第8話
まず目に飛び込んできたのは、黄金の豪華な巻き毛だった。お尻あたりまである巻き毛は、感嘆するほどに美しく輝いている。
その姿も美しく、豊かな胸で腰もくびれて、脚も長く、素晴らしい体型の持ち主だったが、顔は見えなかった。
その人物は両手で顔を覆ってうなだれていたのである。
悲しい雰囲気が伝わってきた。
どうやら泣いているようである。
（どうして泣いているんだろう？）
気になったが、声をかけることはできなかった。
朝目覚めたゆりは、夢を思い返していた。泣いていた女神らしき女性の夢を見た。
「あれって、ガーベラ様かな？ 石像にそっくりだったし」
あんなに見事な髪の女性は、他にはいないだろう。
「泣いてた？ どうしたんだろう……」
私が原因、でもないだろうし、なんだか気になるな……
気にはなったが、確かめる術はなかった。子供達に言うと心配させることになりそうだ。なぜなら、子供達はガーベラが大好きなのだから。
きっと実物は、すごく綺麗なんだろうなあ……
女神が泣いている理由がしばらく気になって仕方なかったゆりだった。
神の国である。
夜の神オルガは、星の神である子供達に例の話をした。そして、子供達の一人、ティカは、「僕が行く」といともあっさりと了承したのである。
夜に属する星の神は、他の神々に比べて闇に対する恐れは低いようである。
神としての力をより発揮できる場へと、その住処を変える決心をしてしまった。
オルガにとっては、（やはりな）という感じであったが、その話を聞いたガーベラが憤慨したのも無理はない。
「そんな大変な話をどうして勝手に決めてしまうの！？」
ガーベラはオルガやアシュランに怒り心頭だった。
「男ばかりで決めてしまうなんてひどすぎるわ。私は母親なのに！」
ガーベラは、ティカにも「考え直してちょうだい」と懇願したのだが、ティカの考えは全く変わらなかった。
「お母さんごめんなさい。ここにはティラがいる。僕は、唯一の神として違う世界に行ってみたいんだ」
とまでいう始末である。
「もう二度と会えないのよ？ あなたが成長してももう見ることはできない。あなたに会うのに一万数千年もかかったというのに、こんなに早く会えなくなってしまうなんて！」
ガーベラが泣きながら訴えても、ティカは、ガーベラに申し訳なさそうな顔をしたが、考えを覆すことはなかった。
「母親って一体なんなのよ。ひどすぎる」
闇の世界は、ガーベラにとっては未知の世界である。噂で聞くこともあまりない。そんな世界にティカが一人で行くなど、母親としては耐えられないものがあった。
「大体あっちの世界とは仲が悪いんでしょう？ どうしてティカが行かなきゃならないの？」
ガーベラの横にいたクーリーフンは困った表情だった。クーリーフンもガーベラと一緒に話を聞いたくらいである。
オルガに「正気なの？」と聞いたほどだった。
「僕にもよくわからないよ。オルガが何を考えているのかもわからないし……」
「どうにも怪しいじゃない。あっちの話はあまりしちゃだめだ、とか言ってたくせに、どこからそういう話がきたのよ。あっちには私のことを気に入らない神がいるんでしょ？ ティカが辛く当たられたら
どうするの？」
「そーだねえ」
「私よりも先に子供達に話をするなんてひどいわ！」
「…………」
クーリーフンにも、どうガーベラを慰めていいのかわからないようだ。
いったん話が決まった以上は、ガーベラがどう反対しても、話が覆ることはないだろう。
ガーベラは雲の上の神殿にやってきた。
アシュランに会いに来たのだが、アシュランは不在だった。
「いつ帰ってくるの？ 帰ってくるまで待ってるから」
「ガーベラ様」
ガーベラの怒った様子にグレンも困り顔である。今回の話は、アシュランとしてはあまり公にはしたくない話だった。ガーベラがここでごねていると、どうしても話があちこちに広がってしまう。
それは、ガーベラにとってもよくない。
「ガーベラ様、ひとまずは――」
「ガーベラ、こちらへおいで」
その場にやってきたのはヒルデリアだった。
ガーベラは、ヒルデリアの私室へと移動した。
「ヒルデリア、ティカのこと、聞いてるんでしょう？ 今回のことはひどすぎるわ。同じ母として、私の味方をしてちょうだいよ」
ガーベラはヒルデリアに訴えた。
「ガーベラ、そなたの気持ちはわかる。だが、アシュランに異議を唱えたところで、状況は何も変わることはないだろう」
ヒルデリアも沈痛な面持ちだった。
「どうして？ どうしてなの？ どうしてあっちの世界に子供をやらなきゃいけないの？」
「ティカは嫌がらなかったのだろう？ 強引に話が決まったわけではない」
「そうだけど、私は母親なのよ！ 私の感情は無視なの？ しかも、他の神々にあまり知られないようにってどういうことなの？ アシュランに断固抗議するわ。今度ばかりは納得できないわ！」
ヒルデリアの部屋では、すでにヒルデリアが結界を張っていた。二人の会話は、だれも聞くことはできない。
「ガーベラ、ようくお聞き。ティカのことを覚えていたいならば、アシュランに異を唱えるのはやめなさい。アシュランにも考えがあってこうなったのだよ。今回のことが騒ぎになれば、
それはかえってガーベラによくないことになる」
「でも、もし、ティカではなく行くのがジェイクなら、ヒルデリアだって抗議するでしょ？ ジェイクがいくら行くといっても、やめてと言うはずよ！」
「ガーベラ……私は昔、息子を一人失った。私の息子は罪を犯して、アシュランはあの世界へと息子を強引に送ってしまったのだ」
「え……」
ヒルデリアの告白に、ガーベラは声を失った。
「他の神々は、あの子のことは覚えてはいない。忘れてしまえば悲しむことも、心配することもなくなるだろうが、私はあの子のことを忘れたくない。
だが、あの時と今回では状況が違う。ティカは望まれて、自らの意思で行くのだろう？ 幸いオルガはあの世界に行くことができる。
ティカの様子をうかがうこともできるだろう。ティカがかわいいなら、事を荒立ててはいけない」
「…………」
「私はあの子に別れの言葉を言うこともできなかった。ガーベラ、いいね？ ようく考えるのだよ。ティカのことを永遠に心配したかったら、アシュランに抗議してはいけないよ」
ヒルデリアはガーベラの手を握りしめて諭すように言ったのだった。
ヒルデリアにもそんなことがあったなんて……その子が何をしたのかしらないけど、ヒルデリアも辛かっただろうな……
ヒルデリアの告白が衝撃的すぎて、ガーベラの怒りはちょっと収まっていた。
ヒルデリアがこんなにも長い間、失った子供の心配をしつづけていたなんて、ガーベラには思いもしなかったことだった。
一人神がいなくなれば、周りの神はいずれそのことに気づくだろう。説明すればどうしてあっちの世界に行ったのかと、騒動になるに違いない。
となれば、ティカがいなくなった後には、神々の記憶からティカはいなくなる。
アシュランに猛抗議すれば私の記憶からも……
じゃあこの怒りは一体どうしたらいいの？ だれにぶつければ……
ガーベラは地上へと降りて夜の神殿へと移動した。ベッドで寝転んでいた双子は、起きていた。
「お母さん」
「お母さん、ごめんね。僕、お母さんのことが大好きだよ」
ティカは申し訳なさそうに言った。ティラは寂しそうである。
「ティカ、本当に行ってしまうの？ もう、二度と戻ってくることはできないのよ？」
「わかってるよ」
「まだ生まれたばかりなのに」
「でも僕はもう、立派な神なんだよ」
子供なのに、大人びた表情でティカは言った。
「もうどうにもならないんだわ」
自分の神殿に戻ったガーベラは、がっくりうなだれてクーリーフンに愚痴ていた。
「母親の意見なんて無視なんだわ。ひどいわ。みんなに腹が立つわ」
「気持ちはわかるけど、アシュラン様にあまりぐだぐだ言わない方がいいよ」
クーリーフンはやんわり言った。
「わかってるわよ。ヒルデリアにも散々言われたわ。怒って悲しんでいる間にも、別れの時は近づいてくるんだわ。あの子にも、最後のお別れをさせてあげた方がいいかしらねえ」
ガーベラはふとゆりのことを思い、クーリーフンは、「あ、やば……実はさあ……」とはじめてゆりが神々の記憶をなくしていることを伝えたのだった。
「どうしてそんな重大なことを私に言わないのよ！」
ガーベラにとってはダブルショックである。
「言ったらお母さんがショックを受けると思ってさ、言いそびれているうちにティカのことがあったから……」
クーリーフンは頭をかいている。
「みんなひどいわ」
ガーベラはぷんぷん怒ってしまった。
夜、人間界にいたゆりは一人で眠り、夢の中でガーベラに出会っていた。豪華な髪の女神は、顔もやはり美しかった。
「私のこと、本当に忘れちゃったの？」
ガーベラが悲しそうに聞いた。
「ガーベラ様」
「思い出した？」
「え、その、石像に似ているから」
とゆりが言うと、ガーベラはがくりと肩を落としてた。
「ごめんなさい」
「私はあなたがとても好きだったのよ。あなたと身体を取り替えて遊んだの。気がつくととんでもないことがいろいろ起っていて楽しかったわ」
とガーベラ。
女神の身体からは、とてもいい匂いがした。まるで花園の真ん中にいるようである。ゆりはこの匂いをかいでいると何かを思い出しそうだった。
この匂いをよく知ってる。そんな気がする
私はこの匂いがとても好きだった気がする
「私の話を聞いてちょうだい」
ガーベラはゆりの手を握りしめて言った。
「話？」
「とてもひどいことがあったんだけど、あっちではクーリーフンにしか文句もいえないのよ。だからあなたが聞いて」
「は、はい」
ゆりはガーベラの横に正座をして、ガーベラの話を聞いた。
「私には双子の息子がいるんだけど、その一人が……」
ガーベラは息子の一人が別の世界に行くことになったとゆりに打ち明けた。しかもその子も乗り気らしいとも。
「私が腹が立つのは、私には話が決まってから伝えたってことよ。そんな重大なこと、最初に言って欲しかった。オルガよりの子供でも、私の子供に変わりないのに。
私の言ってること、間違ってないでしょ？」
「間違ってないですよ。でも、もし最初に伝えられてたらどうしたんですか？ その子に伝えました？」
「伝えない。全力で阻止するわ。だって、二度と会えないのよ。神の時間で『二度と』は、ほんと長いんだから。世界が終わって神々の世界がなくなるまでのことよ」
「そりゃ長いですね」
「オルガもひどいわ。オルガはティカに会えるかもしれないけど、私は会うことはできないのに」
ゆりにはその時よくわかっていなかったが、父親であるオルガは、その別の世界とやらに行くことができるらしいということは理解できた。
「でも、元気かどうかは伝え聞くことはできますよ」
「私はじかに、ティカに会いたいの！！」
ガーベラは怒りながらも涙で目を潤ませていた。
「ついこの間、生まれたばかりなのに……千年も一緒にいなかったのよ！」
ガーベラはぼろぼろと涙をこぼしていた。
ガーベラの涙にゆりの心も痛んだ。
そしてその痛みとともに、ゆりは何かを思い出しかけた。
ん？ なんだ？ なんだっけ？ 何か……
ゆりは自分の心の奥をかきわけるようにして何かを探した。
私にとってはとっても重要なこと……とっても、とっても重要な……
その時、霧が晴れて、ガーベラの笑顔が心の中に浮かんだ。
「あ……あー！！ ガーベラ、ガーベラ！！！」
ゆりの叫びに、ガーベラははっと涙を止めた。
「何？ 思い出したの？」
「思い出した。ガーベラ。私の大事なガーベラ様だ」
ゆりは泣き笑いのような表情でガーベラに抱きついた。
「思い出してくれたの？ よかった」
ガーベラもゆりに抱きついて、二人は抱き合って泣いていた。
思い出したわ。なんで忘れていたのかしら。私にとってはとっても大事な人なのに。家族のように大事で、守ってあげたい神様……
神様を守ってあげたいってのも変だけど、ガーベラは私にとっては守ってあげたい人だ……ガーベラの笑顔が大好きだから、いつも笑っていてほしかった
ゆりは今までガーベラが関わった様々な記憶を思い起こしていた。自分がガーベラになってしたいろんなことも。ガーベラに助けられたこともあった。
「なんで記憶喪失になったの？」
「どうしてかしら？？ 私にも不明です」
ゆりはオルガに出会ってから記憶をなくしたことまでは分らなかった。
「さっきの話なんだけど、違う世界ってどこ？」
「暗ーい世界よ」
「あの世界のことなの？ どうして？ 敵対してるんじゃないの？」
「私にもよくわからない。オルガは、ティカがあっちで必要とされてるからだとか、さっぱり分らない説明しかしてくれないし、むこうの力が増したらこっちもまずいはずなのに、それについては
どうなのよ。やっぱりわからないわ。何か脅されてるのかも？ 大体なんでティカが行かなきゃならないのよ」
ガーベラはぶつぶつ言いながら怒っている。
ゆりはオルガの顔を思い出していた。
「オルガにも何か深い考えがあってのことだと思うよ。だって、大事な子供なんだもの」
「私に相談もなしに子供達に話すなんてひどいと思わない？」
「確かにひどいねえ」
どうやらガーベラはそこに一番怒っているようだ。
「ティカは乗り気で決めちゃうし、それもひどいわ！！」
「アシュランに文句言った？」
「殴りたい」
「え？ それはまずい……」
「ヒルデリアに止められたけど、文句言って殴りたい！」
ガーベラは拳を握りしめて過激に言っていた。
「ガーベラ、落ち着いて」
ゆりはつい、自分がハロルドを殴ったことを思い出していた。
ハロルドを殴ったゆりもアシュランは殴れない。
『あいつは何を考えているのかわからない。怖いやつだ』
ハロルドはアシュランのことをそんな風に言っていたが、確かに、アシュランは怖い存在である。
忘れかけていたが、アシュランは最高神であり、この世界を作った神なのである。その気になれば、ゆりの存在を消すことだって簡単にできるだろう。
ゆりは頭の中で整理していた。
向こうの世界にオルガの子供が望まれているようだ。オルガはガーベラに相談なしに子供たちに話し、ティカはかなり乗り気で行くと言った。
なぜオルガの子供が望まれたのかはなぞだが、オルガとアシュランの間に、ガーベラも知らない話がされているのではないだろうか？
ゆりにもそこまでは推理できた。
確かに、あの恐ろしい世界に息子をやるなんて考えられない
ゆりは人間界でファリーヌという恐ろしい女に襲われている。ガーベラを毛嫌いしているあの女のことを、今も覚えていた。
ティカが行ったらいじめられるかもしれない。第一、日々笑って生きていける世界なのだろうか。
「ティカは、どうしてあっちに行きたいのかしら？」
「向こうにいって自分の力を発揮したいと考えてるのよ。生まれたばかりなのに、一人前の神だと思ってるのよ」
子供でも、もうすでに自分の意思をもっている。子供の巣立ちを、普通ならば応援すべきところだろうが、行く場所が悪すぎる。
「アシュランに文句をいっちゃだめだって、ヒルデリアに止められたわ。最悪、ティカがいた記憶をなくされてしまうって。一生覚えていたかったら、何も言うなって。
そう言われたって……」
ガーベラは悲しげに泣いている。
「こうなったら、アシュランに交渉するしかないわ」
ゆりが言った。
「何を交渉するの？」
「ティカが向こうに行くのは止められないとしても、何かできるかもしれない。ちょっと私も頭を整理したいわ。いろいろ思い出したばかりで頭がごっちゃりなってるから、
明日の夜に身体を貸してくれる？ いや、私達とガーベラ、３人でアシュランに会いに行きましょう」
「……大丈夫かしら」
ガーベラはちょっと不安そうである。
「アシュランを怒らせたらおしまいなんでしょ？ そこはもうわかったから大丈夫よ」
「わかったわ。私もそれまでに心を落ち着かせておくわ」
ガーベラは消えて、ゆりは目を覚ました。まだ夜明け前だ。
イカとカニを鮮明に思い出したわ。真珠のことも。あの石の箱のことも。あんなにいろんなことがあったのにころっと忘れちゃうなんて……
そもそもどうして私は記憶をなくしたのかしら？ 神様のことだけなんて……アシュランがしたわけでもないだろうし……
「記憶をなくす前は何をしてたっけ？ えーと……」
ゆりは記憶を思い返し、星の双子を見たことを思い出した。
「それからわからない。そこにはオルガがいて……それから？」
それにしても、オルガはどうして反対しなかったんだろう？ 何か深いわけがあったんだろうけど……
ティカの闇の世界行きを止められないとしても、ガーベラのためにも、何かしてあげたい
記憶が戻ったものの、ゆりはその日は一日もんもんとして過ごしたのだった。
（お母さん神様の記憶が戻ったんだって）
（えーそうなの？ よかったね。それで何してるの？）
（ぼーとしてる）
ゆりの部屋の外では、シスとラギがぼそぼそ話していた。
ゆりは自分の部屋で分厚い神話の本を眺めていたが、最初の１ページ読んだだけで、後はぼんやり考え込んでいた。
「あーもーどうしよ！！」
ゆりがいきなり叫びだしたので、シスとラギは部屋の中をのぞいていた。
「どうしたらいいのかわからんー」
アシュランに会おうといったものの、何をどう言えばうまくいくのかわからない。
穏便に、アシュランを怒らせないように、ガーベラが悲しまない方法が何かないだろうか。
「うーん、むずかしい……私が口を出したらいけないような気もするし、でも、このままじゃ、うーん、やっぱり……」
シスとラギはゆりの部屋から去って行った。
その日一日考えたゆりは、夜、神の国に移動していた。
ゆりはガーベラだった記憶を失っていたので、久しぶりのような気がする。ガーベラの神殿にはだれもいなかった。
（とりあえずオルガに話を聞こう。ガーベラはちゃんと話を聞いてない気がするし……）
ゆりはオルガの元に移動した。オルガは子供達のベッドの端に座っていた。
（前回もここに来たわ。オルガは立っていて、それで……何か話したっけ？）
「ガーベラ」
オルガがこちらに気づいた。オルガの瞳には星の輝きがあった。
「ねえオルガ、オルガは今回のこと、納得できてるの？」
「……ああ。本当にすまないガーベラ。私だって子供を離したくはないが……」
（そうだ。あの時のオルガの瞳は真っ黒だった。あれから記憶がない。記憶がなくなったのはあの時からかもしれない。あれは一体だれだったんだろう？
オルガじゃない？ オルガじゃなかったらだれ？）
「ねえ、オルガはどうして向こうの世界に行けるの？」
ゆりは聞いてみた。
「私が夜の神だから。向こうの世界には少し耐性がある」
「オルガの瞳から星の輝きがなくなることなんてある？」
「ん？」
「私、そういうオルガ見たの。あれはだれだったんだろう」
「いつだ」
「……大昔」
最近だというと大変なことになりそうな気がして、ゆりはそう言った。
「どこで見た？」
「思い出せない。夢で見たのかもしれない」
「そうか。向こうには、我々と似た神が存在している。私に似た神もそこにいる」
「向こうにも夜の神がいるの？」
「いや、闇の神、私はあの男から別れた神なんだ」
（闇の神？ 闇の……それって……もしかしてむこうのボス？）
ゆりはぞぞっとするのを感じた。
（じゃああの時私が出会ったのはもしかして……あちらのボスがオルガの身体を乗っ取っていたとか？）
ゆりは自分の考えにさらにぞぞっとしている。だが、神の国は平和そのもののようだし、もし闇の神がオルガの元に来ていたとしても、たいして何もせずに帰ったということになる。
闇の神は星の神を見に来ただけ？
私に見られてしまったから、私の記憶を消して、それで神の記憶が消えてしまったのかしら？
そう考えると、すべてのつじつまがあう。
「どうしてティカが向こうに望まれているの？ 他の神とこの子達はどう違うの？」
「この子達ならば、向こうの世界でもこのままの姿を保っていられるだろう。元々夜にしか活動しないから太陽の光を恋しがることもない」
「なるほど、いずれ向こうと争うことなんてあるの？」
「ないと思う」
「ティカは向こうで楽しく暮らせるのかしら」
「それはわからないが、私達の息子だ。ないがしろにはされないだろう」
「わかった。ありがとう」
ゆりは眠ったままの子供達を眺めて、寝室を出て行った。オルガは何かいいたそうな顔をしていた。
次にゆりが移動したのは、泉の側だった。
「あれ？」
目の前には泉につかっている裸のハロルドがいた。この泉は、見たことがある泉である。
「ここって癒やしの泉でしょ？ 怪我でもしたの？」
「いや、仕事の後なんで手っ取り早く禊に……あれ？ お前、お前か？ 記憶が戻ったのか？」
ハロルドは驚いた様子でゆりを指さしていた。
「うん。戻ったの。今からアシュランに会うからついてきて」
「何か用なのか？」
「うん。証人になってほしいの」
「証人？ なんか危ないことを言い出すんじゃないだろうな」
「多分危ないこと」
「はあ？」
「とにかく服を着てついてきて」
「なんなんだ全く」
ハロルドは泉から上がり、布で身体を拭いて服を着ていた。
「一体何の話なんだ？」
「まだ秘密」
「じゃあつれてかないぞ」
「嘘よ。ただ挨拶にいくだけよ」
「行かなくていい」
「とにかく行くの。ハロルドが行かなくても勝手に行くわよ」
ハロルドは渋々ながらもペガサスにゆりを乗せて行ったのだった。
今日はアシュランは雲の上の神殿にいた。
ゆりがハロルドと行くと、アシュランは驚いた様子だった。
「お前、記憶が戻ったのか？」
「はい、すっかり戻りました。心配してくれました？」
「別に」
「それでティカのことなんですけど」
「お前が口を挟んでいい話じゃない」
アシュランはずばっと言った。ハロルドはちょっと不安そうにゆりとアシュランを交互に見ている。
「それにその話はハロルドはしらん」
「え？」
「何の話だ？」
ハロルドが聞いた。
「ティカを闇の世界に行かせる話」
ゆりがあっさり暴露してしまい、ハロルドは恐れた表情で後ずさっていた。
「何？ 一体どういうことだ？」
アシュランは苦い表情である。
「私はお前のことは結構気に入っているんだぞ。それ以上言うと、お気に入りじゃなくなるぞ」
アシュランはちょっと脅すように言っていた。
「アシュラン、一体どういうことなんだ？」
ハロルドが聞いた。
「向こうに望まれて、ティカが行くって言ったの。星の神として、自立したいって。そのことについて文句を言いに来たんじゃないんです。母親としての権利を、ガーベラにあげて欲しい。
せめて、一年に一度はティカの声を聞かせてあげて欲しいんです」
「無理だ」
「じゃあ１０年に一度」
「無理だ」
「５０年に一度。お願いですから」
「無理なんだ。向こうにいけば、もう、接触はできない」
「抜け道があるはずです」
「ない」
「いや、あるでしょう。向こうからの要望はどうやってきたんです？ 手紙ですか？ 意思の疎通ができるものがあるはずです」
「オルガに伝言を頼めばいい」
「直接声を聞かせてあげて欲しいんです。たまにでいいから」
「…………」
ハロルドもさすがに恐ろしくなっていた。
「ガーベラ、もうやめろ。さすがにお前が口を挟むことじゃない」
「お願いします。一生心配するだけなんて、ガーベラが不憫です。向こうの人に交渉してください」
アシュランははーと息を吐いていた。
「……伝言貝をオルガにもたせて、ティカの声だけ持ち帰る、くらいなら許可する。それでいいだろう。ガーベラ」
「ありがとう！」
「じゃあもう行け」
「はい、失礼します」
ゆりはさっさと広間を出て行った。
その場に立ちすくんだままのハロルドは、アシュランに「正気か？」と聞いていた。
「あ？ まあガーベラに駄々をこねられるよりはそのくらい許可した方がいいかと」
「そっちじゃない。なぜ神をあちらにやるんだ？ この前も争ったばかりじゃないか」
「あれは個人的なことだ。星の神ならば、あの世界でもあのままの姿でいられるだろう。やつの力が衰えたままってのはまずい。他の連中を抑えられなくなったらまずいだろ」
「はあ……？」
ハロルドは全く理解していない様子だった。
「さっぱりわからん。神官達は、いつでもあっちのやつらと戦ってるんだぞ？」
人間の神官を抱えているハロルドにとっては、今回の話はかなりの問題である。
「それは人間の問題で神の問題じゃないんだ」
「はあ？ 命を落とす神官だっているんだぞ？」
「この世の中はお前が思っている以上に複雑なんだ。私の考えを理解している者なんてのは、この世にはいない。ゆえに最高神ってのは孤独なものだ」
「よくいうな。しかし、ティカがいなくなったことに、他の神々が気づいたらどうするんだ？ その理由を皆に言うのか？ 皆が納得するか？」
「だれも何もいいやしない。いずれ、ティカがいた記憶を皆失うからな」
「ええ！？」
「一部の神の記憶にだけ残る」
「…………」
「別れは今夜だ。ハロルド、オルガに伝えに行け」
「……分った」
ハロルドは文句も言わずに広間を出て行った。
別れの夜になってしまった。
ゆりはすでに人間界に帰っている。ガーベラとクーリーフンは別れを惜しみに夜の神殿にやってきていた。夕暮れ時にはヒルデリアとグレン、カサンドラもやってきた。そのほかの神は知らないままである。
時々でもティカの声を聞く許可を得られたガーベラは、今はもう笑みを浮かべて、ティカを送り出そうと努めていた。悲しんだままの別れなんていやだったからだ。
「ティカ、元気でいてね」
「お母さんもね」
ガーベラはティカをぎゅっと抱きしめた。
「お母さんの匂い、ずっと忘れないから」
「ティカ」
星が輝く夜、オルガに連れられて、ティカは空を飛んで行ってしまった。姿が見えなくなってから、ガーベラは泣き崩れてしまった。
「お母さん」
クーリーフンも泣いていた。ティラの目にも涙がにじんでいる。
ガーベラはティラの頭をなでて胸に抱きしめた。
闇の世界である。
ティカはオルガと離れて、はじめて闇の世界を飛んでいた。
重苦しい空気である。アシュランの加護も、ここまでは届いていないということは肌で感じられた。
夜空は真っ黒な雲で覆われているようだった。星も今日は見えない。
夜空を眺めてぼんやりしていると、飛びながら近づいてくる者がいた。真っ黒な翼がある男である。
「やあ、いらっしゃい」
優しい声で、男は言った。
「こんばんは……」
ティカはまじまじと男の顔を見た。
「誰かに似ているかい？」
「うん、僕の兄弟に似てるよ」
「クーリーフンだろ？ 見たことはないけど知ってる」
「そうなの？」
「僕の名前はゲイル。おいで、城につれて行くよ」
ゲイルはティカを促した。
「ガーベラは泣いただろう」
「うん」
「よく決心したね」
「向こうにはティラがいるからいいんだ」
「ここでは向こうの神々の話はしちゃいけないよ。話したくなったら、僕にだけこっそり話して」
「うん、わかったよ」
「城が見えてきた」
真っ黒な城が見えてきた。その周りには町並のようなものが見える。
「ここでは神と人間は一緒に暮らしているんだよ」
「へーおもしろいね」
ティカは黒い城の中に案内された。
大きな広間には、長い黒い髪の神がいた。
ティカはオルガから、自分が闇の神から別れた神だと聞かされていた。
（お父さんを厳しくした感じ）
闇の神を最初に見た印象はこうだった。
「ティカです。初めまして」
闇の神は立ち上がってティカに近づくと、手を出して、ティカの頭をわさわさなでていた。
ゲイルはちょっと驚いた様子である。
「よく来たな。ティカ」
闇の神は一瞬、微笑んでいるような顔付きになった。ティカはその顔を見て、（お父さんに似てる）とそう思った。
闇の神との会話は少なく、ティカはすぐに広間を出て部屋に案内された。
「王のあんなにうれしそうな顔を見るのは久しぶりだよ。以前は……僕が生まれた時か、かなり久々だな。君が来てくれて相当にうれしかったんだね」
ゲイルが言った。
「そうなの？ 笑った顔はお父さんに似てた」
「はは、そうかい」
ティカが部屋に案内されると、髪の長い女神がひょっこり顔をのぞかせた。
「まあ、なんてかわいい男の子かしら」
「初めまして、ティカです」
「かわいい。私はダーナよ。はじめましてー」
黒い長い髪で、顔は光の世界のダーナとそっくりのその女神は、ティカの手を握りしめてぶんぶん振っていた。どうやら陽気な性格のようだ。
「ちょっとダルケス、見てごらんなさいよ。かわいい子供よ。男の子よ。早く来て」
ダーナが扉の方に向かって叫んでいると、渋々といった感じで背の高い男が入ってきた。
「あ……」
その男は黒い短髪で、茶色い肌だったがハロルドに似ていた。ハロルドよりもさらに背が高く、筋肉もついていそうだ。
「だまされたんだろ？ かわいそうに。子供にひどいことしやがるぜ」
ハロルドに似た男は、かなり同情に満ちた瞳をティカに向けていた。
「いえ、別にだまされてないですよ。僕ティカ」
「このでかいのはダルケスよ」
黒髪のダーナが言った。
「泣いてももうもどれねえぜ」
「分ってますよ。あ、そうだ」
ティカは持っていた袋の中に手を突っ込んで、何かを取り出してダルケスに渡した。
「あなたに渡すように頼まれました」
「そうか……」
ダルケスはそれを受け取ると、部屋を出て行った。
「まあ、今日はゆっくり休んで。また明日」
「どうもありがとう」
「困ったことがあったら何でも言って」
「うん」
ティカは部屋に一人きりになった。今までティラといつでも二人だったため、一人になることがまずなかった。
これからは、ずっと一人なのである。
「だけど、似た神様もいるし、あんまり寂しくないかも。お母さんに似た神もいるって聞いたけど……まあそのうちに会えるか」
ティカは持っていた袋を下ろして、興味深げに部屋の中にある棚や調度品を眺めていたのだった。
ゲイルは城の片隅で窓から夜空を眺めているファリーヌを見つけた。
「すごくかわいい子供だったよ。王もうれしそうだった」
「そう」
「本当は顔がみたいくせに」
「この先ずっといるんでしょ。嫌でも目に入るわよ。それよりも、ガーベラが泣いてる様が目に浮かぶわ。ざまーみろ。ホホホ」
ファリーヌは高らかに笑っていた。
「目は笑ってないよ」
ゲイルも笑っている。
「小さな子供をよこすなんて、アシュランってやっぱり非道なやつね。ガーベラはいい気味だって思うけど、その子はやっぱりかわいそうだわ。
きっと今頃泣いてるわ」
「そんなことないよ。心配ならお母さんのように面倒みてあげたら？」
「い、や、よ」
ファリーヌはぷーんと横を向いて行ってしまった。
別の屋敷では、ハロルドに似た風貌のダルケスは、ティカから渡された物を眺めていた。銀のチェーンがついた首飾りである。様々な色に輝く大きな宝石がついて、周りには銀の花の
模様がついていた。だれがこれをティカに渡したかは想像がついていた。
『私はお前のことを覚えているよ』
首飾りは、そう言っているかのようだった。
『おい、ティカを行かせたが、あの性格悪い女にいじめないようにちゃんと言っとけよ』
「…………」
『聞いてるのか？ 私は名付け親として見守る義務があるんだからな』
「何が名付け親だ。実の子供の心配はさっぱりしないくせによく言うな」
闇の王は広間にて、水晶玉に向かって呆れた声をかけた。
『あいつが誰かにいじめられたりなんてするはずないだろ。心配する必要なんてない』
あっさりしたものである。もちろん相手はアシュランだった。
『ティカはまだ子供だ。いじめられる可能性がある』
「心配しなくても、みんなお前が私の脅しに屈して、無理矢理ティカに命じたと思って同情してるから大丈夫だ。それよりよくオルガが折れたな」
『オルガは、実はお前がいいやつだったのかもしれない、などと思ってた』
「ふーん？」
『それよりもティカのことだがくれぐれも――こらー』
闇の王は黒い布を水晶玉にかけてしまった。
「くどくどうるさい。あの子、オルガから離れたら、オルガくらいにまで成長するかもしれんな」
母と子の、様々な思いが交錯する夜、闇の世界の夜空の厚く重苦しい雲が薄くなり、まばらに星が見えた。
星の神がやってきたせいなのかどうかはわからない。
「オルガ、お前はそちらの空を自由に飛び回るがいいさ」
闇の王は、宙を見上げてそうつぶやいたのだった。
ティラ＆ティカ 生まれた時よりも大きくなっているけど、他の神々から見れば小さい子供。
つづく
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