第35話

夢の中、豹から逃げていたゆりは、一人の男に出会っていた。短い黒髪、あごにちょっとひげがついた男はスペードである。スペードは襟が大きい黒の上着にズボン姿である。

（あれ？　スペード様だ）

スペードは驚いて体を起こし、ゆりを見上げている。

（私の妄想？　幻？）

ゆりはじろじろスペードの顔を眺めている。

「あの」

「わっしゃべった！」

ゆりは驚いて後ろに下がっていた。

「ゆり様じゃないですか？」

「ゆりです。あの、スペード様、私の夢にお越しくださり光栄です」

ゆりは草の上に正座をして言っていた。

「え。あなたの夢？」

「まさかスペード様に出会えるなんて。あ、そうだ。ご結婚おめでとうございます」

ゆりは頭を下げていた。

「あの時は、ひっついたり手を握ったりしてすいませんでした。彼女に怒られませんでした？」

「え、いえ……」

「そうですか？　よかった。心配していました」

ゆりはほっとしていた。

「スペード様は、黒い服も似合いますね。聖地での服装も抜群によかったですが」

ゆりは正座をしたまま微笑んでいる。


一方スペードの方は、突然ゆりがやってきたのでぽかんとしたままである。

「あ、心配しないでください。あの時みたいにはしゃいでひっついたりしないですからね。スペード様も結婚予定だと言ってくださればよかったのに」

「私の結婚話なんてどこで聞いたんですか？」

スペードが聞いた。

「えーと、風の便りで知りました」

「風の便り？」

聖地では『風の便り』といえば、風の妖精の噂話を指している。

「その話は違うんですよ。私は結婚なんてしませんよ」

スペードが言った。

「え？　私のせいでだめになったとかじゃ……」

ゆりはかなりびびっていた。

「いえいえ、違います。元々そんな話はなかったんですよ。その、誤解が広がったみたいで」

「誤解？　そうなんですか？　スペード様に恋人はいないんですか？」

「いませんよ」

「じゃあもうちょい寄ってもいいですか？」

ゆりはちょっと膝を前に寄せていた。ゆりは明らかにうれしそうだったので、スペードは、「あなたは本当にカードのスペードが好きなんですね」と言っていた。

ゆりは「はい」とうなずいている。

「でも本物のスペード様のことも素敵だと思ってますよ」

「私は、カードの彼のように高潔ではないですよ」

「全体的に好きなんです。声とか、男らしい大きい手とか、たくましい肩のラインとか、顔ももちろん好きです」

スペードはちょっとあっけに取られていたが、「夫以外の男にそんなに好意を示して怒られないんですか？」とそっちを気にしていた。

「大丈夫ですよ。だって、夢ですし、夢では何をしようが自由です」

ゆりの方はただの夢だと信じているようだ。

ゆりの真横にひょいと豹の顔が現われた。驚きまくったゆりは、「ぎゃあ」と悲鳴をあげてスペードに抱きついていた。

「大丈夫ですよ」

「そ、そうですか？」

ゆりがそろそろと見ると、スペードは黒い豹の頭をなでなでしていた。

「おとなしいですね」

ゆりはスペードから体を離して、豹をじっくりと眺めた。

「私、豹をこんなに近くで見るのは初めてなんです」

「そうですか。豹は美しい生き物ですよ」

「はい、キレイですね。大きい猫って感じで……」

豹はごろんと寝転がっている。本当に猫のようだ。

「なでても怒らないですかね」

「平気ですよ」

ゆりはそろそろっと豹の胸のあたりをなでてみた。

スペードは豹に相当なれているようだった。

「もしかしてスペード様は、豹の男なんですか？」

ゆりが聞いた。

「元はそうですよ」

とスペードが答えた。

「ええー豹の一族だったんですね。豹の一族だと、ハロルド様よりもライオネル様への信仰の方が厚いんじゃないですか？」

「そうですね。ライオネル様も尊敬してますよ」

「わたし、豹の一族の男性に会うのは初めてなんですよ。うれしいです」

ゆりはとにかくうれしそうだ。

「豹の一族の女性は美人が多いらしいですね。子供達が前に出会って、そう言ってました。胸が大きかったって。スペード様は、当時モテモテだったでしょう」

「いえ、全く」

「絶対モテモテだったはずですよ」

「私は全く魔力がなかったので、恋愛の対象外だったんです」

「え？」

「赤い月以外の子供だったせいか、魔力がなく産まれたんですよ」

「そうだったんですか。うちのラギもそうですよ。赤い月以外の子供なんですよ」

ゆりはなんでもないことのように言っていた。スペードは「え？」と驚いている。

「あの時いた小さい子の方です。ラギも魔力はあまりないんですけど、頭がすごくいいんですよ。スペード様も、他に秀でてるところがいっぱいありそうですね」

「…………」

スペードは黙ってしまった。

黒豹はごろんと背を向けて起き上がり、行ってしまった。

「あなたは変わってますね。そう言われませんか？」

「みんなから言われますよ」

「やはりそうですか」


周りの景色が白くなってきた。遠くの景色からなくなってきている。

「あ」

ゆりがそれに気がついた。

「そろそろ終わりそうだ」

「もうですか？　残念」

ゆりが座っていた草地が突然下に崩れ、怖かったゆりは「スペード様！」とスペードに手を伸ばしていた。スペードはとっさにゆりの手を取って抱き寄せていた。


ここまでなら良い夢だ、で終わったのだが……


ゆりは気がつくと裸の男に抱きついていた。顔を見るとその男はスペードだったので、ゆりは夢の続きかとそう思っていた。

「スペード様ったら突然そんな気になるなんて、恥ずかしい。うれしいですけど、気が早くないですか？　こういうことはもうちょっと仲良くなってからの方がいいんですけど」

ゆりは夢だと信じていたので、スペードに抱きつきつつも言っていた。一方スペードの方は、目覚めてから目をきょろきょろさせて、そしてゆりがいるので驚きまくっている。

「わっ……ええ！　どうして……」

スペードはあわてて体を起こし、自分の頬を自分でビンタしていた。スペードは上半身は裸でズボンをはいていた。結構な力でビンタしたのか、頬が赤くなっている。

「どうしてここにいるんです！」

スペードが驚いた表情のままゆりに聞いた。

「え？　ここって？」

「ここは私の家ですが」

ゆりはベッドの上に座ったまま、きょろきょろ周りを見た。確かに見慣れない部屋である。

「スペード様ったら、これは夢ですよ。だって、私は自分の部屋でしっかり寝ていたんですよ。突然ここに移動するわけないじゃないですか」

ゆりはまだ夢だと思って笑っている。

「いえいえ、ここは私の家です。あなたはなぜかここに来ちゃってるんですよ」

「え？　まさかあ。あり得ないですよ。スペード様の夢を見たからってスペード様の部屋に移動しちゃうなんて、ありえないです」

ゆりははっきり言いながらも、（夢で一緒にいた相手のところに移動するなんて……あれ？　今まで結構あるかも？）

と青くなっていた。

「本当に夢じゃないです？」

「夢じゃないです」

ゆりはそこでベッドから降りて、「どうしよう」とあわてだした。

「いや、本当は夢でしょう」

「違います」

「でも、私は蛇の国にいたんですよ？」

ゆりは泣きそうである。スペードは小窓のカーテンを開いた。

「ここは聖地ですよ」

窓の外からは日射しが差している。そして、そこには違う街の様子が見えたのだった。

「…………」

窓の外を眺めたゆりは、「スペード様って、蛇の国に瞬間移動できます？」と聞いた。

「いえ、そんなに遠くには無理です」

「他にできる方いらっしゃいます？」

ゆりはアシュランにもらったバッジは、もちろんつけてはいなかった。

「瞬間移動の精度が高いといえば、クーガ様しか」

「クーガ様……」

ゆりとしては、今クーガにそれを頼むのは避けたかった。

「頼んできましょうか」

「あ、ちょっと待った。そうだ。クーリーフンは？　クーリーフンにどうにかして会えませんかねえ」

あせっていたゆりは、ついクーリーフンを呼び捨てにしている。

「クーリーフン様はすぐには無理です」

「じゃあラーズ様は」

「さらに無理です」

「えーとじゃあ……オルガ様は？」

「無理ですねえ」

「グレン様も無理です？」

「無理です」

ゆりの脳裏に一瞬ハロルドが浮かんでいたが、すぐに却下されていた。ハロルドに頼むなんて怖すぎてできるわけない。

（どうしよう、早くしなければ……ジロウ君が不審に思って誰かを呼びに行くかも。それとも侍女が気がつくのが先か、とにかく朝のうちに帰らないとまずい！）

ゆりは青くなっている。


聖地にあるアシュランの神殿、クーガの私室はこの神殿の中にある。クーガは神殿の中にある食堂で朝食を食べ終わった所だった。朝ここを使うのはクーガだけである。

「すいません。クーガ様、妖精のスペード殿が、どうしても、いますぐにクーガ様に会いたいそうなんですが」

おつきの者がクーガに伝えた。

「え？　今ですか？」

「今すぐにお願いしたいそうです」

「全く何の用なんだ」

クーガがぶつぶつ言っていると、スペードが食堂に入ってきた。

「おはようございます。クーガ様」

「朝っぱらからなんですか」

「お願いがあるんです。私の家に来てください」

「はあ？」

「今すぐに来てほしいんです。お願いします」

スペードは拝むように言っていた。

「私がなぜあなたの家に行かなきゃならないんです」

「理由は今言えません。お願いしますよ。どうか」

「……はあ」

クーガはため息をついていた。

「失礼します」

スペードはクーガに触って強引に移動させていた。

クーガは神官の建物が並ぶ通りに移動していた。クーガはさっとスペードから手を離している。

「どうぞ」

とスペードが自分の家の扉を開けている。クーガはむっとしたまま家の中に入り、中にいた女に目を留めた。


椅子に座っていたゆりはクーガを見ると立ち上がり、「おはようございます」とむちゃくちゃぎこちない笑みを向けていた。

クーガは驚きを通り越した表情でゆりを眺めていたのだった。


つづく

１２部

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