第56話
「うーん……」
もぞもぞと体を動かしたガーベラは目を開けた。部屋の中は薄暗く、暗い色彩である。横を見ると黒い長い髪のオルガが寝転んでいて、ガーベラは一瞬何がなんだかわからなかった。
（え？ ええ？ ええええ？ なんでオルガ？ 昨晩はハロルドといたはずだけど……その後でオルガと？ えー？）
「ガーベラ」
オルガが声を出した。久しぶりに聞いたような気がする。
「あ、あの……私いつここに来たんだっけ？」
ガーベラはどうしても知りたくなり、ついオルガに聞いてしまった。
「私が帰ってきたら、ガーベラはここで寝てたぞ」
「え？ 寝てた？」
「気持ち良さそうな顔で寝てたから、起こすのも悪いと思って、起きるのを待ってた」
「そ、そうなの？」
ガーベラは体を起こした。
（彼女が気を回したのかしら？ そうとしか思えない）
「ガーベラ」
オルガも起き上がり、ガーベラをそっと抱きしめた。
「本当にすまなかった。ガーベラ」
「……ううん。オルガも辛いわよね」
オルガはさらに力を込めてガーベラを抱きしめた。
「愛してる。ガーベラ」
「オルガ……私も、私も愛してる」
ガーベラは素直にオルガの腕の中にいて、その後白馬に揺られて帰って行った。
（やっぱり気を回してくれたのかしらねえ……）
ガーベラが森の中の小道をのんびり白馬に乗っていたら、クーリーフンが飛んできた。
「おかあさーん、探したんだよ。どこにいたの？」
「オルガの所にいたの」
「なんで？」
クーリーフンが地上に降りたので、白馬は足を止めた。
「さー私にもよくわからないんだけど、気づいたらオルガの神殿にいてねえ」
「昨晩、お母さんはハロルドの所には行かなかったんだよ。ハロルドったらカンカンになっちゃってさ」
「え？ なんで？ なんで行かなかったの？」
「さあ」
「あ、もしかしたら、ハロルドが怖かったとか？」
「どっちかというと、行かない方が怖くない？」
「確かにね、それに今更そんなに怖がらないか。一体どうしたのかしら？？？」
ガーベラもさっぱり分からなかった。
そのハロルドは、クーリーフンに早朝「お母さんはサラディンの所にはいなかったよ」との報告を受けて後、人間界にいた。といってもゆりの所には行っていない。
「彼女のところに問い詰めに行くんじゃないぞ」
とラーズにはしっかり釘をさされてしまった。「か弱い女性に怒って直接問いただしにいくなんて、さすがに一万を超えた男がすることじゃないぞ」とまで言われていた。
腹が立つが、今顔を合わせるのは確かにまずい。自分が制御できなくなったらなおまずい、ハロルドは自分でもそう思い、ゆりの元には行かず、今は人間界聖地にいる。
突然ハロルドが「鍛錬を見学する」と言い出したものだから、神官達は大慌てである。戦わない神官達は剣の稽古などはしないのだが、ハロルドの所には戦う神官達が多いのだ。
剣の技を鍛えているのはハロルドの神官だけではない。聖地の警備についているもの、外周りの神官達の見習い、他の神の神官達やその見習いも一緒に戦い方を習い、体を鍛えている。
中には神の加護がついた神官もいる。鍛錬の場では、神官達は剣の打ち合いなどをしていたが、傍らで見ていたハロルドの目つきが怖すぎて、みなびびっていた。
（なんか機嫌悪くないですか？）
（絶対機嫌が悪いですよ）
（何かあったんですかね？）
神官達はこそこそと話していたが、ハロルドは「聞こえてるぞ。機嫌は全然悪くない」などと言っていた。
ハロルドはどこからどう見ても機嫌が悪そうである。ちなみにハロルド大好き神官リティアは今聖地にいなかったものだから、残念ながらハロルドに会うことはできなかった。
この場にいた神官は全員男である。そして教官であるスペードだけが妖精である。そのスペードも、突然のハロルドの来訪にびびっている。おかげで、予定よりも一時間も早く皆を集合させていた。
前日に教えておいてほしいものである。
「おい、ねぼすけは最近来てるのか？」
ハロルドは近くに控えていた神官に聞いた。
「いえ」
「ふざけたヤローだ」
「最近起きられたばかりですから、何もなければしばらく寝てるんじゃないでしょうか」
「あんなに寝てよく体がなまらないな」
「妖精ですからねえ」
「全く……」
人間の中にも戦いの天才と呼ばれる者がたまに現れるが、アシュランはその者を気に入ると「妖精にならないか？」と打診している。
断る者も中にはいるのだが、了承して妖精となった者もいる。その中でもトップクラスの3人が、ゆりとイシュタールが出会ったスペード、ロイの元に現れたハート、そしてハロルドが「ねぼすけ」と呼んでいる男である。
その「ねぼすけ」はとにかく寝るのが好きな変な男で、「妖精になったら何年眠っても平気ですねえ」などと言って妖精になった男である。
少し前にハロルドが子供になった時の戦いには起きて神の国にいた。その後ずっと寝ているらしい。ずっと寝ているくせに戦いとなると並の妖精以上に活躍するのだから、大目に見られているのだった。
何より、アシュランがねぼすけのことを「面白い」と言って気に入っている。
「あいつ、何のために聖地にいるんだ」
「ここの方が寝やすいらしくて」
「戦いがなきゃ100年でも寝てるんじゃないか？ 体を動かしたくなってきたな。おーい、スペード、相手をしろ」
ハロルドの言葉に神官達は手を止めてざわついた。まさかこんな間近で神の戦いを見ることができるとは。
「スペードさん、死なないでくださいねえ」
神官達はスペードの心配をしていた。妖精であっても、首を切られれば死んでしまうのである。
「スペードさんがあっちで何かやらかしたって噂、本当なのかな？」
「何をしたんだろう？」
「なんでもガーベラ様をその気にさせたらしい」
「ええ！？」
神官達がぼそぼそ言っていたので、スペードの顔もちょっと青くなっていた。デマが広がっているようだ。
「あのー一つ聞きますけど、私のこと、怒ってないですよね？」
スペードはずばりハロルドに聞いていた。
「怒ってないぞ。怒るようなこと、何かしたのか？」
「いいえ。なにも」
ハロルドは神官が持っている剣を受け取り歩いて行った。神官達は一斉に周りに散った。
「力は十分の一に絞る。来い、スペード」
「では胸を借ります」
スペードがハロルドに向かっていった。ハロルドは神の力を落とし、スペードにはハロルドの加護がついている。
神官達が目で追えないほどの速さで二人は剣を打ち合い、かわしていた。普通の人間が入ることはできない領域である。
途中剣を落としたスペードは他の神官から槍を投げてもらい、槍を使って応戦していた。
ハロルドの顔付きはすっかり変わっている。戦いを楽しむ男の顔である。一方スペードの方も、教官ではなく戦士の顔付きになっている。
ハロルドが押し気味ではあったが、スペードはよく応戦していた。
ハロルドがすごいのは当然のことだが、相手をするスペードには無駄な動きがない。ハロルドの動きを予測し、紙一重で交わしている。
二人が間合いを取ったとき、スペードは持っていた槍をハロルドに向かって投げた。ハロルドはそれを素早くよけた。槍は大木を貫通し、飛んで行ってしまった。
こうして二人の戦いは終わった。
「すごい！」
「スペードさんもすごい！」
神官達から拍手が起こっていた。ハロルドは穴が開いた大木を見て、「まあまあだな」と言っていた。
「何か悩みでもあるんですか？」
スペードがハロルドに近づいて聞いた。
「悩み？ そう見えるのか？」
「はい」
「……実はある」
「私でよければ聞きますよ。まあ聞くだけしかできませんが」
「いや……まあ、それもいいかもな。よし、ちょっと来い」
ハロルドは、スペードの肩に触れて、二人はその場から消えた。
そして聖地にあるハロルド神殿の中にある神との対面の間にて、珍しくも、妖精が神の悩みを聞くことになった。こんなことは初めてかもしれない。
ハロルドもこんなことを言う気はなかったのだが、神の国ではだれにも話せない。父であるアシュランに話すことなどできるわけもなかった。
「実は、最近気になってる女がいる。あの女どもと来たら、私だけじゃ飽き足らず、ラーズとまで仲良くしているんだ」
ハロルドが拳を握りしめて語り出し、座って聞いていたスペードは、ぽかーんとした顔をしていた。なんとも予想だにしない告白である。
「昨日なんて約束していたのにすっぽかされてしまった。私をばかにするにもほどがある。私もあの女のことを気にしすぎている。もう会わない方がいいんじゃないかと思えてしょうがない」
「はあ」
「全く腹が立つ女どもだ」
「あのーその女性は、一人なんですか二人なんですか？」
「一人になったり二人になったりする」
「はあ」
「人間にここまで肩入れするなんて、自分が恐ろしいくらいだ。いっそのこと綺麗に忘れた方が……いや、だが、一緒にいると面白いことは面白いし、昨日は何か事情があったのかも」
ハロルドは突っ立ったまま腕を組んでぶつぶつつぶやいていた。どうも重傷らしい。
「アシュランにあの女どもの記憶を消してもらおうかと思ったくらいだが、そうするといろいろ弊害もありそうだし……しかしずっと考えているのもなんだかばからしくなってきた」
「それほどまでに好きな女性がいるなんて素晴らしいことじゃないですか。恋をすると時間が矢のように過ぎていくもののようですよ。忘れるなんてもったいないですよ」
「そうか？ じゃあ気にしてていいのだろうか」
「いいですよ。日頃世の中のために働いていらっしゃるのだから、それくらいいでしょう」
「そう言われればそうかもな」
どうやらハロルドは誰かにそう言ってもらいたかったようである。ハロルドの表情もちょっと和らいできた。
「しかしあの女どもときたら、気が多すぎる、次から次へと神に手を出すんだからあり得ない」
「ガーベラ様のような女性なんですか？」
「中身だけはな」
ハロルドはそこを強調していた。
「あ、もしかして、カニの女性ですか？ ハートに聞きましたよ。ハロルド様がカニを誰かに贈った話。その女性でしょう！」
スペードは思い出したように言っていた。
「実はそうだ」
「その女性喜んだんですか？」
「すごく喜んだな」
「じゃああれも喜びますよ。今朝、ものすごいカニがとれたとかで市場で話題になってたんです。あげたらきっと喜びますよ」
スペードは真面目に言っていた。女性にカニを勧めるあたり、スペードも女性関係があまりない男に違いない。
人間界では夕方、蛇の国の城の庭園に巨大なカニが突然出没し、それを見た皆がびっくりした。ハザークも塔から出てきてカニを見に来たくらいである。
カニは以前もらったカニの十倍はでかかった。
「すげー母様がまた頼んだのかな？」
ロイは喜んでカニをつついている。カニはハサミを動かしていた。まだ生きているようだ。話を聞いて庭園にやってきたゆりも、カニのあまりのでかさに驚いた。
「これは……」
もしかして、お前をカニに変えてやるっていうハロルドからのメッセージでは？？
ハロルドの怒りに脅えていたゆりは本気でそう思った。
「でけー、かたーい！ 今回は一匹だけなんだ。海って面白そうだなあ。行ってみたいなあ」
ロイは興味津々である。
「すごいね」
「大きいねー」
「面白い生き物だよねー川にいるカニはすっごく小さいのにね。海のはなんでこんなにでかいんだろう？」
子供達は一様にカニに驚いている。
「かいぶつみたい」
ミシェイラが言っていた。
「これなに？」
レーヌは離れたところからカニを眺めている。
「カニよ。海にいるのよ」
ナナミが説明していた。
「海、こわっ！」
「母様、早く食べよう！」
ロイは待ちきれないようだ。
「た、食べていいのかな？ このカニは食べてもいいけど、明日、カニが現れても絶対食べないで、そのカニは私かもしれない」
ゆりは青ざめた顔で子供達に言っていた。
「え？ 母様何かしたの？」
「また蹴飛ばしちゃったの？」
「違うけど……」
「このカニおいしいのか？ 我も食べてみたいな」
ハザークが言っていた。
「後でもっていきますね」
シスが答えている。
カニは薄い赤い色をしていたが、ゆでるとまっかっかになった。
もしや、俺はこれほど真っ赤になって怒ってるというメッセージでは？
ゆりはそうも思ったが、食欲には勝てず、つい食べてしまった。大きいわりにはカニはおいしかった。でかいカニは綺麗に食べられて殻だけになったのだった。
その夜、クーリーフンがゆりの寝室にやってきた。まるで眠れなかったゆりは、すぐに気づいて喜んだ。
「クーリーフン、助けて、私、カニに変えられてしまうかもしれない」
ゆりはすがるように言っていた。
「カニ？ 昨晩はどうしてハロルドに会わなかったの？」
「わからないのよ。気づいたら人間界に戻ってたの。私も驚いちゃって」
「ええー？ 君、オルガの所にいたんだよ。それも知らない？」
「知らない」
ゆりは首を横に振っている。
「ガーベラになった記憶はあるの？」
「それはある。神殿の外に出たら、なんだか甘い匂いがして眠くなって、それから記憶がないの」
「甘い匂い？」
「花の匂いじゃなくて、お菓子みたいな匂いがしたの」
「えー……なんだろう？」
クーリーフンは首をかしげている。
「お願い、ハロルドに伝えて。私は会う気満々だったって」
「わかったよ。じゃあね」
「お願いね」
クーリーフンは神の国に帰り、とりあえずハロルドに伝えに行ったのだった。
「あっちのお母さん、ハロルドが怒ってるってすごくびびってたよ」
「今はもう怒ってない。その証拠にカニをやったんだが」
それが逆にびびることになるとはハロルドも思っていなかった。
「しかし、なんでそんなことになったんだ？ あ、オルガが何かしたんじゃないのか？」
「オルガが？ そういうタイプじゃないけどなあ」
「私も女に振り回されてばかりというのも情けない。落ち着かないとな」
ハロルドはちょっと反省しているようだ。
（全くだよ）
クーリーフンはそう思ったが黙っていた。
（オルガとお母さんが仲良くなってほしいのはだれかといったら、ティラだけどなあ。ティラの仕業ってのもおかしいし）
クーリーフンは夜空を飛んでいき、ティラを見つけて近づいた。
「ねえ、ティラ、昨日のことなんだけど……」
クーリーフンが、ガーベラがオルガの寝室になぜか移動していたことを話すと、ティラはすぐに白状した。
「ごめん。僕がパティウスに頼んだんだ。この前会った時に、僕が二人を仲直りさせたいって言ったらパティウスがいい手があるからって。お母さんを眠らせて、一緒に運んだんだ」
「そうだったんだ」
「二人がまた仲良くなってほしくてさ」
「そうか。君一人じゃできないと思ったよ。パティウスが手伝ったのか。甘い匂いの正体は、眠り草かな？ いぶすと甘い匂いがして眠くなる。そんな草があったよね」
「うん、パティウスがもってたんだ。お母さん怒ってた？」
「怒ってないよ。何かきっかけが欲しかっただろうから、逆によかったかも」
「そう？ よかった」
ティラはほっとしていた。
（ハロルドは大変だったけどね。うーんこのことは、まあ、わざわざハロルドに報告しなくていいか）
「僕も疲れちゃったよ」
昨晩からあちこち行っていたクーリーフンは、疲れた顔でガーベラの神殿に戻ったのだった。
クーリーフンに出会って安心したゆりはその後眠ったのだが、カニに変身する夢をみてしまった
「おいしそう。食べよう！」
ロイが迫ってくる。
（だめ！ 食べないで！ ハサミをもがないでー！）
ゆりは必死にハサミを動かしながら訴え、横に移動しながら逃げていった。
そんな夢を見てしまった。
目覚めたゆりは、
「変身するならラッコがいいな。でも新鮮なホタテとかこの辺にないから食べ物に困るかも。どうせなら鳥に変身して空を飛んでみたい、次に神の国に行ったら……うーん、一人でハロルドに
会いに行く勇気がないなあ。ラーズかクーリーフンについてきてもらおうかなあ」
などと考えていたのだった。
つづく
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