、記憶を消した？ 自分に出会ったことだけ消したつもりが、
中身があの王妃だったために、神の記憶が綺麗さっぱり消えてしまったのか？ そうだとしたらつじつまがあうな）
自分の闇の気配を完全に消してそんなことをしたということも恐ろしいが、アシュランの思考は、すぐに別のことに奪われていた。
オルガにこの話をどうつければいいのかである。
「子供をやるなんて絶対了承するはずがない」
アシュランの脳裏にはオルガの怒った顔が浮かんでいる。
「頭が痛くなってきた……そうだ、無視しよう。交渉中ということで、１００年、いや１０００年ほどもたせよう。そうしよう」
などと言っていたら、水晶玉が再び光り輝いた。
「今度はなんだ」
アシュランは再び布を取った。
『話はすぐにつけろ。長引かせる気なら、別のものをいただくからな』
「げ」
輝きは消えた。アシュランの考えはすっかりばれていたようである。
「あーもー誰かなんとかしてくれ……」
アシュランは水晶玉に乱暴に布をかけて、よろめくように小部屋を出て行ったのだった。
つづく
１１部
目次