第56話
『ああ生きてたんだ。よかった……』
ゆりが再び意識を取り戻した時に思ったのはそんなことだった。
さすがにもうだめかと思ってしまった。それなのに、なんとか生きている。体は辛くて動かないが、生きているのだからそのうちに回復するはずだ。目を開けると、そこに懐かしい男がいた。
「王妃、目を覚ましましたか。イシュタールですよ」
イシュタールの髪は赤くなかったので、ゆりはぼんやり見上げていた。
「そうだ。お水を飲みましょう」
イシュタールは吸い口が長いガラスの容器をそっとゆりの口元に運んで、少しずつ水を飲ませた。
「癒やしの水ですよ。神の国でいただいてきたんですよ」
（癒やしの水……そうだ。アシュラン様も心配してたんだろうなあ）
「ゆり」
ベッドの横にラクシュミがやってきた。
「すごくがんばったな。ありがとう。しばらくゆっくり休むんだぞ」
「うん」
ゆりは体をもぞもぞ動かして、胸の辺りから何かが下に転がった。
「何？」
「ああ、隕石の石だ。ムサカ殿が回復魔法を入れてくれていたんだ。まだ側に置いておこう」
ラクシュミは石をゆりの側に置いておいた。
「マー」
ミシェイラとレーヌがやってきた。
「おめめ開いた？」
「うん。二人でママに歌をうたって」
「いいよ」
二人はかわいい声で歌を歌い、ゆりは少し聞いて目を閉じた。
ゆりは癒やしの水を少しは飲むことができたのでイシュタールはほっとしていた。あれから一晩経っている。イシュタールはずっとここにいたのだった。他の者に交代すると言われても、譲らなかったのである。
「イシュタールの彼女もお腹が大きいようだ。様子を見てきたらどうだ？」
ラクシュミが言った。イシュタールはここに直行してきていたのだ。イシュタールの気は、かなり減っていた。
「では少し帰ります。王妃が気がついたらまたあのお水をあげるように侍女に伝えてください」
「わかった」
イシュタールはお辞儀をして去って行った。入れ替わりでエルバートがやってきた。
「もし必要でしたら私の気も使ってください」
「ありがとう。ゆりは寝たから二人は別の部屋に行ってくれるか？」
ミシェイラとレーヌはうなずいて部屋を出て行った。エルバートはゆりのベッドの側にある椅子に座り、ゆりの手を握った。
「さっきハザークから聞いたが、随分大変だったんだってな」
エルバートと共にいるカーライルがラクシュミに聞いた。
「ええ。ムサカ殿のおかげですよ。ムサカ殿がいなかったら本当にどうなっていたかわかりません」
「本当に王妃が無事でよかった」
カーライルは心底そう思っているかのように言った。
ゆりの出産にはクロスの背中にいる２匹の蛇が大きく関わったのではないか？ そのことで男達はかなり意気消沈している。自分達の欲が王妃の命を奪うところだったのである。特に、最初にゆりの金蛇達と交わったフリットは、激しく落ち込んでいた。「気にしないで」と子供達に言われても、気にしないわけにはいかないようだ。
クロスの背中の蛇もそうだが、ラクシュミはもう一つ後悔していることがあった。ガーベラの儀式の後にガーベラがくれた花。あの花のお茶を、なぜゆりに飲ませなかったのかと。あのお茶を飲んでいれば、どんな出産だろうと元気で終わった可能性があったのだ。現にカーラは元気に子供を出産しているのである。
今となれば、すべては後の祭りである。この時代にムサカがいたことが、ゆりにとっては幸運の出来事だった。
ラクシュミはムサカの様子を見に行きたがったが、ハインリヒに様子を聞いた所、ムサカはあれからまだ眠っているとのことだった。ムサカの世話をしている侍女からは「かなり疲れたご様子です」との報告を受けている。ラクシュミはハインリヒに、「ムサカ殿が気がついたら教えてほしい」と思念で伝えて、王の間に戻った。
このときハインリヒはムサカの部屋にいた。
「王がムサカ様に会いたがってますよ」
「うーむ。しばらく会わないようにはできないものかのう……」
ムサカはベッドに座っている。とっくに目が覚めていて、食事を食べる元気もある。ただ魔法力はかなり低下し、今は瞬間移動もできないだろう。そして外見上の変化があった。明らかに、３０年ほど年を取っている。この顔を見れば、あの魔法のせいだとわかってしまい、ラクシュミもゆりも気に病むことだろう。そう思うと、ムサカは今はラクシュミに会いたくなかった。
「変身魔法はザクート王に封じられてしもうたしのう。三日ほど休めば、少しはましにならんだろうか」
「太ればごまかせるかもしれないですが、短期間でそんなには太れないですよ」
とハインリヒ。
ハインリヒは、ムサカにお礼を言いたいという子供達にも今はここに来ないように伝えていた。そういうハインリヒも、今は気力はかなり低下している。男達もハザークもゆりの出産時に気を限界まで与えていたので、まだ回復していなかった。
「ハインリヒも休んだらどうだ？ 王妃がまた気を欲したときのために」
「どうにも眠れません。王妃があんなに大変だったのは、背中の子蛇達のせいじゃないかと思うと……みんなその件でがっくり来てるんです」
「今更考えてももうどうしようもないだろう。子供の前でそんなことを言うでないぞ。背中の蛇は悪い蛇ではない。クロス様を守るためにいるのだから」
「そうですね」
ハインリヒはその後クロスが寝ている部屋に行った。部屋ではナナミが歌を歌っている。古代叙事詩である。医師のフレイはこことゆりの部屋を行ったり来たりしていた。侍女二人は隅で控えている。ベッドの上のクロスは目を開けている。クロスの瞳は、王族の金色の瞳である。
「ムサカ様の様子はどう？」
ナナミがハインリヒに聞いた。
「ちゃんと食事はしてますよ。大丈夫です」
「よかった。アーねーが帰って来るとき、ちゃんとムサカ様が向こうに帰らなきゃ、女王様にも申し訳ないもんね」
「そうですね」
「ハインリヒもクロスの蛇のことを気にしてるの？ 母様も、みんなの子蛇を産んであげたかったと思うよ。母様はちゃんと生きてるんだし、子蛇のせいにしちゃだめよ。母様があんなことになっちゃって、みんな子蛇を見て感動するどころじゃなくなったのが残念。この蛇はこの世で起きた奇跡なんだから、もっと感動してあげてほしいな」
「そうですね。本当に、もっと感動するべきですよね」
ハインリヒは泣きそうになっていた。
ハインリヒは、２０年ほど前、初めて自分の子蛇と対面したときの感動を思い出していた。どうして我々はあの時のように、子蛇の誕生を喜んであげられなかったのだろう。
２匹の子蛇は、間違いなく、この世で起きた奇跡には違いない。もっと感動して喜ぶべきだ。そうでなければ、子蛇を産んでくれた王妃にも申し訳ないではないか。
「王妃が元気になったら、パーティーをしましょう」
「うん。しよう」
「ナナミ様も成長しましたね」
「アーねーがいないから今は私が長女だもんね」
ナナミはにこっと笑っていた。
「あー」
クロスが声を出していた。
「シスにーみたいな感じで成長するのかなあ。楽しみだなあ」
「ロイ様よりになっちゃうかもしれないですよ」
「やだー」
二人はしまいには笑っていた。
神の国である。グレンの様子がおかしすぎるので、ヒルデリアが「一体グレンに何があったのですか？」とアシュランに聞きに来た。
「怒りでもしたのですか？」
「いや。実はあいつが気に入っている人間が死にかけたので、情緒不安定になっているんだ」
アシュランはヒルデリアにたいしてあまり嘘をつきたくなかったので、正直に言った。
「まあ。それで大丈夫だったんですか？」
「ああ、なんとかな。グレンの祈りが通じたのか、無事だった。出産で死にかけたんだ。改めて、母親の大変さを感じたな。私も昨日一緒に応援したんだ。がんばれって」
「そうでしたか。昨日ハロルドも何やら言ってきましたが。出産後の女性がすぐ元気になるようなものを何かくれと。ザクロ以上の物はないかと聞かれましたが、あれ以上となればありません。ザクロもすっかりなくなっていたし」
ヒルデリアの農園にあるザクロの木に、ザクロは一つもなかった。ハロルドが最近採ったのが最後だったようだ。
「そうか。ハロルドには、ヒルデリアの神官に聞いたらどうだと言ったがな。あそこの薬はだめか」
「あそこの薬は産後十日は経ってから飲むのが望ましいのです。ところで、グレンが気にしている女性と、ハロルドが気にしている女性は同じでは？」
ヒルデリアが確信をついてきた。
「う？ ……まあ、実は同じだ」
「では、蛇の国のあの王妃ですか？」
「うん」
アシュランは仕方なく認めた。
「グレンはいつの間に王妃に接触したのでしょう」
「前に癒やしの泉に長い間いたからその時だろう。グレンの想いは彼女に幸せでいてほしい、とかいう純粋なやつだ。彼女はとりあえず生きているから、これから元気になるといいと思っているが。まさか三回も癒やしの水に入れるわけにもいかないから、癒やしの水を贈るのを許した。私ができるのもそのくらいだ。あまりひいきするわけにもいかないしな」
アシュランはヒルデリアの手前、ゆりを積極的に助ける気はないような口ぶりで言った。
「今、王妃の様子を見せてください」
「見てどうするんだ？」
「とにかく見せてください」
「わかった」
アシュランは床にぱっと人間界の様子を映した。ゆりはベッドで寝ている。アシュランは、ゆりのベッドの上だけ映るようにしていた。ベッドの横には犬のジロウがいて、ヒルデリアが見れば、すぐに神の国の犬だと気がついてしまう。しかも棚の上にはクーガの木像の人形まで飾られている。ヒルデリアはしばらくゆりの顔を見つめていた。
「気力がかなり低下していますわね。何やら魔法がかかっていますから、徐々に体は回復しているようですが……体が辛そうですから、とりあえずナキリ草が効くでしょう。犬の国で有名な薬草です」
「ああ、それのことを忘れてた。あれは産後もいいのか」
「それからアカムクの実。獏の国では妊婦の薬とまで言われる滋養がある実です」
「アカムクの実。ああ、あれか。王妃はとりあえずは死なないよな？」
「この様子だとじわじわ回復すると思います。私も完全には言い切れませんが」
「そうか」
「確かに他の神の手前、一人の人間を癒やしの泉に三度も入れるわけにはいかないでしょうが、癒やしの水を贈ったのなら、もっと効果的に使う方法があります。ラクアの力を借りなければなりませんが」
「ラクア？ あまりラクアの力は借りたくないな。細かく理由を聞かれても面倒だし」
「ジンラに頼ませればいいではないですか。表向き恋人ということになっているのでしょう」
「あーそういやそうだっけか」
アシュランはその設定はすっかり忘れていた。
「ジンラは知らないのですか？」
「言ってない」
「表向き恋人のジンラがラクアに頼むということなら、それほど変な話ではないのでは？」
「そうかな」
「アシュランも本当は早く彼女に元気になってもらいたいのでしょう？」
ヒルデリアはちらりとアシュランを見て言った。
「そりゃそうだ。グレンはまあいいとして、ハロルドの精神面は今後重要だ。あいつには人間世界への愛がかかせない。それが失われるときは、世界は破滅への道をたどるだろう。守りたい者が多い方が、あいつは強くなる」
「やはり近いのですか。戦いは」
ヒルデリアの瞳が曇っていた。
「多分な」
「トルメンタはそのために再びこの地にやってきたのでしょうか」
「いや、ヒルデリアに会いたかったからさ」
「……やはりジンラがラクアに頼む方がいいでしょう。ハロルドは感情的になってうまくラクアを説得できないでしょうし、ラクアはグレンの言うことは聞かないでしょう」
「そうだな」
（ジンラが王妃を助けたいというのは、おかしなことではない。表向きは恋人なんだし。よし、ジンラを使おう）
「ありがとう。ヒルデリア」
「いえ。それでは」
ヒルデリアは去って行った。
「誰かいるか？」
アシュランが裏に声をかけると、ライサがやってきた。
「クーリーフンとジンラを呼んできてくれ」
「わかりました」
ライサは去って行った。
その頃ラーズの神殿にはラクアがやってきていた。
「あ、ほんとだ。目の色が変わってる。どうしたの？」
ラクアは座っているラーズの顔を近くで眺めて聞いた。さきほどサーラに聞いたのである。
「ものすごく動揺することがあって、多分そのせいかな」
「動揺？ 何に動揺したの？ ガーベラもなんかおかしかったんだけど。まさか二人が喧嘩したとか？」
「いや。そうじゃない」
「そう」
ラーズは元気がなく、その理由も話す気がなさそうだったので、ラクアは自分の神殿に戻った。
すると、ジンラが深刻な表情で訪ねてきた。
「ラクア、重要な相談があるんだ」
「ん？」
ジンラは神殿の中でその内容を話した。
蛇の国の王妃が産後体調が悪いこと、アシュランは一人の女性ばかりひいきするわけにもいかないので、癒やしの泉を今回使わせられないが、癒やしの水を贈ったことを話した。
「だが、彼女は寝込んでるので癒やしの水を飲むのもままならないらしい。ラクア、助けてくれないか。ラクアなら、どうにかできるんじゃないか？」
「王妃はそんなに体調が悪いの？」
「ああ、オルガとサラディンが聞けば私と同じように思うに違いない。我々三人からの頼みだと思って聞いてほしい」
ラクアはその時、（もしやガーベラが元気がないのはそのせいか？）と気がついた。
（もしかしてラーズも？）
「オルガとサラディンも彼女と親しいの？」
「オルガは最近よく彼女と話をしているようだ。サラディンは、半妖精の彼からよく王妃の話を聞いて、王妃に好意を抱いていた」
「そうなんだ」
「頼むラクア、彼女の恋人になるように提案したのはラクアだろう。私は恋人らしいことがしたい。彼女に元気になってほしい。アマンザも彼女のことを気に入ってるようだから、知れば悲しむに違いない」
「確かに、恋人になるように提案したのは僕だ。……わかったよ。半日だけ、彼女の側にいよう」
「ラクア、ありがとう」
ジンラは喜んでいた。
その頃クーリーフンは、アシュランからナキリ草とアカムクの実を受け取り、人間界に降りていた。
クーリーフンは庭園にいたシスとラギに気がついて近づいて行った。
「クーリーフン様」
「やあ、彼女の様子はどう？」
「今はだいぶ落ち着いていますよ。まだ油断はならないですが」
「はい、これ薬草と滋養がある実だって。近々ラクアがここにくるかもしれない。寝室にあるクーガの木像を隠しといてくれって言われたよ」
「わかりました」
二人はうなずいた。
「ラクア様は何をしにいらっしゃるんですか？」
シスが聞いた。
「癒やしの水を効果的に使うためにだって。それじゃ僕は行くから。早くよくなるように僕も祈ってるよ」
クーリーフンは飛んで行った。
二人は走って城に戻った。ゆりの寝室にいたのは、エルバートから、ヴィクターとロナウドに代わっていた。
ゆりは目を閉じている。ヴィクターはゆりの手を握っていた。
シスはさっそくクーガの木像を棚の中に隠した。
「こんにちは。将軍たちまですいません」
ラギは申し訳なさそうである。
「とんでもない。ミカエル達はまだ回復していないのだろう。我々だって手伝いたい」
「ありがとう。そうだ。ジロウはどうする？ しばらく部屋から出しておく？」
シスがラギに相談した。
「そうだねえ。ジロウ、ちょっとお母さんから離れていてくれるかい？」
「くーん」
ジロウは嫌そうに後ろに下がっている。
「嫌みたい。まあいいか。ハロルド様のことは、ラクア様も知ってるかもしれないし」
ヴィクターとロナウドがきょとんとして二人をみた。
「近々ラクア様がいらっしゃるかもしれないんです」
シスが言った。
「え？ ラクア様？」
その時ミラが寝室に飛び込んできた。
「ラクア様がお城にいらっしゃいました。こちらにいらっしゃるそうです」
「本当にいらした」
「わ、我々はどうする」
ヴィクターとロナウドはかなり動揺している。
「と、とりあえず挨拶をして去ろう」
「そ、そうだな」
四人はゆりの部屋の方で立ち、ラクアを出迎えた。清廉そのもののラクアが部屋にやってきて、四人は緊張して頭を下げた。ラクアは青い水瓶を持っていた。
「王妃のことは僕にまかせて、夕方まで誰も来ないようにしてほしい」
優しげな声だったが有無を言わせぬ感じでもあった。
「はい、どうかよろしくお願いします」
ヴィクターが頭を下げたまま言い、四人は部屋を去った。以前ラクアがゆりと出会ったのは違う部屋だった。ラクアがこの部屋に来るのは初めてである。ラクアはちらりと壁に掛かっている神々の絵画を眺めて、寝室に行った。寝室には眠っているゆりと、犬が一匹いた。
「クーンクーン」
ジロウは甘えた声を出して、しっぽをふっていた。ラクアがゆりを助けにきたのだと気がついたのかもしれない。
「クーン……」
ラクアは犬を追い出そうかとも思ったが、邪魔はしないようだったのでほっておいた。
「さて、癒やしの水はあれか」
ラクアは部屋の隅においてある水瓶に目を止めた。水瓶の中の水がざっと上に上がり、ゆりの顔の周りを取り巻いたのだった。
その頃ハロルドは、ザクロを残しておかなかったことを心底後悔していた。ヒルデリアの神殿の神官にも会ったが、もう少し回復しないと薬がかえって毒になる場合もあるようだ。ハロルドはヒルデリアの農園にサントスと緑の神ジュライを連れてきた。
「ジュライ、お前の力でザクロを実らせてくれ」
ハロルドはジュライの肩に手をあてて頼んだ。確かにジュライは緑の神である。植物を生長させる力もあるのだが。
「これは特別な木だからな、ちょっと私の力は効きにくい」
ジュライはザクロの木に触れながら言った。
「アイナのほうがそういう力は上じゃないかな」
アイナは最近産まれたサントスの娘である。
「まだ赤ちゃんじゃないか」
「そうだ。アイナの神器があっただろう。サントスなら使えるんじゃないか？」
ジュライが言った。確かに、アイナは神器を持った神である。植物の蔓がまきついた黄金の弓がアイナの神器だ。
「私に使えるかなあ」
サントスは首をかしげている。
「とりあえずこの木に神器を使うにしても、ヒルデリアの許可を得てからにしないとね。聞いてくるよ」
サントスはハロルドが呼んだペガサスに乗って飛んで行った。
ハロルドが農園の中をうろちょろしていると、サントスが戻ってきた。ジュライはもういない。
「弓を借りてきた。それから、アイナが矢を作ってくれたんだ。すごいよ」
サントスは輝く矢を一本だけ持っていた。サントスはザクロの木に向かって弓をかまえて、矢を放った。
光り輝いた矢は消え、ザクロの木がキラキラ輝いた。
「ちょっと様子をみてみよう」
「助かった。それから、ヒルデリアの神官の処方に必要な薬草を書いてもらった。ここにしかないのが３つほどあるんだと。私はよくわからんからサントス頼む」
ハロルドは紙をサントスに渡した。人間の文字が書いてあるが、サントスには読めなかった。
「カサンドラに読んでもらうよ。後で届けるから、ハロルドはついてなくていいよ」
「そうか？ 頼りにしてるぞ」
ハロルドはサントスをヨイショして違うペガサスを呼び、去って行った。まさかラクアがゆりの元にいるとはハロルドもまだ知らない。
「やれやれ」と言いながらサントスは再びペガサスに乗ったのだった。
一方ジンラは、ゆりのことがあってかなり落ち着かなかった。ラクアの助けが得られそうなのはよかったが、誰かにこの話をしたくてたまらない。というわけで、火の神殿にやってきてサラディンに話していた。
「え？ 王妃が？ だからイシュタールがすぐに帰ったんだな」
サラディンもゆりのことは知らなかった。
「挨拶もなしに帰ったからおかしいと思っていたんだ。王妃が無事だといいが」
「アマンザはあの王妃のことをすごく好きみたいだから、知ったら泣きそうだ。早く回復してほしい」
「本当にな」
サラディンもイシュタールのことを思い、うなずいていた。
その頃ゆりの部屋に来ていたラクアは、癒やしの水でゆりの顔を覆って後、しばらくゆりの様子を見ていたが、やがて寝室から出て部屋の中をうろうろしだした。壁に並んでいる神々の絵画をじっくり眺めている。
「聖地で売っているやつか。僕のはいまいちだな」
ラクアは自分の絵画を眺めて言っていた。青い水瓶をもっているラクアの絵だが、ラクアの気高さを表しきれていないような気がする。絵画には共通点があった。全員ガーベラの恋人である。ここに一回り大きいグレンの絵画がかかってなかったのは幸いだったかもしれない。グレンは世界的にガーベラの恋人だと思われているわけではない。グレンの絵がない方がむしろ自然だった。しかも自分の絵よりもグレンの絵が大きいと、ラクアが気を悪くしたかもしれない。棚の上には気になる宝石箱のようなものが置かれていた。そして神石のネックレスが飾られている。
（ジンラはのぞいて、ハロルド、ラーズ、オルガ、サラディン、アマンザか……サントスはどうなんだろう。サントスの気持ちも聞いてみたいような。ガーベラは彼女のことが好きだ。普通の感覚では、違うよなあ。嫉妬するはず。ガーベラの嫉妬は彼女には起きない。なぜなんだ？）
「くーんくーん」
「ん？」
犬の鳴き声が聞こえて寝室に戻ってみると、ゆりが目を開けていた。ラクアはゆりの顔の周りにある水を上にあげた。
「ラクア様」
ゆりが視線を動かしてラクアを見上げた。
「やあ。懐かしい感触だったろう」
「はい」
「ジンラに頼まれたんだ。少し顔色がよくなってきたね」
「ありがとうございます」
「もうしばらく水に浸かっていなさい。僕がいるのは夕方までだから」
「はい」
ゆりの顔の周りを再び水が覆った。
王の間では、ラクシュミが緊張の面持ちである。まさか最初にラクアがやってくるとは思わなかった。ハロルドが最初だと皆予想していたのだが。
男達はゆりに気をあげられる状態ではないために、ラクシュミが自宅待機を命じていた。
「王、王も休んでくだされ。気力が半分以下ですから」
王の間にいた老人ザメハが言った。
「私は大丈夫だ。ゆりが元気じゃないと、何をするにも落ち着かないな。それよりラクア様にどうやってお礼を言えばいいだろうか。タイミングが難しいな」
ラクシュミはそのことで悩んでいた。
ベッドで寝ていたゆりは意識があった。顔が癒やしの水で覆われて、全く苦しくもなく、むしろ気持ちいいくらいだったが、少々困ったことがあった。
（やばい。トイレに行きたい）
出産してからトイレに行った記憶がない。
（ど、どうしよう……）
顔は覆われているので、今声が出せる状態ではなかった。ラクアにトイレに行きたいとは言いたくはないが、ここでもらすなんてそれこそ死にたくなる。トイレのことを考えるとますます行きたくなった。
（そうだ。あなたなら思念とか使えるんじゃないの？ なんとかして）
ゆりはもう一人のゆりにバトンタッチした。
少しして、シスと、戦士が二人やってきた。
「ラクア様すいません。母様がトイレに行きたいみたいなんです」
シスは遠慮がちにラクアに言った。
「トイレ？ ああ」
ラクアは癒やしの水をゆりの顔から上にあげ、戦士達がゆりを抱えて連れて行った。
「失礼します」
蛇の目のゆりは去りながらラクアに言っていた。
トイレから戻ってきたゆりは、ほっとした顔付きだった。本当ならば服も着替えたいところだが、ラクアをあまりまたせるわけにもいかない。
「おまたせしてすいません」
ゆりは戦士達にベッドに降ろしてもらってから言った。シスと戦士達は深く頭を下げて去っている。
「左目がかわってる」
ラクアはゆりの左目を見ていた。今は蛇の目のゆりが出ている。
「私時々こういう目になるんです」
「ふうん。そういえばラーズの目の色も変わってたよ。以前のガーベラの事件の時もかわらなかったのに、あれよりもショックなことがあったようだ」
「ラーズ様？」
（ラーズ様はもしかして、私のことを知ってる？ ラクア様が知ってるから当然か。ジンラ様に頼まれたって言ってたよね。じゃあみんな知ってるのかな）
蛇の目のゆりは余計なことは言わずに寝転んだ。
「今日は本当にありがとうございます。ジンラ様にも感謝していることを伝えてください」
「ジンラの他には？」
（他？）
「まあいいや」
癒やしの水が再びゆりの顔の周りを取り巻いた。
ゆりの左目は黒目に戻っていた。
（ラクア様にこれだけよくしてもらって、あのことを黙っているのも心苦しくなってきたなあ。元気になったら、暴露しちゃおうかな）
これだけ素の自分がよくしてもらったのだから、打ち明けた方がいいのかもしれない、とゆりは思った。だが今言うつもりはない。今怒られるのはきついので、体が元気になってからにしたかった。
ゆりはその後うとうとしてしまい、気がついた時にはラクアはいなかった。かわりにナナミ、ミシェイラ、レーヌとフレイがいた。
「ラクア様は？」
ゆりが聞いた。
「帰られたよ。ラクア様、ハンサムだね。お母さんにこれを渡してって言われたよ」
ナナミがゆりに青い小瓶を渡した。
「あ……」
ゆりが聖地でラクアにもらったものに似ていた。
「王妃、顔色が少しよくなったようですな」
フレイはうれしそうだ。
「マー」
「マー」
ミシェイラとレーヌもうれしそうだった。
「おなかすいちゃった。ナナミ、食べ物を頼んでちょうだい」
「わかった」
ナナミは瞬間移動で消えた。
「クーリーフン様が、こちらを持ってきてくれましたよ」
フレイが草の束と袋をゆりに渡した。袋の中には赤い小さい実がたくさん入っている。
「実は洗ってますから、そのまま召し上がってください」
「前にもらった草ね。今日はさすがにお風呂に入りたい。お風呂からでてから使おう」
ゆりは赤い実を一つ口に入れた。甘酸っぱい味がする。ミシェイラとレーヌがじーと見ていたので、ゆりは二人の口にも入れてあげた。
「すっぱ！」
「すっぱい！」
「この実はなんだろう。フレイは知ってる？」
「知りません。この国ではないのかもしれません。滋養がある実だとクーリーフン様はおっしゃっていたようです」
「へーミシェイラ、侍女にクロスが起きてたら連れてくるよう頼んでくれない？」
「わかった！」
ミシェイラは瞬間移動で出て行った。
「クロスの背中、まだよく見てない。やっぱりすごかった？」
ゆりがフレイに聞いた。
「はい。実は、それで男達が塞ぎ込んでいるようなんです」
「なんで？ 誰かの色がなかったとか？」
「二匹の大きさがかなり違っていて。子蛇が大きくなろうとして王妃の気を大量に奪ったのではないかと思っているんですよ」
「まさか」
侍女がクロスを抱いて連れてきてくれた。
「あーあー」
「ミルクはよく飲んでる？」
「はい」
クロスは手足をばたばた動かしていた。
「背中を見せてね」
フレイが手伝ってクロスの肌着を脱がして、ゆりはクロスの背中を見た。確かに二匹の蛇の大きさにはかなりの違いがあるようだ」
「よしよし」
ゆりは二匹の蛇をなでて、クロスに肌着を着せた。ナナミがパン粥を持って来てくれたので、ゆりはそれを口に入れた。
「みんな落ち込んでてここにこないのかな」
「いえ、王妃に大量に気を与えたので、まだ気力が回復していないのです。イシュタール以外は自宅待機を命じられてるんですよ」
フレイが答えた。
「そっか。みんなも大変だったんだろうね」
「みんなの涙を合わせると、あの水瓶が満杯になるよ」
ナナミが言った。ゆりは部屋の隅にある水瓶を見た。
「イシュタールが持ってきてくれたんだよ」
「そう」
癒やしの水は、ハロルドかアシュランがイシュタールに渡したのだろうとゆりは思った。
「母様早く元気になってね。母様が元気じゃないと、お城の中が暗くなっちゃうから」
「うん」
ゆりはパン粥を食べた後、ラクアからもらった水を口の中に入れた。爽やかな気分になり、ゆりは寝転んだ。ゆりはクロスを観察することにした。こうしているとゆりは赤ちゃんの時のシスを思い出す。そっくりなような気がする。
（銀の髪に金の瞳、シスみたいになるのかなあ。楽しみだね）
「くーんくーん」
ジロウがベッドの上に上半身をあげて、ゆりを見ている。
「ジロウ君も心配してくれたんだ？ 大丈夫だよ」
ゆりはジロウをなでなでした。
ゆりの部屋を出たフレイは、ムサカの部屋にいた。様子をみたいと言い張るフレイに、ムサカは仕方なくフレイを部屋に入れていた。
フレイはムサカの顔を見て言葉を失っている。ムサカの頬はくぼみ、目の周りにしわもふえていた。明らかに呪文を使う前より老いている。
「あの呪文は、寿命を縮めるものだったのですか？」
「そうだったのかもしれませんね。私は知りませんでしたし。なにせあの呪文を使うのは初めてでしたからなあ」
ムサカは頭をかいていた。
「気にしないでくだされ。前のあの姿より断然若いですし」
「ですが……」
二人は向かい合わせで座った。
「本当ならば、この時代の者達でどうにかしなければならなかったのに。申し訳ないです」
「私は満足しておるんですよ。王妃様が無事だった。それだけで。あの時、誰かが助けてくださった。きっと王妃様の無事を願う尊い御方が。呪文が使えてよかったと、心の底から思っておりますよ」
フレイの目に涙がにじんでいた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。私は今、充実しておるんですよ」
ムサカは心底そう思っているかのように微笑んでいた。
その夜は、ゆりはお風呂で体と髪を侍女に洗ってもらった。ここまでゆりを運ぶのにジェナサイトが来てくれた。
「王妃、無事でよかった。ユリウスも心配してました。」
「ありがとう。元気になったら会おうって言っておいてね」
「はい」
ジェナサイトはゆりを見て涙ぐんでいた。ゆりはジェナサイトに人形のように運んでもらい、部屋に戻してもらった。
ゆりは侍女に頼みさっそくナキリ草を体に入れてもらった。その後ラクシュミが「一緒に寝よう」とゆりを連れに来て、ゆりはその夜は王の寝室で眠ったのだった。
その夜、ラギは誰かにつつかれて目を覚ました。目を開けると淡い輝きを放つ黒衣の男がいて、ラギは「うわっ！」と驚きのあまり声を出していた。
「王妃が大変だと聞いたんだが、無事か？」
そこにいたのはオルガである。ゆりは寝室にいなかったので、子供に聞くことにしたようだ。
ラギはあわててベッドの上に正座していた。
「だ、大丈夫です。今日は、ラクア様のおかげで、ちょっと元気になってました」
「そうか」
「心配してくださってありがとうございます」
「いや、それじゃ。起こして悪かった」
オルガは去って行き、ラギはしばらくぼんやりしてしまった。
翌日、癒やしの水とラクアがくれた水のおかげか、ゆりは体調を少し取り戻していた。まだそんなには歩けないので部屋の移動は誰かに運んでもらわなければならないが、最悪期は脱したようだった。ラクシュミも侍女も、子供達も、ほっとした様子である。
一方自分の部屋で朝食を食べているハインリヒの元に、ムサカの侍女がやってきた。
「ハインリヒ様、申し訳ありませんが、ムサカ様の様子を確認してきていただけませんか？ 部屋には鍵がかかっておりまして、ノックをしても応答がないのです」
「わかりました」
ムサカは普段部屋に鍵はかけない。侍女は勝手に部屋に入りムサカの着替えや食事を運んでいた。
―ムサカ様？
ハインリヒはムサカに思念を送ってみたが、返答はなかった。
（もしかしてムサカ様に何かあったんじゃないだろうか）
不安になったハインリヒは、ムサカの部屋に瞬間移動したのだった。
つづく
１３部
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