第55話
過去の時代、三の月に入り、城の中はいつもよりも静かである。
アナスターシャと王子アゼルは、赤い月の間は、大人間近の子供達に相手をしてもらう予定である。
「母様の出産はどうなったんだろう。今年だと思うんだけどな。会えるとしても随分先になるから私のこと姉だと思ってもらえないかもなあ」
アナスターシャはそういう心配をしていた。
「未来のお城の中もますます楽しくなりそうですね」
アゼルが言った。
「うん！」
「僕は姉ができたおかげで今すっごく楽しいです」
「アゼル君良い子」
アナスターシャはアゼルの頭を思わずなでなでしていた。
未来では、三の月、赤い月の期間に入り、ゆりより先にシャナーンの彼女とヴィラの彼女が出産した。シャナーンの子供は男の子、ヴィラの子供は女の子だった。ヴィンセントにとっては待望の妹である。娘がシャナーンの恋人であるロナウド将軍も孫ができて大喜びである。これでキース将軍には息子が、他の三人の将軍には孫ができたことになる。将軍達の血筋が未来に受け継がれたのだから喜ばしいことだった。
ゆりはお腹が大きく膨らんでいたので、この赤い月でラクシュミと仲良くするのは無理だった。ゆりとしては前回のやり直しといきたいところだったのだがそれもかなわず、しかも頻繁にゆりの気が低下するために、男達に会わないわけにはいかなくなった。ゆりに気をあげられる女性がいないのだから仕方がない。ユリウスもセリアも妊娠中のため、ゆりに気を与えることはできないのだ。というわけで、男達も自分の赤い月に没頭するわけにもいかず、順番にゆりに気を与えている。そしてハザークの要請でディーンも城にやってきていた。
「ディーンさんまですいません」
ベッドにいるゆりは謝っている。
「いやいや、いいんだよ。ハザークは俺の気でもかまわないって言ってたけど、いいのかな」
「いいんじゃないですか？ どこか違うんですか？」
「うーん、まあいいか。俺もベッドにあがっていいの？」
「はい、どうぞ」
ディーンはベッドにあがってゆりの横に座った。ゆりのお腹は結構大きくなっている。ディーンは軽くゆりにひっついていた。
「ディーンさんは、この子の蛇のこと詳しく聞きました？」
「ハザークに聞いたよ。蛇紋の蛇がひっついたって話、嘘みたいな話だけど、本当なんだろうねえ」
「この子の背中には２匹蛇がいるんです。その蛇は、男達みんなの力が混じった蛇のようで、私の金蛇達も、結構器用に子供を作ったみたいなんです」
「ふーん」
話があまり現実味を帯びていなかったので、ディーンもどう反応して良いやらわからないようだった。
「実は、最近夢で、その蛇達が赤ちゃんを取り巻いていたんです。それで気になって。お腹が大きくなっているから赤ちゃんも元気だと思うんですが」
「その子蛇の力が大きすぎるのかも？ まあ、力がある子を産むのは昔から大変なことだから。ゆりちゃんもよくこんなに一杯赤ちゃんを産めたよ。えらいよ」
「王様に一杯家族を作ってあげたくて」
「王様も君にすごく感謝してるよ。しんどそうだ。ちょっと寝たらどう？ 横にいてあげるよ」
「そうですかあ？ じゃあ」
ゆりの顔色はあまりよくなかったので、ディーンはゆりを寝かせて横に寝転んだ。そしてゆりの大きく膨らんだお腹をなでなでしている。しばらくすると、ゆりは眠ってしまった。
（うーん、どうも異様だ。赤ん坊の気が、まとまっていない。それなのに強い。元々ゆりちゃんはいろいろな者から気をもらってはいるが、今までそれが影響したことはなかったようだ。さっき話していた子蛇のせいか？ ２匹いるから余計にそうかもしれない。２匹の蛇達が、どちらが大きくなるかでもめてるのかも？ 産まれ方も変わっているから何があってもおかしくはないが）
なにせ肌の蛇同士が交わるなんて話も、ディーンでさえ聞いた事はなかった。
「いいかい、お母さんと赤ちゃんが困らないように、君達はもっとおとなしくならなきゃ。喧嘩もなしだ。産まれるまで二人ともおとなしく仲良くするんだよ」
ディーンは言い聞かせるように小さな声でささやいていたが、ゆりのお腹にいる存在に届いているのかどうかはわからなかった。
城にあるムサカの部屋に、夜カールがやってきた。普通ならば赤い月期間、カールが城に来ることはないのだが、今年は特別である。
「カールに話しておくことがある。王妃様が出産して、もし命の危機に陥ったならば、わしは回復魔法を使う。王族にしか使えぬ最高度の魔法だ。そのための準備もいろいろしてきたが、実際それが効くかどうかはわからん。この時代で完璧にその魔法が発動できるかどうかもわからん」
「その魔法とは、キュリアナのことですか？」
カールが聞いた。
「おぬし知っておったのか？」
「はい、陛下に魔法書をいろいろ貸していただきましたので。ですが、命の危機に陥るまでとなると、キュリアナで対応できるのでしょうか？ キュリアナが効くのは怪我に対してなのではないですか？」
「そうだ。病気には効かない。だが産褥は病というわけでもないし、妊娠で衰えた体の機能を回復させる効果はあると思う。他に効きそうな魔法もないし。やはりそれを試すしかない。魔法を使えばわしの魔法力はごっそり減り、しばらく回復はしないだろう。だから、今は王妃様に気をあげるわけにはいかない」
「キュリアナは、寿命が縮まるのではないですか？」
カールはまっすぐムサカを見て聞いた。高度すぎる魔法になると魔法を使った者に影響がある場合があるのだ。
「もしそうなっても、わしの１０年２０年などどうということもない。元の姿に近づくだけだからな。くれぐれもそのことは秘密にするように」
「はあ……」
（ムサカ様は、他人の犠牲になってばかりだな……）
カールはムサカのことを、ちょっとせつなく思った。かといってやめてほしいとも言えないし、自分が代わりにその魔法をかけるのも不可能である。
（王妃様は何度も出産を経験されているし、大丈夫のような気もするが）
「ムサカ様、あまり無茶はしないでください。女王陛下が悲しみますから」
「わかってる。わしはちゃんと向こうに帰るつもりだぞ」
「絶対ですからね」
「ああ」
その頃、ゆりは王の寝室でラクシュミといた。ラクシュミは優しくゆりのお腹をなでなでしている。
「王様、来年は、仲良くしようね。軽くでもいいから」
「ああ」
ゆりは去年のことを謝るべきか悩んだが、ぶり返すのも怖い気がしたので言わなかった。
「ゆり、元気でいてくれ。ずっと」
「もちろん」
ゆりが産気づいたのは、三の月十三日、赤い月八日目の早朝のことだった。
「おしかったね。もう少し早かったらシスと同じ日だったのに」
ゆりはのんきに言いながらも出産の準備に入った。準備されている部屋にゆりは運ばれたが、すでにゆりの顔面は蒼白になっている。
「王妃様、がんばってください」
侍女達も緊張した面持ちである。
ゆりの腕にはムサカが気を込めたブレスレットと胸にペンダントがつけられたが、その中の気すらすぐに吸い取られてしまった。
「王妃、王妃」
男達がやってきてゆりに順番に気を与えた。ゆりは出産の様子など男達に見られたくはなかったが、今はそんなことが言っていられる状況ではなかった。ゆりの気が減りすぎている。
「うーん……うーん……」
ゆりはうなり声をあげながらも子供を産もうとがんばっていた。
「王妃がんばって」
部屋の外には男達とラクシュミの他には子供達にハザーク、ジュノーと一緒に来たへびっちもいた。そして犬のジロウも心配そうにうろうろしている。
「母様がんばって」
「マーがんばって」
「ヒルデリア様、どうか母様をお守りください」
部屋の外では子供達もゆりを応援していた。
「もう少しですよ。王妃」
フレイがゆりを励ましている。
産気づいて一時間ほどしてから、ゆりは気力を振り絞り、クロスを出産した。クロスの髪は銀髪だった。
「赤ちゃんが出ました！」
ミラが泣きながら声をあげた。
「やった……やっと……」
「あーん……」
赤ちゃんの声が聞こえてきてようやく産めたと安堵したゆりだったが、
（あ、まずい……）
出産と同時にゆりは意識を失ってしまった。
「王妃様！」
「王妃！」
「ゆり！」
ゆりの気はわずかにしか残っていなかった。男達はゆりの手を握り、気を送り込もうとしたのだが、ゆりの中に入っていかなかった。
「王妃、気を取ってください。王妃！」
カールはいてもたってもいられずにゆりに回復魔法をかけていた。へびっちが部屋の中に入り、人から蛇になりゆりの腕から入ろうとしたのだが、へびっちははじかれてしまった。何度か試したが無理だった。
「王妃！」
産後の処置をしていたフレイがあわててゆりの脈を測っている。
「脈はあるが弱い」
ゆりはわずかに息をしていたが、いつ事切れるかわからないほどだった。
ゆりの様子がおかしいことに子供達は気がついていた。クロスは別の部屋で綺麗にされて寝かされていたが、シス、ラギ、ナナミはクロスを見に行ったが、ミシェイラは行かなかった。
「ミシェイラ、クロスを見て来なよ。かわいいよ」
ラギが誘ったが、
「やだ、やだやだ、クロスなんて嫌い。大嫌い」
ゆりの状態があまりに悪かったので、ミシェイラは泣きだしてしまった。
「クロスのせいじゃないんだよ。そんなこと言っちゃだめだよ」
シスが優しく言った。
「やだよう。やだーマー目を覚ましてよう」
ミシェイラにつられてレーヌも泣いていた。
ハザークが泣くミシェイラとレーヌを抱きしめていた。
ムサカが部屋にやってきた。
「今から回復魔法を使います。王妃様から少し離れてください」
ムサカはジロウが川で拾ってきた隕石の石を活用しようと考えた。かつて隕石の石は魔法剣の原料に使われた。それも隕石の石には魔法力をため込み、持続させる効果があるからだ。ムサカはその石にすでに中級程度の回復魔法を入れている。その石をゆりの胸元に置いた。
ムサカが呪文を唱えだした。
その頃二人のゆりは、どこかに向かって歩いていたが、青い花が前方に咲き乱れて二人の行く手を遮っていた。
「ガーベラ様が、行くなって言ってるみたい」
「でも、足が止まらない……」
「あーこんなことなら、ミカエル達とやっちゃった方がよかったかな？ 約束が守れなくなっちゃったわ」
黒目のゆりが心残りのように言っていた。こんな時でも、どこかのんきである。子供を無事産めた安堵感もあった。
「ふっ一番の心残りがそれ？」
蛇の目のゆりが笑って聞いた。
「他にもいろいろあるけどさ。神様達も、泣かせちゃうね」
「そだね」
『諦めちゃだめだよ。戻るんだよ』
声が聞こえてきた。
「諦めたくないけど、足が止まらないんです」
「もし無理だったら、ガーベラ様にお礼を言っておいてくださいね。楽しかった。ありがとうって」
『いやだよ。そんなこと言いたくないよ』
「王様、みんな、愛してくれてありがとうって、これも言っといてください」
『言わない』
その頃、神の国では、血相を変えたガーベラとラーズが雲の上の神殿にやってきていた。ガーベラはアシュランの間にいたアリアスを追い出した。
「一体どうしたんだ？」
アシュランが聞いた。
「彼女が死にかけているわ」
「え？」
アシュランはすぐに床に人間界の様子を映した。ゆりの周りにいる男達が泣いているが、ゆりはまだ死んではいなかった。だが虫の息である。
「出産か」
「ゆりちゃん……」
ラーズは泣き顔である。
「アシュラン、彼女を助けて。彼女は今まで神の国に多大な貢献をしたでしょう」
「私だって助けたいが……もしこのまま彼女が死ぬ運命ならば、私にはどうしようもない。他の人間に王妃の魂を移すことなら可能だが、それを王妃が喜ぶとは思えない」
他の人間になってしまったら、もうこの国の王妃ではいられないのである。
「出産が原因なら、ヒルデリアになんとか頼めないの？」
「ヒルデリアは、死ぬ運命にある子供を母親の命と引き換えに助けてやることはできるが、王妃がその逆を望むわけがないから無理だ」
「じゃあどうにもできないの？」
ガーベラは泣いていた。
「死ぬには早すぎる。早すぎるじゃないか……」
ラーズも涙を流している。
「なんとか生きていれば、手を貸すことは可能だ。王妃、死ぬんじゃない！ 自力で目を開けろ。自力で戻って来い！」
アシュランはゆりに向かって叫んでいる。
「ハロルドは今どこにいるの？」
「今外れに行ってる。またあいつらが現われたんだ」
アシュランの間の裏では、グレンが突然の凶事に涙を流していた。
「ガーベラ様、死なないでください。どうか……」
『王妃、今お前がいなくなったら、私は神々の記憶からお前のことを消さなければならなくなる。それでもいいのか？ 戻ってくるんだ！』
二人のゆりに別の声が降ってきた。
「アシュラン様だ」
「最後にキツイ」
「記憶を消されちゃうなんていやだ」
今までの神々とのやりとりがすべてないことになってしまうなんて、二人のゆりには辛いことだった。
『生きろ。生きてくれ』
生と死、ギリギリのところで二人のゆりは踏みとどまっている。
ムサカの唱えた呪文はゆりにかかっていたが、ムサカは眉をひそめていた。
（失敗した。これはキュリアナではない）
ゆりにかかったのはムサカがかけたかった魔法ではなく、高度な回復魔法にとどまってしまった。
「ゆり、ゆり、しっかりしろ。目を開けろ」
ラクシュミがゆりの手を握り、側でゆりにささやいている。魔法がかかっても、ゆりの気力はさっぱり回復しなかった。
「王妃、我々の気を取ってください」
ミカエルが泣きながら言った。
「お願いですから。目を開けて」
男達はみんな涙を流している。子供達も同じだった。ミシェイラとレーヌはわんわん泣いている。
（隕石の石との相乗効果を期待したが……無理なのか。やはり、魔法力が足りなかったようだ）
ムサカの様子にカールも何かを察していた。
「王妃、目を開けてください」
「王妃」
「母様！」
「お母さん、目を開けて」
その時、番兵があわてて部屋の前にやってきた。
「ミカエル様、これを王妃様のために使って欲しいと占い屋が」
「占い屋？」
ミカエルはネックレスを受け取った。それには魔法の石がはめこまれている。
「ムサカ様、魔力を増幅させる魔具ですよ。これ」
ネックレスは以前に占い屋に借りた物とよく似ていた。ムサカは以前の物を今身につけている。
ミカエルはネックレスをムサカに渡した。
「これは、以前のものよりも段違いに良いものですね。これがあったらあの魔法が使えたかもしれないが、今はもう魔法力が……」
先ほど回復魔法を使ったせいで、ムサカの魔法力は十分の一程度まで落ちていた。これではいくら魔具があったとしても、魔法は使えない。
「アシュラン、なんとかして！」
神の国ではガーベラが泣きながらアシュランに訴えている。
「魔法力の回復くらいならしてもいいだろう」
アシュランはぱっと右手を払った。
「やれ！ 魔法使い！」
「！？」
ムサカの魔法力が限界まで回復した。
「これは……これならできる！」
魔具の効果があり、ムサカの魔法力はかなり上昇していた。
ムサカは再び呪文を唱えた。ゆりの体の周りに光りの柱が取り巻いた。部屋の中をぱっと明るい光が満ちる。皆がまぶしげに目を細めた。
「成功した」
二人のゆりには光の帯がカーテンのように降り注いでいた。
「キレイ……」
「足が……動く……」
後戻りしたくてもできなかったが、今は足が動いていた。
『今だよ。戻るんだ。みんなの元に！』
「うん。戻る」
「戻ろう！」
二人のゆりは光に向かって走った。
ゆりの目が開いた。
「ゆり！」
「王妃！」
皆がわっとベッドの周りに集まった。
「……ただいま」
自分の周りで泣いている皆に向かって、ゆりは言った。
「ゆり……」
男達も侍女達も子供達も、今度は喜びの涙を流していた。
「本当によかったですよ。王妃」
医者のフレイも同様である。
ムサカの体がふらつき、ハインリヒがあわてて支えていた。
「大丈夫ですか？」
「部屋に連れて行ってくれ」
「はい」
ハインリヒがムサカを運び、ゆりは大丈夫そうだったので、カールもムサカの元に行った。
「よかった。王妃、我々の気を取ってください」
男達は順番にゆりの手を握った。
「マー……」
ゆりは泣いているミシェイラの頭をなでた。
「クロスを見せて」
「そうだね」
シスがクロスを抱っこして連れてきた。銀色の髪の男の子である。クロスはゆりの横に寝かされて、しわくちゃの顔で「わーわー」泣きだした。
「クロスもよくがんばったね。ミシェイラ、レーヌ、弟よ。仲良くしてね」
ゆりが女の子達に言った。
「うん。クロス、ごめんね。嫌いじゃないよ。大好きだよ」
ミシェイラは先ほどの言葉を謝り、クロスの頭をなでたのだった。
神の国では、ガーベラとアシュラン、ラーズが安堵の息を吐いていた。
「よかった。本当によかったわ」
「峠は越したな。グレン、いつまでも泣いてないで、癒やしの水をくんでこい」
アシュランは後ろを見ながら言った。
「は、はい！」
「もしもの時の保険が役に立つとはな。保険をかけといてよかった」
アシュランはぼそっと言っていた。
「ほけんって？」
「こっちの話だ。ハロルドが聞いたら飛んで行きそうだな。どうしよう」
「そりゃ飛んで行くわよ。クーリーフンだって飛んで行くわよ」
「私だって今飛んで行きたい気分だよ」
とラーズ。
「うーん……」
などとうなっていたら、当のハロルドがやってきた。
「終わった。今回もたいしたことはない敵だった」
ハロルドは鎧も着ていなかった。
「そうか。ハロルド、イシュタールの身を清めてから、ここに連れてきてくれ」
「ああ……何かあったのか？」
ハロルドはガーベラの表情を見てそう思ったようだ。ガーベラは泣きはらしたかのような目をしていた。そしてラーズも。ハロルドは近づいてラーズの目を見た。
「目の色が変わってるぞ」
ラーズの瞳は茶色に変化していた。
「ちょっとな」
「話はイシュタールが来てからな」
アシュランがせかして、ハロルドは広間を出て行った。
しばらくしてから、ハロルドがイシュタールを連れてやってきた。
「イシュタール、今から人間界に送る。王妃が出産したんだ。あそこの男達はみんな憔悴しきっているからお前の助けがいるだろう」
「は……はい。王妃が出産……とうとう」
イシュタールは喜んでいる。ゆりに大変なことがあったとは知らないのだから仕方がない。
「アシュラン様、くんできました」
グレンがやってきたが、ものすごく大きな水瓶を両手でかかえていた。
「一杯くんできたな。まあいい。イシュタール、それを持って、その前に剣はハロルドに預けておけ」
「は、はい」
イシュタールはサラマンダーの剣をハロルドに渡して、グレンから水瓶を受け取った。
「その水は癒やしの効果があるから、少しずつ王妃に飲ませるように。じゃあ送るぞ。一月ほどしたらまたこちらに戻すからな」
「はい」
アシュランは右手を払い、イシュタールの姿は消えた。
「癒やしの泉に直接沈んだ方がいいんじゃないの？」
ガーベラがアシュランに聞いたた。
「癒やしの泉に三回目はさすがになあ……」
ハロルドはガーベラや泣き顔のグレンを見て、嫌な予感を感じたようだ。
「王妃に何かあったのか？」
「実はちょっと危なかった」
アシュランは正直に言った。
「！？」
ハロルドは後ずさり、身を翻して行こうとしていた。
「ちょっと待った。今はもう大丈夫だ。王妃は安静にしなきゃならん。行くなら数日後にしろ」
「本当に大丈夫なのか？」
「体調が急変しなければな」
「…………」
ハロルドまで泣きそうになっていた。
「こういうときは、ヒルデリアの神殿にいる神官の処方が効くだろう。頼んでこい」
アシュランはグレンを見て言ったのだが、「私が行く」とハロルドがすっ飛んで行ってしまった。
「いてもたってもいられないんだろうな。私も何かしたい」
ラーズもそわそわしている。
「お前達、お見舞いにばらけて行くんじゃないぞ。まとめて行けよ。王妃は安静にしなきゃいけないんだからな」
アシュランはグレンとラーズに注意したのだった。
人間界にはイシュタールが戻ってきた。
「イシュタールだ」
「イシュタール！ 髪が緑だ」
イシュタールの髪は赤ではなく、深い緑に黒が混じった髪になっていた。
「ただいま帰りました。今は赤い月期間だからかな？ 王妃、大丈夫ですか？」
ゆりは今目を閉じている。ゆりの周りにはラクシュミにハザーク、子供達全員、シャナーンはゆりの手を握っていた。シャナーンの気力はかなり低下している。イシュタールは「代わるよ」と言ってシャナーンと交代した。でかい水瓶はそっと部屋の隅においた。
「あの中に入っている水は癒やしの水なんです。王妃が目覚めたら少しづつでも飲まれるようにと言われました」
「ありがとう。アシュラン様も心配してくださったんだな」
とラクシュミ。
「マー大丈夫だよね？ ね？」
ミシェイラがラクシュミに聞いた。
「大丈夫だ。顔色もさっきよりだいぶよくなってきた」
「そうだ。クロスの背中はまだ見てなかった。兄さん、見に行こうよ」
「そうだね。行こう」
二人は別室で寝かされているクロスの元に行った。部屋の中に男達もいたのだが、かなり重苦しい雰囲気である。
「どうしたの？」
シスが部屋にいた侍女に聞いた。侍女は首をかしげている。
「クロスがどうかしたの？」
二人はベビーベッドに近づいた。
「クロス様はお元気ですよ」
ヴィラが言ったが、ヴィラの顔色も悪い。クロスは普通に眠っているだけのようだ。
「どうしたの？」
シスが男達に聞いた。
「王妃が苦しんだのは我々のせいです」
ヴィラが悲痛な面持ちで言った。
「なんで？」
「背中の蛇をみたらわかります」
シスとラギは目を合わせて、「クロス、ごめんね。ちょっと背中を見せてくれるかな」と言ってクロスの肌着を脱がせてそっと体を横にした。
「あー」
「ごめんね。起こしちゃったね」
クロスの背中には確かに２匹蛇がいたが、２匹の蛇の大きさには偏りがあった。
「無事産まれてよかったね」
そこにディーンとへびっちがやってきた。
「どうしたの？」
男達の暗さにディーンが聞いた。
「２匹の蛇の大きさがかなり違うんです。そのことを言ってるの？」
ラギがヴィラに聞いた。ディーンとへびっちもクロスの背中の蛇を見た。
１匹は金色、赤、紫、もう１匹は黒、青、緑、赤の鱗をしていた。金色が入った蛇の方が明らかに大きい。
「やっぱり喧嘩しちゃったのかな」
ディーンが言った。
「子蛇がですか？」
シスが聞いた。
「ご飯を取り合って喧嘩したんだろう」
「ご飯って気ですか？」
ラギが聞いた。クロスは嫌そうにしていたので、シスは肌着を着せて元に戻した。
「王妃が苦しんだのは我々のせいです」
フリットが泣いていた。
「我々は、王妃を殺してしまうところだった」
「この蛇は、君達の想いだけで産まれたわけじゃないだろう。ゆりちゃんが君達の想いを受け止めた結果だろ？ そんな風に思うのはよくないんじゃないかな。産まれた子供に対して産まなきゃよかったと言うのと同じだからやめなさい」
ディーンばぴしっと言った。
「…………」
「うう……」
ミルキダスは号泣していた。
「それよりも必要なのは、今後の教育だよ。子蛇が暴走しないように教育することだ。父は一杯いるんだから。お兄ちゃんもいるし、ね」
ディーンがへびっちを見ると、へびっちはまかせてくれとばかりに自分の胸をたたいていた。
「そうだよ。この子蛇は、クロスを助けてくれるに違いないんだから」
シスが男達に言った。皆一様に泣いていた。
「この蛇はお父さんの子供でもあるんだから、みんなが気にしてたらお父さんだって気にしちゃうよ」
とラギ。
「そうですね。ありがとうございます」
ヴィラが涙を拭いて言った。
ゆりの寝室では、戻ってきたハインリヒとカールが、イシュタールを見て驚いていた。
「ムサカ殿の具合はどうだ？」
ラクシュミがハインリヒに聞いた。
「魔法で疲れただけですので、休めば大丈夫です」
ハインリヒはそう言ったが、ムサカの様子を見るに、ただの疲労とは思えなかった。頬がこけて、まるで一気に老いたかのような印象さえ受けたのである。ハインリヒがカールを見ると、カールもムサカの変化に気がついたのか顔色が悪くなっていたが、何も言わなかった。カールが何も言わなかったので、ハインリヒはそこで疑問を抱いた。
―何か知ってるのか？ あの魔法には、術者に副作用のようなものがあるんじゃないのか？
ハインリヒはカールに聞いた。
―そうだとしても、ムサカ様は魔法を使うことをためらったりはしません。そういう方ですから
「…………」
（くそじじいめ。いつまでたっても、追いつく事なんてできやしない……）
ハインリヒは涙を拭いてゆりの寝室に戻ってきたのだった。
「王妃に癒やしの水を飲ませたいんですけど、起こしちゃまずいですかね」
イシュタールがフレイに聞いた。
「うーん、王ちょっと起こしてみてください」
フレイがラクシュミに頼んだので、ラクシュミは遠慮がちに、「ゆり、ちょっと起きろ。ゆり」と呼んだが、ゆりは起きなかった。
「マーちゃんと生きてる？」
レーヌが聞いた。
「生きてますよ。疲れ切っているのです。もうちょっと待ってみましょう」
ゆりの寝息は安定していたし、イシュタールの気も吸収していたので、一同は待ってみることにした。
そして城の北の街の商店街裏通りにある占いの店では、主人のミケがずっと魔法の玉を凝視していた。
「安定してきたかなー。もう大丈夫かなー。まったくヒヤヒヤしたぜ」
ミケは魔具を渡すまで葛藤したものだった。なにせ、今日渡した物は、魔力の総量が1.5倍になる魔具なのだ。しかも、魔法の威力まであがるという優れものなのである。もし渡せば、二度と戻ってくることはないだろう。ミケはそう覚悟していた。
「まあしょうがねえか。宝石があれの代金だと思うしかねえな」
ミケはため息をつきつつも、わずかに輝く魔法玉を眺めていたのだった。
つづく
１３部
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