第８話
神の国には外れと呼ばれる場所がある。そこには様々な動物が住んでいる広大な森がある。その森を抜けると、時折荒涼とした茶色い大地が姿を現すのである。この場所は常にあるわけではなく、いけどもいけども森ばかりの時もある。
遙か昔、神々は聖地に人間と共に住んでいた頃があった。その後アシュランは神の国を造り神々をそちらに移動させた。だが、その世界の外れには、時折魔物と呼ばれる物が現われて、ハロルド達は時々それらを駆除しているのである。
今、森の先には、茶色い土と崖などの光景が広がっている。動物もいない。鳥も飛んでいない。
ハロルドは今その場所に立っていた。
茶色いむき出しの大地には、所々もうしわけ程度に草が生え、短い木も生えていたが、寂しげな土地である。しかもかなりの広さだ。
ハロルドは腕を組み、しばしその大地を見つめていたが、肩をぽんぽんとたたかれて、振り向くと後ろには獣姿のライオネルが立っていた。
「よお兄貴、ここ、いつ現われたんだ？」
「さあ、気がついたらあった」
二人はしばしその大地を見つめた。
「ここ、あの時と一緒だよな。最近よく夢を見るんだよ。あの時のことを」
「……実は私もだ」
「兄貴もか」
「あの時」が何を示すのか、説明せずともハロルドは理解していた。かつて、ここで戦いが起こった。バリアスがいなくなったあの戦いとは比べものにならない大きな戦いである。
「しばらく忘れていたのによ。変だよな」
「ああ、やはり嫌な予感がするな」
「もし今度あるとすれば、５０００年は先の話だろ？」
とライオネル。
「私もそう思っていたが、案外近いかもしれん」
「もうあるのか？」
ライオネルはでかい口を開けて驚いている。
「あれからまだ５０００年くらいしか経ってないぞ」
「だよなあ」
ハロルドは戦いの神であるが、別に戦いが好きで好きでたまらないわけではない。若い頃は確かにそうだったが、今は違う。個人的にライオネルと戦ったりするのは好きでたまにしているが、軍を率いての戦いなど、正直したくはない。軍神らしからぬ、と笑われても、戦いにはこの世界のすべてがかかっている、と言われれば、だれだって荷が重すぎると感じるに違いない。
人間界では５千年ほど昔、ここで大規模な戦いが起こった。相手は魔物と呼ばれる大軍である。普段出てくる奴らよりも強く、その数といったら、今思ってもぞっとする数である。一気に現われたわけではなく、４日に渡り敵は現われた。その魔物の総数は一万を超えていた。9割方は雑魚集団である。しかし、中にはやっかいな敵が複数混じっていて、最終的には敵を殲滅できたものの、こちらも多大な犠牲を払わねばならなかった。
人間達には決して語られることのない戦いである。
その時も「魔物の大軍が現われるからすべて倒せ」とアシュランに言われただけで、相手の数もまるでわからなかった。
ハロルドもライオネルも、「大軍って千くらいかな？」と思っていたのだが、予想ははるかに超えていた。
アシュランでさえ、相手の規模がどれほどのものなのか、わからなかったに違いない。
次にあるとすれば二度目である。
「アシュランは、あれがまた起こるとはっきりと言ったわけではないが、カサンドラはそうではないかと言っていた。それならば、アシュランがわざわざ人間達に不戦のふれを出した理由もわかるとも」
「ちくしょう。俺はあいつらを死なせたくないぜ。まだ１００年も経ってないってのによ」
ライオネルは憂鬱げにたてがみをかいていた。ライオネルと火の妖精の間に生れた二人の妖精は、最近剣の稽古をはじめたのである。二人はライオネルの息子であることを誇りに思っている。戦があっても出るなといっても、素直に従うまい。
「私だってそうだ」
二人の憂鬱の原因は妖精達にある。戦いには妖精達も参加したのだが、その半数以上はその時消えてしまったのだ。ハロルドの所にいる戦える妖精は、その時からわずかにしか増えていない。そのかわり、今回はジェイクがいる。ジェイクはまだ子供だが、ハロルドと共に戦うこともできるのだ。これはハロルドにとっては大きなことである。
「ランスロットは早く大人にならねえのか？ あいつは頼りになりそうなんだがなあ」
ライオネルが言った。
「まだ無理っぽいぞ。まあ、次がだめでも、その次には大きくなってるだろう」
「そうだな。バリアスも、大きくなったら戦えるのかな？ 俺今武器作ってもらってるんだよ。ちょっと戦い方を変えなきゃなと思ってよ」
「そうか」
「兄貴、武器ができたらちょっと相手をしてくれよ」
「わかった」
「じゃあな」
ライオネルは去って行った。
「……人間界の不戦はやはりこういうことなのか？ アシュランも先回りをしていろいろ策を講じているのかも。うーん、いろいろ忘れてるな。コーカサスに戦いの詳細をもう一度聞いておかなきゃなあ」
以前の戦いについては、記録の神コーカサスが敵の魔物についても記録しているはずである。
ハロルドもその場を後にした。
荒涼とした大地はゆがみ、やがて消えてしまった。
人間界では、へびっちが自分の子蛇を持ち帰ってきて、へびっちはみんなに頭をなでられている。
子蛇を預かったカールは、この子蛇がエレノアの蛇の子供だと思うと、ちょっと不思議な気分だった。エレノアはカールにとっては初めての女性である。好意もあるし、エレノアの気を感じると、その時のことを思い出して恥ずかしい気持ちになったりもするのだった。ついエレノアの話を誰かに聞いて欲しくて、夜、寮の食堂でエルバートに話を聞いてもらっていたのだが、途中でカーライルに変わっている。カールはエルバートともたまに酒を一緒に飲む仲になっていた。
「しかし、なぜ過去に行けるのか、いまだにわからんな」
カーライルは首をかしげていた。
「そうですよね。すごい魔法ですよね」
とカール。
「魔法なのかなんなのか……親と子の蛇の特別な絆なのか……ところで、カールに頼みがある」
カーライルは周りを気にしつつカールに顔を近づけて小声で言った。
「なんですか？」
「王妃と一度でいいから仲良くなりたい。体を貸して欲しい」
カーライルは小声でずばり言った。
カールは目をぱちくりさせている。
「どうしても一度してみたい」
「はあ……ふふっ、私は王妃様とは最後までしてませんが」
カールはちょっと笑って小声で返した。食堂では少し離れた所で他の仲間が３人で酒を飲んでいる。
「恋人になったんだろ？」
「王妃様の儀式は変わってるようで、恋人達は、恋人なんですがそこまでしないみたいで」
「ハザークにも聞いたが、絶対やってるだろう」
「そういうことがあまり気にならないんです。王妃様と一緒にいるだけで楽しいので」
「えー本当か？」
「はい」
「本当に本当か？」
「はい」
カールはうなずいている。
「一度だけでいいからしたいんだがなあ」
「一度なんて言わずに、恋人になったらいいじゃないですか」
「いや、そこまでは……」
とカーライルは躊躇していた。どっちみち、カーライルだけゆりと仲良くなる、ということはできないのだが。
さて、その夜城にいたゆりは、王の寝室にいた。今日はラクシュミと一緒に寝る予定である。
「カーラがついに臨月をむかえた」
「え？ ついに？」
「ああ、ドキドキするな」
国民みなが応援するカーラもついにお腹が大きくなってきたようだ。周りはドキドキしていることだろう。
「今回は健康でよかったね」
「ああ、本当に」
「キース将軍もそわそわして仕事に手がつかないんじゃない？」
「そうだろうな」
「セリアはまだだっけ？」
「セリアはまだ２年目だからな。ヴィラとシャナーンとイシュタールの子供が３年目だ。今年か来年か、そちらも楽しみだ」
ゆりの恋人達の子供も順調に増えているようだ。
「シャナーンもパパかあ。若いパパだよね」
「ああ、若いな」
「ますます賑やかになるね」
「ああ」
ゆりは目を閉じた。その夜は、ゆりの体調に異変はないようで、ラクシュミも安心していた。
（もうすぐ４０年になるのか……）
ラクシュミは今年124歳である。人生のおよそ三分の一をゆりと過ごしていることになる。
（そう考えると長いな。お前のおかげで私は幸せだぞ）
ラクシュミも目を閉じた。
ゆりはその夜神の国に移動していた。前回はグレンと恋人同士のデートをして楽しんだのだった。
（今日はいちゃいちゃ気分でもないし、久々にそこらをぶらぶらしてすごそうかな。子供達にも会ってみたいけど、元気いっぱい女神ちゃんは今日はどこにいるんだろうなあ）
ゆりはルチアに会ったのは産まれた時だけだったので、噂のルチアに会いたかったが、どこで遊んでいるのかわからないので、会うのも大変そうだ。
「その後産まれた男の子は今日はどこにいるんだろう。名前はえーと……なんとかアン。アン……アン……ジュリアンだっけ。子供達の名前のメモを持ち歩かなきゃ忘れる」
ガーベラの子供は増えすぎて、たまにしか会えないので名前を覚えるのだけでも大変である。
「ガーベラの子供はもう何人なんだろう？ ２０人は超えてるよね。とっさにわからないわ」
ガーベラの子供も増えたものである。全員がそろってパーティーでもしたら楽しそうだ。
ガーベラの神殿にいたゆりは神殿の外に出て適当にぶらぶら歩いていた。するとユニコーンがたったかやってきたので、ユニコーンに横乗りでのせてもらい、移動した。
ゆりはユニコーンで、アナスターシャが過去に連れて行ったプリモのことを思い出し、新たにやってきたという天馬の想像をしていた。
（新しい天馬はどうやってきたんだろう。神の国から来たのかも？ なんてね。でも翼がついた馬なんて、神の国以外で産まれないよね？ プリモと仲良くしてるのかな）
ユニコーンに乗って森の中の道をぶらぶら歩いていたら、少し離れた先にペガサスが降りてきた。ペガサスにはハロルドが乗っていた。
「やっぱりガーベラか、どこに行くんだ？」
ハロルドはペガサスから降りて聞いた。
「あてもなくぶらぶらしてるの」
「ちょうどいい、話があったんだ。ちょっと来い」
ハロルドはユニコーンを止めて、ゆりをユニコーンから降ろした。
「ありがとう」
ユニコーンはたったか走って去って行った。
「神殿に行くの？」
「ガーベラの神殿に行くか」
「あ、その前に、新しく生まれた男の子、名前はなんだっけ？」
「ジュリアンか？」
「ジュリアン！ あってた。何の神様かわかった？」
「わからんが、獣を使う神らしい。ライオネルが言ってた。ライオネルもジュリアンに使われたくなるらしい」
「え？ ライオネルが？ 何それ、笑っちゃう」
ハロルドはゆりをペガサスに乗せて、ガーベラの神殿へと移動した。
「話ってなあに？」
ゆりは神殿の中に入ってから聞いた。
「ちょっと座れ、実はスペードのことだ。あれからどうにかなったのかと思って」
ハロルドはソファに座りながらゆりに聞いた。
「え？ スペード様？」
思ってもいない質問だったので、ゆりはどぎまぎしている。
「１０年経ったらとか言ってたろ？」
「ああ、そう。延長されて、１００年計画になりそう」
「はあ？」
ハロルドはぽかんと口を開けている。
「いろいろ事情があって……」
ゆりはちょっと言いづらそうだ。
「私の許可が欲しいほどスペードが好きだったんじゃないのか？」
「好きだけど、好きになりすぎて赤い月に支障をきたすようじゃまずいと思って……」
「なんだそりゃ」
「神様は平気なんだけど、スペード様はわりと人間に近いからか、どうも違うの。いろいろと」
「あれからスペードに何度か会ったのか？」
「うん。実は会った。それで、すごく残念だけど……」
「ガーベラだろ。意地でも恋は両立させろ」
「私もそうできると思ってたんだけど……」
ハロルドは何かを考えるように上を向いていたが、やがてゆりを見た。
「何度も言わないからよく聞いておけ。お前は１００年後もスペードが聖地にいる、と思ってるんだろうが、妖精ってのは不死じゃない。死ぬこともある」
「……え？」
「もちろん人間よりは死ににくいがな。どっちかというとお前の方が死ぬ確率は格段に高いが、好きなら会って、やりたいならやっとけ」
ハロルドは真面目な表情である。
「え……え？」
ゆりは大きく目を見開いている。
「一体どういうこと？ ハロルドは、前に私がスペード様に会うのを邪魔してたくらいじゃないの」
「あの時はそうしたかったからした。あの時とは状況が変わったんだ」
「どう変わったの？」
「……まあいろいろとな。最近私の知り合いの神官が死んだりして感傷的になってるのかもな。まあ老衰だから長生きした方だが」
亡くなったのはハロルドの神官だがローではなく別の神官である。顔なじみの神官の死は、神にとっても悲しいものである。
「それにしては変わりすぎじゃない？」
「お前が１０年後とか言ってたから気になったんだ。１０年後に相手がいる保証なんか何もないと言っておいたほうがいいと思った」
「妖精が死ぬ時ってどんな時？」
「まあいろいろある。前に、ほら、サントスの娘のネルも死にかけたろ？ 運良く生まれ変われたが、ああいうのは稀だ。大体は死んだら終わりだ」
「…………」
「人間だって１０年後に確実に生きているかどうかなんてわからんだろう。あの時会っておけばよかった、なんて思うのはつまらん」
ゆりはハロルドが変わりすぎて恐ろしく思っていた。そんなことを言い出すなんて、近いうちによっぽどのことが起きるんじゃないだろうか、そんな感じである。
「ハロルドは、私がスペード様を恋人にしちゃってもいいんだ？」
「良いも悪いもお前恋人いっぱいいるだろ。神は私だけにしろって言っても聞かなかったじゃないか」
「そうだけど、以前と変わりすぎて怖いよ。スペード様、近い内に死んじゃうんじゃないよね？」
「そうは言ってない。確実に生きてる保証はないと言いたかっただけだ」
「うーん、そりゃまあ、私だって１０年後にいる保証はないけど」
「このことを言ったのは、後になってお前に言ってほしかったと言われたくなかったからだ。５年１０年後のことなんか今考えるな。やりたいことは今やっとけ」
「はあ……」
「じゃあ私は行く。実は今日は忙しいんでな」
ハロルドはさっさと神殿を出て行ってしまった。
ゆりはしばし一人でぽかんとしている。
（怪しい。どうも怪しい。スペード様、実は病気とか？ 妖精って病気になるの？）
しばらくぼんやりしていたらクーリーフンがやってきた。
「やあ、きてたの？」
「うん……」
「どうしたの？」
「実はね、さっきハロルドがいたんだけど、変なこと言うんだよ。私がスペード様と仲良くしたいなら今のうちに仲良くしとけって。今までは邪魔してたくらいなのにおかしいでしょ」
「へえ？」
「妖精って病気になる？」
「え？ ならないと思うけど」
「じゃあ妖精が死ぬ時ってどんな時？」
「まあいろいろあるよ」
「うーん……なんか変なのー不気味だわ」
首をかしげていると、「ブー」と低い楽器の音が聞えてきた。
「ん？ なんだろう？」
「ヴァルのラッパかな」
「ラッパ？ ヴァル君いる？」
ゆりは急いで神殿の外に出た。
神殿の外に座り、ラッパを吹いているヴァルがいた。くるくるした髪のかわいい男の子である。
「やだーかわいい！ どうやってきたの？」
ゆりが聞くと、ヴァルはひょいと立ち上がった。近くを女の妖精がふわふわ飛んでいる。
「かわいい！」
ヴァルは歩けるかどうかな、といったくらいの大きさで、まだかわいい盛りである。
「ちょっとうるさかったんで移動させましたー」
風の妖精が言って去って行った。
「あらら、神殿の中でいっぱいラッパ吹いて良いよ」
ゆりはだっこしてヴァルを神殿の中に連れて行った。
「じゃ僕はこれで」
クーリーフンはさっさと去っていこうとしている。
「一緒にラッパ聴こうよ」
「僕はいいよ。いつも聴かされてるから、思う存分聴いてあげてよ」
「うん。わかった」
「ブー」
「お上手お上手」
ゆりはしばらくヴァルがラッパを「ブーブー」吹くのを聴いていた。
（成長するとすごいんだろうなあ。私が生きてる間にすごいラッパが聴けるのかどうか。聴けたらいいなあ）
などと思いながら、ゆりは神の国から去ったのだった。
朝、目覚めたゆりは、横にいるラクシュミの寝顔をじーと眺めていた。
（ハロルドが言ってたことが気になる。スペード様にそりゃ会いたいけど、あの時の王様が悲しむようじゃだめだし、意地でも両立させろって言われてもねえ……とりあえずスペード様が元気かどうか気になる。実は虫の息とかだったりして）
ラクシュミが目を開けてゆりを見た。
「なんだ？」
「王様ありがとう。こんな私を温かく見守ってくれて」
「こんな私？」
「すごく浮気性だから」
ラクシュミはぶっと笑っていた。
「私のこと嫌だって思ったことないの？」
「最初の頃はお前に気を遣うのに疲れてたが、最近は別にない。お前はすごい。何度出産で苦しんでも、けろっとして次を妊娠してるんだもんな。お前がいなかったら私は、今も険しい顔で王の間の椅子に座っていただろう」
「王様……」
「お前はいい王妃だ」
「ありがとう」
ゆりは自分の部屋に戻ってから考えた。
（どうにか妖しい雰囲気にならないでスペード様に会いたいなあ。どうしたらいいかな）
「うーん……ガーベラ様、今も私と一緒にいるのかな。ちょっと相談してみようかなあ」
前回男ガーベラと会ったのは夢の中だったが、今も側にいるのなら、現実でも呼びかけたら会えるかもしれない。ゆりはそう考えて、棚の上に置いてあった手鏡を手に取った。
「ガーベラ様、男ガーベラ様、ちょっと相談があるんですが、姿を見せてください」
ゆりは手鏡に呼びかけてみた。
「ガーベラ様……」
鏡のゆりの姿がぼやけてきた。そして、麗しい神の姿が現われて、にっこり微笑んでいる。
「やった！ ガーベラ様！」
ゆりは喜んだ。
その夜――
聖地にいるスペードはいつもと同じ夢を見ていた。大木に寄り添って座っていたのだが、突然「ニャーン」という猫の鳴き声が聞えてきてきょろきょろ辺りを見回した。
側にやってきたのは一匹の猫である。
「え？ 猫だ」
「ニャーン」
その猫は、口元や両手両足は白かったのだが、頭や体は茶、黒、が混じっていた。
あまり見たことがないような猫である。猫はスペードの側までやってきてじーとスペードを見上げていた。
「……いや、まさかな」
とスペードは首をかしげていた。
「ニャン」
猫は木の裏手に回ってしまい、スペードはその猫を目で追っていた。猫は草原の方に走っていき、途中で止まってスペードの方を見ていた。
「……もしかして、追いかけっこがしたい？ いやーまさか」
猫はちょっと走ってはこちらを気にしている。やはり遊んでほしそうだ。
「ぷっ……」
スペードはつい笑っていた。
猫は全速力で走っていたのだが、スペードはがしっと猫の体をつかまえて抱き上げていた。
「つーかまえた」
「ニャン」
猫は両手両足をばたつかせている。
「かわいい猫ちゃん、どこから来たのかな」
猫はスペードの手から抜け出して地面に降りて、また逃げて行った。スペードはまた捕まえている。猫は暴れていたので下に降ろしてやると、また走っていた。
「元気な猫だな」
猫は黒豹の側まで寄っていき、側で黒豹の様子を窺っている。スペードは猫を抱き上げて連れて行った。
「良い子良い子。ちょっとよく顔を見せてください」
猫はエメラルドグリーンの瞳で、やっぱりメスだった。
「どうして黒ネコじゃないんだろう？」
「ニャーン」
「でもこれはこれでかわいいですよ」
猫はおとなしくスペードに抱っこされていた。
スペードが頭をなでなですると、猫は目を細めている。
（俺の声が聴きたくて猫になってきたとか？ 俺たちって似てるのかな？」
長年この夢に猫が現われたことはなかったのだから、この猫はゆりに違いない、とスペードは思っていたが、多分ばれたくはないのだろう、とも感じていた。自分の存在を主張したいのなら、黒ネコで来るはずだ。
（まさか全然関係ないってことはないと思うが……）
「しかしかわいい猫だが尻尾短いな」
猫の尻尾は茶色いお団子のようなものがついているだけだった。
(あの時尻尾を握りまくったから怒ってるのかな）
スペードは猫を膝に乗せて、しばらくなでなでしていた。
猫は気持ち良さそうにじっとしている。団子のような尻尾もちょっと動いていた。
（これはこれで癒やされるが……）
やがて猫はぴょんとスペードの膝から飛び降りた。
「猫ちゃん、またおいで」
「ニャン」
猫は最後にスペードを見て一鳴きしてから去って行った。
「かわいいねえ。だれに対してもあんなに純粋なのかな。クーガ様も彼女の純粋さにやられたのかな」
スペードは安らいだ気分になりつつ、笑っていたのだった。
朝になった。目覚めたゆりは（やった。スペード様に会えた。元気だった！）と喜んでいた。
（しかもばれてなかった。よかった）
尻尾が短い三毛猫はゆりのリクエストである。鏡で猫の姿を見られなかったのは残念だ。
（ガーベラ様、ありがとう）
横を見るとシスがいた。
「あれ？ いつの間にシスがきたんだっけ？」
シスはゆりの声で目を開けた。
「おはよう」
「おはよう、シスいつからいたの？」
「夜中に来たの。母様が心配だったから。じゃあ行くね」
シスは起きて去って行った。
―うまくいった？
「うまくいった。スペード様に遊んでもらった。夢では元気そうだったから、現実でも元気だよね。きっと」
ゆりはほっとしていた。
―よかったね
猫になって行ったのは黒目のゆりだけだったので、蛇の目のゆりは知らないことだった。
「尻尾が短いって言ってた。もう握られないもんね。ふふっ」
ゆりはうれしそうだ。
―しばらく猫で行くわけ？
「たまに会えたらいいな」
―人で会っちゃえばいいのに
「だって何話していいかわからないし、顔を見られるだけでうれしいもん」
―あ、そう
黒目のゆりはうれしそうだったので、蛇の目のゆりはもう何も言わなかった。
「スペード様に会えて、元気出て来た」
猫になった後遺症か走り回りたくなったゆりは、犬のジロウと一緒に闘技場に連れて行ってもらい、ジロウと遊んだのだった。
つづく
13部
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